スカイ姫のつぶやき街角北西部ルート7
見番通り入口〈桜橋東詰〉②【隅田川沿い】
墨田区内循環バス北西ブルート7には、②見番通り入口(桜橋東詰)があり桜橋通り
に面しています。見番通りを3エリアに分けた2番目の隅田川沿いです。


                              


   

葛飾北斎案内板⑭(須佐之男命厄神退治之図) 葛飾北斎案内板⑮ 三囲牛御前両社之図

墨田区立隅田公園少年野球場(王選手) 向島言問団子  言問い団子と郡司大尉案内板

 
言問団子桟橋
 石造墨堤永代常夜燈 隅田川桜橋と周辺 鬼平情景みめぐりの土手

野口雨情記念詩碑 墨堤植櫻之碑  和菓子 長命寺桜もち山本や(正岡子規仮寓の地)

正岡子規仮寓の地案内板  三浦乾也旧居・窯跡  牛嶋神社誕生の地

 高原基金の森    竹屋の渡しと堤下の大鳥居(三囲神社)   隅田公園魚つり場

 隅田公園散策解説板5→桜橋とポトマック帰りの桜 (ワシントンからの贈り物)

 隅田公園散策解説板4→開園当初の隅田公園 (写真に見る昔の隅田公園)

隅田公園散策解説板6→常夜燈と渡し舟(隅田川の水運と向島風情の象徴)


 隅田公園散策解説板7→艇庫とレガッタ(レガッタによる隅田川の賑わい) 





   



        葛飾北斎 ⑭ 須佐之男命厄神退治之図 
Susanoo no Mikoto Yakujin Taiji no Zu
(Killing the God of plague)

葛飾北斎晩年期の傑作といわれている、縦1.2m余、
横2.8mに及ぶ大きな板絵です。北斎は弘化2(1845)年頃、
牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、
この板絵を奉納しました。

住 所 / 東京都墨田区向島5丁目4番地(隅田川緑道公園)  





           





     



須佐之男命厄神退治之図
葛飾北斎晩年期の傑作といわれている、縦1.2m余、横2.8mに及ぶ大きな板絵です。北斎は弘化2(1845)年頃、
牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、「須佐之男命厄神退治之図」を奉納しました。
この作品は悪病をもたらす厄神たちに今後は悪事を働かないように須佐之男命が証文を書かせている
場面を描いたものです。画面右下には「前北斎卍筆 齢八十七歳」の落款があります。残念ながら
大正12(1923)年、関東大震災で消失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の
社殿に飾られています。

This is said to be Katsushika Hokusai' s masterpiece created near the end of his life.It is a large picuture
drawn on a board 1.2m in height and 2.8m in width and it is said that Hokusai created it around 1845 while
he was living near the Ushijima Shrine (currently Mukojima 1-Chome), and it was dedicated to Susanoo
no Mikoto Yakujin Taiji no Zu. This work depicts a scene in which Susanoo no Mikoto is writing a
etter to the god of pestilence imploring tim not to spread disease in the future. The seal of Zen
Hokusai Manji- Hitsu(signature), 87 Years Old is located in the bottom right-hand corner. Unfortunately
this picuture was destroyed during the Great Kanto Earthquakeof 1923, and a restored version of the
panel in the same dimensions is currentlydisplayedin the main building of the Ushijima Shrine.






       葛飾北斎板 ⑮板浮絵 三囲牛御前両社之図
Shinpan Ukie Mimeguri Ushi no Gozenryousha no Zu

版元・伊勢屋利兵衛から板行された「新板浮絵」
の一枚です。文化(1804~18)中期、葛飾北斎50
歳頃の作品とされています。

住 所 / 東京都墨田区向島2丁目7番地(隅田川緑道公園)





            





     


新板浮絵 三囲牛御前両社之図
版元・伊勢屋利兵衛から板行された「新板浮絵」の一枚です。 浮絵とは西洋の遠近法を取り入れた浮世絵
技法の一つで、手前が浮き上がって見えることから名づけられました。文化(1804~18)中期、葛飾北斎50歳
頃の作品とされています。手前に鳥居のあたまだけ見えているのが特徴的な三囲神社は隅田川沿いの名所の
ひとつで、かつて田中稲荷と呼ばれ毎年2月の「初午の祭り」には多くの人出がありました。寛政11(1799)年
のご開帳は特に盛大で北斎も作品を奉納したと伝えられています。画面左奥には牛御前 (現牛嶋神社) も
描かれています。

A print from the Shinpan Ukie series printed from the original lseya Rihee woodblock. Ukie, which means
“floating picuture,”are prints using the ukiyoe techniquse to which Western styles of perspective have been
added,and they are so named as the foreground seems to stand out as if floating.Katsushika hokusai created
this print between 1804 and 1918 when he was around 50 years old. Only the top of the torii gate can be seen
in the foreground, but the impressive Mimeguri Shrine was a famous place along the Sumida River, and many
people attended the “Hatsuuma Festival”, which was known as Tanaka Inari ,held in Feburuary every
year. This was Particularly popular in 1799, and it is said that Hokusai donated this work to it.
Ushi Gozen] (currently Ushijima Shrine) is written at the back of the left-hand said of the print.






     墨田区立隅 田 公 園 少 年 野 球 場
昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への
希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒
地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初
の少年野球場です
世界の ホームラン王、巨人軍
王貞治氏もこの 野球場から育ちました。
住 所 / 東京都墨田区向島5丁目5 
 





         





         





         





         





              

隅田公園少年野球場
この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、
有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。以来数多
くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王
貞治氏もこの球場から育った一人です。
    昭和61年3月
                 墨田区教育委員会






       言問団子と郡司大尉案内板
言問い団子の裏手にある桟橋からは、明治26年3月
20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が
出発しました。冒険家で北方領土の問題を憂いていた
軍人さんだったそうです。この時、大尉の弟
幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている
住 所 / 東京都墨田区向島5-5-22





         













言問い団子と人力車(明治期) 
     
大正13頃の言問団子 
      


The dumpling that inspired the naming of Kototoi Bridge and Kototoi Syreet
Kototoi Dango and Lieutenant Gunji

言問団子と郡司大尉

江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振る舞う「植佐」という団子屋
を開くと、花見客や渡航客の間でも人気となった。明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、
在原業平が詠んだ
「名にしおはゞ いざ言問はん都鳥 我が想ふ人は ありやなしやと」
に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを
「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」
は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。また、この裏手にある桟橋
からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している、隅田川両岸はこれを
憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。
この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。

This district was originally named Kototoi-ga-oka by a gardener Toyama Sakichi, inspired by the word
kototoi (to speak or exchange words) in a poem penned by Ariwara no Narihira, Toyama went on to build
the Narihira Shrine and open a dumpling store, where Kototoi Dango (dumplings) were born. In 1893, an
expedition bound for the Kuril Islands was launched from a jetty near here under the command of
Lieutenant Gunji.






        言 問 団 子 桟 橋
桜の時季や花火大会の時に、屋形船の船着場
として活躍しているそうです。
案内板には「在原業平」の名句、
「名にしおばいざ言問はん都鳥 我が思ふ人は
ありやなしやと」と書かれています。
住 所 / 東京都墨田区向島5丁目5-22の先





         





         





         





         





         





        






         向  島  言  問  団  子
向 島 の 銘 菓、三 色 団 子
在原業平が東国を旅した時に読んだ有名な和歌
「名にし負はばいざ言問はん都鳥 
                  我が思ふ人はありやなしやと」
より言問団子と名付けられました。
住 所 / 東京都墨田区向島5-5-22  電 話 / 03-3622-0081
定 休 日 / 火 曜 営業時間 / 9:30~18:00 



江戸末期に植木屋の外山佐吉により創業され160年の歴史があります。池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」にも登場!
幸田露伴など多くの文人が訪れていて、やり取りした直筆の手紙が店に残っています。
大正ロマンの画家竹久夢二も大好物だったようで、日記や版画にも描かれているそうです。




         





         





          





              





         





        
在 原 業 平
      
三浦乾也作のお皿


言 問 団 子 の 由 来
その昔右近衛中将在原業平朝臣東国を旅行して武蔵に来たり下総国との境を流れる隅田川で
白い水鳥の鴎を見渡守にその名を問うて都鳥と聞くやひとしお都恋しくて旅愁をそゝられ
名にしおはゞいざ言問はん都鳥          我が思う人はありやなしやと
有名な和歌を詠んだ古事に感じ弊店の祖先が現在の地に業平神社を建てゝ業平朝臣を祀り
この辺りを言問ヶ岡と稱るに至った元禄の頃比より江戸郊外の向島は四季折々の眺めに富
んだので文人墨客の散策するもの多く偶々杖を曳く風雅の人の求めに応じて手製の団子や
渋茶を呈したのがそもそも弊店特製言問団子の由来で江戸以来東京名所名物の一つとして
今に受け継ぎ皆様方の御贔屓を忝うじている次第であります。
言問亭 主人





月 見 の 会 (向島百花園)
令和4年9月9日~9月11日



令和4年9 / 9 (金) ~9 /11 (日) 
          
お月見の3日間百花園で言問い団子が買えるなんて
嬉しいですね!2年ぶりです!






言問い団子桟橋から出航

            






         石造墨堤永代常夜燈
5mをこえる高さで、明治4年(1871)の牛嶋神社の臨時祭
に併せて奉納されました。元来は墨堤から牛嶋神社旧
地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。
設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、
常夜燈の火が隅田川を往来する川舟のための灯台の役目
もしていたそうです
住 所 / 東京都墨田区向島5-4 





            





           





 
小林清親「墨田堤の花見」明治9年(1876)頃
(町田市立国際版画美術館蔵)
 


墨田区指定有形文化財
石造墨堤永代常夜燈

  所在地  墨田区向島5丁目  隅田公園内
  所有者  宗教法人 牛嶋神社
石造墨堤永代常夜燈(せきぞうぼくていえいたいじょうやとう)は、高さ5mを超え、琴柱(ことじ)
状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を
表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工
宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。東京府文書によれば、この常夜燈は、
江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子17名、具体的には植半や八百松、武蔵屋
などの有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治4年(1871)の牛嶋神社の臨時祭
に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。
設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用された
ことがうかがわれます。発起人17名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する
人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表
する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成28年7月21日、墨田区有形文化財
に指定されました
平成29年2月
        墨田区教育委員会

Treasury stone night-light at the banks of the Sumidagawa river This lantern is one of thcultural
properties in Mukojima being famous for its cherry blossoms, built by parishioners of the
Ushijima-jinjya shrine in 1871.





隅田公園 散策解説版⑥ 常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴


           





          

隅田公園 散策解説版⑥ 常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴

Joyato and ferryboats-water transportation of Sumida River and the symbol of Mukojima taste
この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境 内地でした。牛嶋神社は
隅田公園の整備とともに現在地に 移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。
それは墨堤における重要な目印であったためです。この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設
けられ、春の花 見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと 遊興客を数多く
運んできました。まだ照明が発達していな いこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要
な役割を 果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの 常夜燈を好んで組み合わ
せることにより、向島の風情を描 きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を
今に伝えています。

The place where put this “Joyato(night-light)”was precinots of Ushijima shrine once.
Although Ushijima shrine was relocated to its present location with construction of
SumidaPark. only this “Joyato”was left behind here because it was an important mark
in “Bokutei” “Takeya-no-watashi (ferryboat)” was set up this neighborhood Once,and
many visitors were carried to sightseeing areas. They enjoyed cherry blossom viewing
at spring ,fireworks at summer, and Karyukai (the world of geisha girls, women with
refinedmanners) in Mukojima in Meiji era for instance. This “Joyato”was very important
role then because lighting technologies had not developed yet. In Meiji era, many
painters preferred to express the taste of Mukojima by painting the matching of cherry
blossoms in “Bokutei”and this“Joyato” It remains its figure as the suitable symbol
of Mukojima in those days.






絵本江戸土産 10編. [1] 広重 著者:松亭金水 解説[他]
出版者:菊屋三郎[ほか]
隅田川の東側からの絵で、筑波山が見えます。
        
江戸名所図会 7巻. [19]  隅 田 川 堤 春 景
著者:松濤軒斎藤長秋 著[他]
出版者:須原屋茂兵衛[ほか]
出版年月日:天保5-7 [1834-1836] 






       隅 田 川 桜 橋 と 周 辺
桜橋は台東区と墨田区の姉妹提携事業として
1980年に創架が始まり、1985年に完成
した隅田川唯一の歩行者専用橋です。  
住 所 / 東京都墨田区向島5-1-1






 
          
双鶴飛立の図・(東京芸術大学名誉教授平山郁夫作)





           





模型が本物に写る場所!

             





         





         





         





     








◆隅 田 川 テ ラ ス
隅田川では河川テラスを順次整備しています。この河川テラスを歩くと勝鬨橋から白鬚橋まで隅田川を眺め
ながら散策することができます。川沿いには江戸東京の歴史や文化を今なお残している町があり、テラスを
歩くと今まで知らなかった隅田川のすばらしさ、なつかしい面影に出会うことができるかもしれません。
この付近には牛嶋神社、三囲神社、常泉寺、円通寺等の神社仏閣のほか、すみだ郷土資料館、藤田東湖の
正気の歌碑、堀辰雄の住居跡などがあります。





         












        
隅田公園 散策解説板5
桜橋とポトマック帰りの桜
ワシントンからの贈り物
住 所 / 東京都墨田区向島5-1





         





        

隅田公園 散策解説板5
桜橋とポトマック帰りの桜
ワシントンからの贈り物

Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac-as a present from Washington D.C
台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和52年に姉妹区協定を結びました。この記念
事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和60年に桜橋が完成
ました。この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.の
ポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領
夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎
行雄東京市長がプレゼントしたものです。約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。

In 1977 (Showa 52), Taito-city and Sumida-city made a sister-city agreement since they are facing over the
Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge for pedestrians along Sumida Park
as planned and “Sakura Bridge”was completed.In constructing this bridge, some cherry trees were sent
from Washington D.C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D.C. is one of th
cherry blossom in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D.C. In response to her
wish Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C. After about 70 years, the
posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.






        鬼 平 情 景
     みめぐりの土手
「大川の隠居」に登場します。大川(隅田川)の土手
のうち三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺り
を指したようです。 作品名になった大鯉が現れる直前
の場面で、舟から暮色に沈む風景を描写しています。
住 所 / 東京都墨田区向島2-1-4  





       





                





      

鬼 平 情 景
みめぐりの土手

「大川の隠居」に登場します。大川 (隅田川) の土手のうら、三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える
辺りを指したようです。作品名になった大鯉が現れる直前の場面で、舟から暮色に沈む風景を描写しています。
土手の裏には長命寺、寺嶋のくろぐろとした木立が望まれ、目を転ずると浅草寺の大屋根が月光をうけている。
概ねこのような内容ですが、両岸の寺社の位置関係がよく分かります。竹屋の渡しで結ばれたこの流域からは
鬼平犯科帳には三囲神社、対岸の待乳山聖天をはじめ料亭、船宿が多く登場します。「大川の隠居」では平蔵
が友五郎を誘って、山谷堀の今戸橋近くの船宿(嶋や)に上がります。杯を交わしながら、平蔵が亡父遺愛の
に煙草を詰めるところで実に小気味のよい結末となります。






        
隅田公園 散策解説板4 開園当初の隅田公園
写真に見る昔の隅田公園 
住 所 / 東京都墨田区向島





         





       

隅田公園 散策解説板4
開園当初の隅田公園
写真に見る昔の隅田公園
The beginning of Sumida Park in pictures
隅田公園は隅田川を挟んで、本所区 ( 現墨田区 ) と浅草区 (現台東区) にまたがっています。本所側は、
水戸徳川家小梅邸の敷地を活用した庭園と墨堤の桜並木を活用して遊歩道の整備を行いました。近代都市
計画の手法により江戸の堤、河川沿いの桜並木の復活という点では、日本の伝統的なランドスケープ (風景)
と西洋の近代的都市計画技術の合体が見事に成功した有意義な事業でした。また公園のデザインはシンプル
かつ上品で控えめなものであり、デザイン思想の点で今日学ぶべき所が多あります。

Sumida Park locates on the both sides along the Sumida River in Honjo city (current Sumida city) and in
Asakusa city (current Taito city). The developments of a garden and an esplanade were carried out on
Honjo side. The garden used the site of Mito Tokugawa Koume residence, and the esplanade utilized
the scenery of a row of cherry trees in Bokutei. It was a fruitful project that the integration of
Japanese traditional were succeeded. This intergration revived the banks of the river and a row of
cherry trees. The design of the park was simple,elegant,and modest. There are a lot to learn in
current design thought.






        
隅田公園 散策解説板7
艇 庫 と レ ガ ッ タ
レガッタによる隅田川の賑わい
所 在 地 / 墨田区向島5-1 (隅田公園)





              









       


隅田公園 散策解説板7
艇庫とレガッタ
レガッタによる隅田川の賑わい

Boathouse and Regatta ━ vibrant Sumida River with Regatta

レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、日本における発祥の地は隅田川
です。1883年 (明治16年) 日本初のレガッタが向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、
隅田川はレガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島線向島ランプ及び屋内プール体育館の辺
りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大勢の観衆が埋め尽くしました。
しかし水質の悪化等の理由で、1967年 (昭和42年) の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消え
した。近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。
Regatta was the most popular sport among students in Meiji era and Taisho era. The birthplace in Japan is
Sumida River. After the first regatta race in Japan took place in Mukojima in 1883 (Meiji 16), it began to be
played frequently among schools and companies. And Sumida River became the center of regatta race.
Since a number of boathouse were built along the river, people called the place “Village of boathouse”
(Many of those boathouse located between present Metropolitan Expressway rout 6 Mukoujima-on-ramp
and lndoor Swimming pool.) Once regatta race took place, a crowd of people gathered and filled the riverside
However, the last boathouse (Hitotsubashi-University’ s boathouse) has moved out in 1967 (Showa 42)
because of water pollution, boathouse no longer exist along the river since then. In recent years, regatta race
in Sumida River revives as wate is purified. Regatta is going to regain the former life.






       野口雨情記念詩碑
日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和八年、
門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、
唱われたものである。
詩人、童謡と民謡の作詞家で多くの名作を残し、
北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人
といわれていたそうです。
所 在 地 / 墨田区向島5-1 (隅田公園)  





         



             








都鳥さへ夜長のころは 水に歌書く夢も見る
 ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和八年、門下生の詩謡集
の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川
ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。
 昭和六十三年十月九日 
                                 墨 田 区 





         





         






      墨 堤 植 桜 之 碑
墨堤の桜として江戸の名所となった墨堤の桜は、初め四代
将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保
2年(1717)に八代将軍吉宗が100本の桜を、同11年には
桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々隅田村の名
主阪田氏が担当しました。阪田三七郎 其角堂永機、旧
水戸藩知事、
寺島村の人々、蔵喜八郎、成島柳北、
安田善次郎、川崎八右衛門小野義真、本所区長飯島
保篤
の方々が心向けてくださいました。
住 所 / 東京都墨田区向島5-1





               





              





         








          

隅田公園 散策解説版8
墨堤植桜之碑と桜勧進
住民が育てた墨堤の桜
“Shokuou-no-Hi”in Bokutei and “Sakura-Kanjin”-Cherry trees grown by local people

 江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)
付近を中心に植えられました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の
桜が南へと延伸して行きました。墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年
ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけでなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる
寄付が行われています。墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています

Bokutei establ ished a reputation as a good place of cherry blossom viewing in Edo era. Those cherry trees
had planted only around Suijin shrine (current Sumidagawa shrine). From 1800s, volunteers in local village
planted many cherry trees along the river to the South. A row of cherry trees in Bokutei was gradually
extended to “Chomei-ji temple” “Mimeguri shrine” and it reached “Makura Bridge” in about 1880. During
the time, there was also a donation for planting cherry trees called “Sakura-Kanjin”promoted by those
volunteers. It is curved on “Shokuou-no-Hi (monument)” that cherry trees in Bokutei were loved
by local people.





 

墨 堤 植 桜 の 碑
        所 在  墨田区向島五丁目一番 隅田公園

この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額(てんがく)、濱邨大澥(はまむらたいかい)の撰文、
宮亀年の彫刻です。墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保ニ年
(一七一七)に八代将軍吉宗が百本の桜を、同十一年には桜、桃、柳各百 五十本植えさせ、その世話は代々
隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢塢(きくう)、朝川黙翁、中山ト?が百五
十本、天保ニ年(一八 三一)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。弘化三年(一八四六)洪水で堤が
決し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村 人が百五十本、安政元年(一八五四)
に阪田三七郎が二百株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。さらに
大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、この
ことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、
安田善次郎、大倉喜八郎、
川崎八右衛門
が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。このような功績を永世に伝えるため、
明治二十年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、
安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
             平成ニ年三月
                     墨 田 区







         三 浦 乾 也 旧 居・窯跡
天賦の才に恵まれ、若くして乾山焼き6代を襲名した。
陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川
破笠が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけ
るなど、多芸多才の士としても知られた。
破笠(はりつ)
細工にすぐれ、その手法を応用しかんざし・(こうがい)
などの(たま)は乾也玉と呼ばれ人気を博した。
住 所 / 東京都墨田区向島5-1-14





               







A potter who also mastered the art of shipbuilding
Residence of Miura Kenya
三 浦 乾 也 旧 居 ・ 窯 跡

天賦の才に恵まれ、若くして乾山焼き6代を襲名した。陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に
絵を習い、小川破笠が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけるなど、多芸多才の
士としても知られた。嘉永6 (1853) 年、32歳の時に人生最大の転機が訪れる。黒船来航である。
驚愕した乾也は、幕府に造艦を建白、雄藩にもその必要性を説き回った。これが認められ、
翌安政元 (1854) 年、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴く。安政
3年、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を見事進水させ、一躍名を
知られるところとなる。この功業により厚遇され、同藩には万延元(1860)年まで滞在した。
この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。明治に入って居を東京に移し、
近県で創窯、焼き物の復興にも努める。明治8(1875)年、54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅
に築窯し、根付、印籠、帯止めなどの創作に励み、特に簪の球は「乾也玉」の名で流行した。



 
◆言問団子の皿
明治時代に言問団子で使用されて
いた皿は、乾也が焼いたもの。

        
「染付椿文水指」
三浦乾也 作
国立博物館 蔵



        
江戸時代流行した乾也玉。
「色絵菊文簪」 (部分)
     三浦乾也 作
東京国立博物館 蔵
Image:TNM Image Archives

Miura Kenya (1821-1889) studied under Kenzan pottery master Nishimura
Myakuan from the age of 15, And at 24 took up his former master's post In 1854
he went to Nagasaki to learn shipbuilding together with Katsu Kaishu, and by 1857
he had completed a Western-style battleship, the Kaisei Maru in Sendai Clan.


文政4(1821)年~明治22(1889)年。徳川の御家人の長男として江戸の新両替町(銀座)で生ま
れる。幼くして伯母夫婦に引き取られる。養父井田吉六は将軍家斉に召され、庭焼を行う
ほどの高名な陶工であった。12歳でその手ほどきを受け15歳で終生の師と仰ぐ乾山焼5代
西村藐庵(みゃくあん)に入門。吉六とともに修行。24歳で乾山6代を襲名。江戸焼物を代
表する陶工として活躍、68歳で没す。
  
      






         和菓子 長命寺の桜もち 山本や
創業三百年 江戸時代から変わらない伝統の味。
向島の名跡・長命寺の門前にて初代が売り始めたの
が始まりだそうで、 桜葉は、お餅の香りづけと乾燥
を防ぐためのもで、葉をはずして、お餅にうつった
桜葉の香りと餡の風味を楽しむそうです。
住 所 / 東京都墨田区向島5-1-14 定 休 日 / 月・火曜日
電 話 / 03-3622-3266  営業時間 / 8:30~18:00





         






葛飾北斎 須佐之男命厄神退治之図の
案内板が左手に見えます。 
 
         
隅田川七福神長命寺入口





           





                





         





          

創業300年江戸の味を今に伝える、長命寺の桜餅さんより一言
当店の桜もちは「長命寺桜もち」として、古来より皆様のご愛顧をいただいております。桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(1717年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。 その頃より桜の名所でありました隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い桜もちが大いに喜ばれました。 これが江戸に於ける桜もちの始まりでございます





           






 江戸当時の山本や付近の絵
左にある長命寺の門前に見えるのが「山本や」。
当時からにぎわっていた様子が描かれています。
          
江戸名所百人美女 長命寺」
(三代豊国)に描かれた初代新六
 の孫娘お豊さんといわれています。






向島長命寺前朧月夜観桜図  
         
隅田堤ヨリ霧中真崎遠景図






東都名所図絵隅田川渡しの図
            
江戸自慢三十六興 
向島堤ノ花并ニさくら餅
竹で編んだ籠に入れて持ち運んでいます






新版御府内流行名物案内双六
一英斎芳艶 : 海老屋林之助, [弘化4(1847)-嘉永5(1852)]
山谷の八百善、王子の海老屋・扇屋、向島の桜もちなど、
有名料亭や名物が並ぶ双六 
      
初代が隅田堤の桜の葉を塩漬けにし、
其の葉で餡入りの餅を挟み販売したの
が初まりとなり、長命寺門前の名物と
なりました。







 新板大江戸名物双六  
          









         正 岡 子 規 仮寓の地案内板
近代日本を代表する俳人の正岡子規は向島周辺の景色を
好み、隅田川と墨堤自然がよほど気に入ったのか、大学
予備門の学 生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」
の2階をヶ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在し
た。明治28、日本新聞社の記者として日清戦争に
従軍する。
住 所 / 東京都墨田区向島5-4





              







正 岡 子 規 仮 寓 の 地 
One of the foremost poets of japan's modern era
Temporary Residence of Masaoka Shiki

向じま 花さくころに 来る人の
       ひまなく物を 思ひける哉

(『無何有洲七草集』女郎花の巻 『寄隅田川名所恋』)近代日本を代表する俳人の正岡
子規は向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然が
よほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち『山本や』の2階を
三ヶ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次の句を詠んでいる。

花の香を 若葉にこめて かぐはしき 
          桜の餅 家つとにせよ

明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折も

から山の風すきふなり 古さとの
          隅田の櫻 今か散るらん

と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。 子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴声は悲壮で
『鳴いて血を吐くホトトギス』などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。

Masaoka Shiki (1867-1902) studied together with novelists Ozaki Koyo and Natsume Soseki, but was
forced to withdraw from university with tuberculosis. As a newspaper journalist he covered the Sino-Japanese
war from the front lins. Subsequently he worked to develop modern Haiku poetry, but passed away
at the age of 35.





Masaoka Shiki (1867-1902) studied together with novelists Ozaki Koyo and
Natsume Soseki, but was forced to withdraw from university with tuberculosis.
As a newspaper journalist he covered the Sino-Japanese war from the front lins.
Subsequently he worked to develop modern Haiku poetry, but passed away
at the age of 35.

本名:正岡常規(幼名:升)
慶応3(1867)年~明治35(1902)年。松山市生まれ。大学予備門、東京帝国大学で、
尾崎紅葉や夏目漱石らと知り合う。結核ため、大学を中退。新聞記者として日清
戦争に従軍。その後、近代俳句の発展に尽くすが、35歳で亡くなる。
    
江戸時代の「桜もち山本や」
「東京名所図絵隅田堤之部」






        牛 嶋 神 社 誕 生 の 地
(大正12年の関東大震災後の隅田堤の拡張によって、
昭和7年にリバーサイドに移転しました。)
住 所 / 東京都墨田区向島5丁目3番






         





         





                      





                      





         





         






        高 原 基 金 の 森
ユニチャーム(株)創業者の高原慶一郎氏の寄附を
もとに、財団法人都市緑化基金が選定した公園
です。GTS観光アートライン G:ソラニハ(空を
眺め憩うための庭、あるいは彫像と共に見上げた空
の先には…という意味がこめられているそうです)
住 所 / 東京都墨田区向島2丁目1番





         





              





              





                







高 原 基 金 の 森
この森(公園)づくりは、高原慶一朗氏(ユニ・チャーム株式会社 創業者)の寄付をもとに、財団法人
都市緑化基金が、全国の自治体から特色ある森づくりのプランを募集し、選考委員会で選定した
ものです。「高原基金の森」は、地域の持つ個性、優位性、潜在能力を「いましか」「ここしか」
「これしか」であらわされる特色のある森づくりをめざしています。この森が全国に広がり、
21世紀に生きる人と社会が、健全さと豊かさを得られるとを願っています。

■ こ の 森 の 概 要 ■
名 称: 隅田公園「新・墨堤桜の森」
面  積: 17,081,46㎡
特  色: 向島の堤の桜は、江戸幕府八代将軍徳川吉宗が植えたのが始まりとされており、以来、
江戸の花見の名所として多くの人々に愛され、今日に至っております。「新・墨堤桜の森」は、
墨堤や隅田公園の植栽地を整備して、これまで植えられていたソメイヨシノとは異なる品種の桜や、
さまざまな花木を植栽することにより、新たな名所づくりをめざしております。
主な樹木: サクラ  センリョウ  ヤマブキ  ジンチョウゲ ツツジ マンリョウ
 ミツマタ  ユキヤナギ  ヘデ   コデマリ クチナシ タマリュウノヒゲ






       竹屋の渡しと堤下の大鳥居(三囲神社)
<墨田区登録文化財>
隅田川の渡しの歴史は古く、すでに平安時代(9世紀)
の資料に隅田川の渡し船に関する記録が見られる。
「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとに
あったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称された。
現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から向島・
三囲(みめぐり)神社を結んでいた。

住 所 / 東京都墨田区向島2丁目7番 
 


現在の大鳥居は文久二年 (一八六二) の建立で、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様は
たいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。
渡しは、ちょうどこの大鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀(さんやぼり)入口
待乳山(まつちやま)下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。



             







《 墨 田 区 登 録 文 化 財 》
堤下の大鳥居と竹屋の渡し
所在地 墨田区向島二丁目一番 隅田公園内

隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。
そのランドマークのひとつとされたのが三囲(みめぐり)神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親し
まれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫(ぬき)より上が見ら
れるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の
背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年 (一八六二) の
建立です。三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。
渡しは、ちょうどこの大鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀(さんやぼり)入口の待乳山
下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿
「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために
「たけや━」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。
昭和五年 (一九三〇)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。

   平成二十年二月
          墨田区教育委員会





         





             





 
隅田川べりに葛飾北斎新板浮絵三囲牛御前両社之図
の案内板が見えます。

          
葛飾北斎(新板浮絵 三囲牛御前両社之図) 





隅 田 川 の 渡 し
宮 堀 の 渡 し    野新田(やしんでん)の渡し     六阿弥陀の渡し   梶 原 の 渡 し 
小 台 の 渡 し    熊 野 の 渡 し    新    渡    し    尾 竹 の 渡 し 
一 本 松 の 渡 し    渡 裸 の 渡 し    汐 入 の 渡 し     水 神 の 渡 し 
 橋 場 の 渡 し    今 戸 の 渡 し    竹 屋 の 渡 し)    山の宿(やまのしゅく)の渡し 
 竹町(たけちょう)の渡し   御厩(おうまや)の渡し     富士見の渡し    横 網 の 渡 し 
一 目 の 渡 し     安 宅 の 渡 し    中洲(なかず)の渡し     大    渡    し
大川口の渡し    佃  の  渡  し    月 島 の 渡 し  勝 鬨 の 渡 し 






 明治時代の隅田川・竹屋の渡し
               
明治30年頃の竹屋の渡しです





隅田川東岸 三囲稲荷社錦絵集

絵本江戸土産第八編 三囲稲荷 堤より見る図






銀世界東十二景・隅田川両川岸一目の月
絵師:広重(初代)
         
三囲の図  絵師:絵師不詳
  






東都名所八景之内 隅田川落雁 
著者:芳虎 出版者:山田屋 出版年月日:安政1
収載資料名:都名所八景之内
          
江戸八景 隅田川の落雁 
著者:渓斎英泉 出版者:山本 
収載資料名:江戸八景






江戸高名会亭尽 三囲之景
絵師:歌川広重(初代)  収載資料名:広重画帖
          
隅田川雪見 絵師:一猛斎芳虎 出版者:美の
刊行年:[天保-弘化頃] 収載資料名:江戸風俗東錦絵
 








隅田堤三囲の景樅の古木   絵師:五風亭貞虎
出版者:江崎屋刊行年:文政-天保頃   


         
 江戸八景 三囲の夜雪
絵師:五渡亭国貞
出版者:森屋治兵衛 刊行年:[文化-天保頃]
収載資料名:江戸八景






東都三十六景:隅田川三囲り堤
絵師:広重 出版者:相ト
刊行年:文久2 収
載資料名:東都三十六景
         
江戸名所八景:暮雪(三囲)
著者:栄松斎長喜
出版者:高須
収載資料名:江戸名所八景

         
東都名所合:三廻 
著者:歌川豊国(3代)
出版者:佐野喜
収載資料名:東都名所合






     
隅 田 公 園 魚 つ り 場
小中学生を対象にした施設ですが一般の方も利用できます
利用料金 / 1回 2時間・30円(見学者は無料)
住 所 / 東京都墨田区向島二丁目1番1号
電 話 / 03-3625-5495 





         





             





         

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(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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