スカイ姫のつぶやき街角北東部ルート
( 吾嬬神社入口・明源寺前~白髭神社入口 )

                            いってみよう (お店関係)


        吾嬬神社入口・明源寺前 

吾 嬬 神 社  萬年山明源寺  Kitchen KAMEYA 洋食館   かめぱん店(立花)


        立 花 大 正 民 家 園 入 口 

立花大正民家園 立花大正民家園(旧小山家住宅)裏門近くの素敵な古民家 

中川平井橋周辺


        白 髭 神 社 入 口 

白 髭 神 社 (立花)   東  漸  寺    それいゆ Deux




        吾嬬神社入口・明源寺前 



          吾 嬬 神 社 (連理の楠)
日本武尊(やまとたけるのみこと)とその
弟橘媛(おとたちばなひめ)

ゆかりの伝承を持つ神社で、連理の楠は竹垣で囲
まれ、しめ縄がかけられています。連理とは一つ
の根から2 つの幹が出たもので、大正年間に枯死
してしまい、枯れた根と一部の幹のみが残ってい
ます。日本武尊が走水で海に身を投じた后・弟橘
媛の霊を鎮め、食事をした後に箸を地に刺したも
のが連理の楠に成長したといい、瑞兆、神木として
崇めるようになったそうです。江戸七森めぐりや
太田道灌七稲荷めぐりの一つだそうです。
住 所 / 東京都墨田区立花1-1-15 





            







吾 嬬 神 社
御祭神
  弟橘姫命合殿日本武命
縁 起
抑当社御神木楠は昔時日本武命尊東夷征伐の御時相模の國に御進向上の國に到り
給はんと御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て御船危ふかしりて御后
橘媛命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに成りぬれ
共御舟を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの
嶋忽然と現到る御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻戀しと宣ひし
に俄に東風吹耒りて橘媛命の御召物海上に浮び磯辺にただ奇らせ給ひしかば尊大き
に喜ばせ給ひ橘媛命の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき瑞離を結び御廟となし
此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ海上船中の守護神たり尊神ここに食し給ひし楠の
御箸を以て末代天下平安ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて御手自ら御廟
の東の方にささせ給ひしに此御箸忽ち根枝を生じし処葉茂り相生の男木女木となれ
い神代より今に至りて梢えの色変らぬ萬代をさめし事宛然神業なり其後民家の人々
疫にあたり死する者多かりしに時の宮僧此御神木の葉を与えしに病苦を払ひ平癒せ
しより諸人挙って尊び敬ひぬ今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服する
に如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし凡二千有余年の星霜おし移ると云へ
共神徳の変らざる事を伝ふべし共猶諸人の助けとならんと略してしるす也
 





        





         

《墨田区登録文化財》
吾 嬬 の 森  碑(あづまのもりひ)
     
所在地  墨田区立花一丁目一番十五号  吾嬬神社内
この碑は、明三年(一七六六)に儒学者山県大貳(やまがたたいに)により建立された
と伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する
神社の森のひとつとして「葛西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。
碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊(やまとたけるのみこと)
東征、尊の妃・弟橘媛(おとたちばなひめ)入水(じゅすい)により海神の怒りを鎮めたこと、
人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれて
います。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
神木とは、墨田区登録文化財である「連理(れんり)(くす)」のことです。一つの根から
二つの幹を見せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は
広重の作品「江戸名所道化盡(どうけづくし)吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高く
そびえるのが「連理の樟」です。明治四十三年(一九一○)の大水や関東大震災、
東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を
通じても垣間見ることができます。
   平成二十一年三月
                             墨田区教育委員会
 





        





 

〈墨田区登録文化財〉
狛 犬  安永二年五月銘
       所在  墨田区立花一丁目一番

この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人一0名と奉納者二二名もの名前が刻まれて
います。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地六・七丁目)や本船町地引河岸
(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながり
をよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています
日本の神話に、日本武尊(やまとたけるにみこと)が現在の東京湾を舟で渡っている時に
海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投げて
海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だった
ということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
 また、地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山
のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。
 現在、鉄柵の奥にあるために近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた
人名など、良い状態で保存されています。
平成九年三月    墨田区教育委員会





        





        





          





        







吾 嬬 神 社
御祭神  弟橘姫ノ命
     日本武ノ命
縁 起
往時は吾嬬の森八丁四方と云はれまた浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った森林の
神域にあった名社である草創は遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼり御祭神は
弟橘姫ノ命を主神とし日本武ノ尊を御合祀奉斉してあります。正治元年(一一九九)
北条泰時が幕下の遠山丹波守らに命じて神領三百貫を寄進し社殿を造営した嘉元
元年(一三〇三)開創の真言宗宝蓮寺現亀戸四丁目を別当寺とし吾嬬大権現と称した
以後武家の尊宗があって安永三年(一七七四)大川橋の新設にあたり江戸から当社え
の参道にあたるところから橋名を吾妻橋と称したともいい明治二十一年に数村を合
せて吾妻村と称したのは時の府知事高橋五代の発案で社名をとったのである。抑当社
御神橘は昔時日本武ノ命東夷征伐の御時相模の国に御進向上総の国に到り給はん
と御船に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御船すでに危ふかりしに御右
橘姫の命海神の心を知りて御身を海底に沈め給かしかば忽海上おだやかに鎮りたり
時に一つの島忽然と現れ到る心を知りて御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひて
あ丶吾妻恋しと宣ひしに俄かに東風吹き来りて橘姫ノ命の御召物海上に浮び磯部に
た丶寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ橘姫ノ命の御召物を則此浮洲に納め築山
をきづき御廟となしたりこれ現在の御本殿の位置なり此時尊は食し給ひし橘の御箸を
以て末代天下平安ならんには此箸忽ち根枝を生じし処葉茂り連理の男木女木となれり
神代より二千有余年の星霜おし移ると云へ共尚梢えの色変らず栄えし処名樹も第二次
大戦の災禍を被り焼け落ちて化石の如き姿で残った其一部を以て賽銭箱を造りご神前
に永く保存される事となった以後御神徳に依る数々の奇瑞を現わし諸人の助けとなり
たる神樹を惜みて明治維新百年祭を記念して元木に優る名樹日本語成長を祈念しつつ
二本の若木が植えられた爾来十年余念積成就の兆し現れ日毎に葉茂り枝栄えたりこれ
こそ御神木の再生ならんと此由来を御世に伝えんと略してしるす也
平成二十四年十月  江都西葛飾 亀戸郡 七十八歳 老書 樰澤信博
 






江戸近郊八景之内
吾嬬杜夜雨
絵師:広重
収載資料名:江戸近郊八景

               
名所江戸百景 吾嬬の森連理の梓
絵師:広重 出版者:魚栄
刊行年:安政3
 






絵本江戸土産第十編  吾 嬬 の 森
中央は吾嬬の森、森の中に吾嬬明神(現 吾嬬神社)
右の川は北十間川です。
       
江戸名所図会  第4巻 
 著者:斎藤幸雄 [等著]
  国会図書館蔵






※江戸名所図会 7巻. [18]  著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]  国会図書館蔵 
出版者:須原屋茂兵衛[ほか]  出版年月日:天保5-7 [1834-1836]







  
東都名所 吾嬬之森 著者:広重
出版者:佐野喜  収載資料名:東都名所

  
          






※江戸名所図会 第4巻  著者:斎藤幸雄 [等著] (国会図書館蔵)
※江戸名所図会 7巻. [18] 著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか] 出版年月日:天保5-7 [1834-1836]

          
東都舊蹟畫 吾嬬の森の故事
 






       明 源 寺
曹洞宗駒込吉祥寺の末寺で、萬年山と号し、大州安充
(永禄12年寂)が開山梅巌桂林(弘治3年寂)が開基
となり天文9年(1540)に創建したと伝えられます。
南葛八十八ヶ所霊場71番札所です
住 所 / 東京都墨田区立花1-13-10 





        





          





        









        立 花 大 正 民 家 園 入 口 



       立 花 大 正 民 家 園 (旧小山家住宅)
江戸時代からの農家と町家の雰囲気を今に伝える20世
紀初めの建築物で、関東大震災、東京大空襲の災害も
まぬがれました。墨田区の文化財となっています。
(利用が無い時は無料で住宅内を見学できます)
住所 / 東京都墨田区立花6-13-17   電話 / 03-3611-4518
定 休 日 / 12月29日~1月3日 入園料 / 無料
開館時間 / 9時~4:30(庭園部分)





立花大正民家園旧小山家住宅の年間イベント
 庭には七福神の像があり、わずか1分間で七福神めぐりができるスポットになっています。
 3月3日のひなまつりにちなみ、毎年2月下旬から3月上旬まで小山家のひな人形を中心に展示します。
 5月5日の端午の節句にちなみ、毎年4月下旬から5月上旬まで小山家の五月人形を展示します。
お問い合わせ・・・すみだ郷土文化資料館が担当しています。(電 話 / 03-5619-7034)
 





          





          





          







〈墨田区指定有形文化財〉
旧 小 山 家 住 宅

 
所在地  墨田区立花6丁目13番17号
             立花大正民家園内
旧小山家住宅は、大正6年(1917)建築の平屋建寄棟造瓦葺の住宅で、平成10年(1998)に
墨田区に寄贈されました。この住宅は、土間のある整形四間取(方形を4等分した田の字型
の間取り)の典型的農家の構造形式と、出格子窓や堅格子戸など町家の伝統に客間を充実
させた構造とを併せもち、近代以降に普及したと考えられる都市近郊住宅の特色をよく
留めています。正面に玄関を二つに設け、縁側の両端に押入れと便所を配置している構造は、
墨田区周辺地域の他の民家にも見られます。昭和10年代に屋根を茅葺から瓦葺に葺き替えた
ほか、土間に床を張るなどの改修が部分的に行われていますが、板ガラスも当時のまま
の状態で残されるなどほぼ原形を保っており、建築当初の姿を伝えています。関東大震災
や東京大空襲などをのがれた旧小山家住宅は、都市化の進んだ墨田区内で数少ない歴史的
建造物として、近代以降のこの地域の人々の生活様式の変化を伝える貴重な文化財です。

平成二十七年三月
                             墨田区教育委員会





        





        






黒い壁の下の部分に漆を混ぜて塗
った壁が光って見えます。
               










屋根裏におさめられていた小山家ゆかりの雛人形と愛らしい日本人形や雛人形の数々、掛軸など

            





        





 令 和 7 年 度

         





            





立花大正民家園(旧小山家住宅)の管理
すみだ郷土文化資料館
隅田川を中心とした墨田区の歴史・伝統文化を紹介し、
その遺産を継承していくことを目的としたふるさと博物館。
住 所 / 東京都墨田区向島2-3-5   電 話 / 03-5619-7034


          





立花大正民家園(旧小山家住宅)裏門近くの素敵な古民家

        






      旧 中 川 水 辺 公 園(平井橋周辺)
荒川放水路により分断された中川の下流、墨田区東墨田
から江戸川区小松川へと続く6.68kmの区間が旧中川で、
旧中川水辺公園からは東京スカイツリー荒川放水路
により分断された中川の下流、墨田区東墨田から江戸川区
小松川へと続く6.68kmの区間が旧中川で、旧中川水辺公園
からは東京スカイツリーを眺めることができ、墨田区、
江東区では河畔に旧中川水辺公園が整備されています。





         





         









        白 髭 神 社 入 口 



      白  髭  神  社 (立花)
葛飾郡葛西川村の鎮守で社伝によれば、天和2年(1682)
当時の庄屋であった鹿倉吉兵衛と関口一郎治が幕府の
許可を得て勧請したといわれています。昭和19年(1944)
村社に昇格。現在の本殿は大正12年(1923)、幣拝殿は
昭和46年(1971)の造営である。社殿左手にある明神
鳥居は安永9年(1780)に寄進されたもの。墨田区内で
も最古に属し、区の登録有形文化財に指定されている。
住 所 / 東京都墨田区立花6-19-17 





        





          





 

白 髭 神 社 御 由 緒
御祭神  猿田彦大神
 猿田彦大神、またの御名を大地御祖(おおづちのみおや)神と申し上げ、天孫「ニニギノ尊」
が我が國土におくだりになった際、天の八街(はちまた)にお出むかえ申し上げ、天孫を高千穂
の峯に道案内申し上げ、この大任を果されてから伊勢の五十鈴の川上に宮居を定められ、こゝを
中心に広く國土開拓の指導にあたられました。御神徳高い大神は白髭大神・佐田大神(伏見稲荷
大社御祭神) 道祖神(道しるべ)庚申(長命)さまとして全国津々浦々にお祀りされております。
大神は古くより物事の始めに災いを祓い給い最も善き方へお導き下さいます御神穂をおもちに
なり、海陸の交通の安全を護り商工業の繁栄、田畑、山林、宅地の凶を払い、土の御祖神として
あまねく万人万事に尊い御神恵を垂れさせ給う大恩神でございます。当社は古来より南葛飾郡
葛西川村の鎮守神であり、新編武蔵風土記に「村の鎮守とす」と記されている。葛西誌による
と創立は霊言天皇の御代天和二年、徳川綱吉将軍 (五代) の時代で、当時の庄屋鹿倉吉兵衛、
関口一郎治両氏が幕府に許しを受け、現在地の中川のほとりに社地を定め里人を導きて当社を
勧請した。現在の御本殿は大正十二年の御造営にして、幣殿拝殿は昭和四十六年氏子崇敬者の
熱誠溢れる努力により御造営された。






        金林山明了院 東 漸 寺(とうぜんじ)
天台宗寺院の東漸寺は、文安元年(1444)秀尊法印
が創建、円挙法印が宝永年間(1704-1710)に中興した
と伝えられます。本尊は阿弥陀如来で、葛西三十三所
観音参りの一つに数えられた十一面観世音が安置
されています。
住 所 / 東京都墨田区立花6丁目17-4
電 話 / 03-3611-5325





        





             







〈墨田区登録文化財〉
庚 申 塔 ( 道標付 )
 所 在  墨田区立花六丁目十七番四号  東漸寺内
 
この庚申塔は宝暦十三年(一七六三)十一月の銘を持つ駒形の??で、正面には青面
金剛像を半肉彫りし、一鬼・二鶏・三猿を配した典型的な庚申塔ですが、左側面には
「左やくし道」、右側面には「右市川道」と刻まれており、木下川(きねがわ)薬師
(元は荒川放水路の中程にあった) へ抜ける道と市川へ抜ける道の分岐点に立てられ、
道標の役割を兼ねていました。このことから、元は当寺より南を通る平井街道(平井の
渡しから東は市川道と呼ばれた)沿いにあったものが、当寺に保管されたものと思われます。
かつては区内にも、いくつもの街道が交差し、多くの道標が立てられていたものと思われ
ますが、数々の災害に見舞われ、区画が整理されたため、現存する道標は少なく、
庚申塔と兼ねているものはこれ一基のみで、貴重な存在となっています。
                   平成四年三月
                          墨 田 区
 

                                                TOP






つぶやきいってみよう(お店・工場関係)



        吾嬬神社入口・明源寺前


      
Kitchen KAMEYA 洋食館
一軒先にかめパン店(立花)があります。
住 所 / 東京都墨田区立花2-1-11  定 休 日 / 月曜日
電 話 / 03-3619-0547
営業時間 / 11:00~15:00(L.O.14:30)
     17:00~21:00(L.O.20:30
)





        





        






      
か め ぱ ん 店 (立花)
一軒先にキッチンカメヤがあります!
住 所 / 東京都墨田区立花2-1-11  定 休 日/ 毎週火曜日
電 話 / 03-3619-2223  営業時間 / 6:30~19:00





             





        









         白 髭 神 社 入 口 



     そ れ い ゆ Deux
一人2個限定販売のアンドーナツ!
カレーパンもあっとゆうまに売り切れでした
住 所 /東京都墨田区立花4-30-16  
電 話/03-5631-3305
定 休 日/土・日・祝日
 営業時間 /10:00~16::30
 





             





             

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墨 田 区 内 循 環 バ ス 時 刻 表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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