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綾 瀬 橋 綾瀬川は隅田川が千住大橋を過ぎた辺りで、東 から南に大きく流れを変えますが、そのあたり から隅田川に合流しています。東京都が管理する 墨堤通りに架かる橋で堤通二丁目12番から千住 曙町38番までの長さ61.26m幅20.5mの長さの橋 で、昭和36年に架設されました。 住 所 / 東京都墨田区墨田5丁目19 |
![]() 墨田区側の墨堤通りの終点です。 |
![]() 橋の向側が旧綾瀬川です。 |



![]() 絵本江戸土産10編 綾瀬川 |
![]() 鐘ヶ潭 丹鳥の池 綾瀬川 (江戸名所図会より) 右に(鐘ヶ渕)と(すみだ川)、右上に(丹頂池)左に (千住川)、中央に(あやせ川)とあります。 |

名所江戸百景 綾瀬川鐘か淵 著者→安藤広重(1代目) 出版年月日→安政4(1857) 対岸(鐘ヶ淵)中程の橋が綾瀬橋で手前 は南千住です。合歓の木が描かれています。 |
![]() 東都名所図会隅田川渡しの図 著者:広重 出版者:佐野喜 |
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フクシ・エンタープライズ 墨田フィールド (墨田区総合運動場) 住 所:東京都墨田区堤通二丁目11番1号 TEL:03-3611-9070 FAX:03-3611-9073 |




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鐘ヶ淵の由来案内板 江戸時代初期に、ある寺の鐘を隅田川を船で運んで いたところ、落としてしまい、引き上げることができ なかったという話が元になっているそうです。 住 所:東京都墨田区堤通二丁目11 |

所在地 墨田区堤通二丁目11番1号 鐘ヶ淵は、隅田川と綾瀬川の合流地点で、堤通二丁目の地先にあたります。 江戸時代後期の『墨水遊覧誌』には鷺の名所であったと記されています。かつて隅田川が直角に曲がり、 それが大工道具の指矩に似ていることから「かねが淵」と呼ばれるようになったといわれています。 鐘ヶ淵には、鐘にまつわる伝説がいくつもあります。たとえば、普門院が亀戸(江東区)に移転する際、 梵鐘が隅田川におちたまま引き揚げられずに沈んでいるという話や、石浜の保元寺(台東区)の鐘が壊れて 隅田川に転がり落ちたという話、あるいは8代将軍徳川吉宗が川底に沈んだ長昌寺(台東区)の鐘を引揚げ させようとしたができなかったなどという話が伝えられています。明治時代には、周辺の開発が進み、 紡績工場が建てられて、社名を鐘ヶ淵紡績株式会社としました。この会社こそ、後に世界有数の紡績会社 に成長した「鐘紡」で、このエリアにはその東京工場があり、周辺には工場に勤める多くの職員が暮ら しました。工場は昭和44年(1969)に操業を停止し、それから次第に景観を変えていきました。 令和3年3月 墨田区教育委員会 |
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東白髭公園北ゲート(墨堤通り沿い) 墨堤通り沿いに位置する東白髭公園の北ゲートは、広い園内へ スムーズにアクセスできる便利な入口です。木々の緑に包まれ 、散歩やジョギングでいつも穏やかな時間が流れています。 周辺散策の途中に立ち寄るにも最適で、墨田の暮らしに寄り 添う憩いのスポットです。 住 所:東京都墨田区堤通二丁目11 |





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梅 若 橋 名前の由来は、悲劇の少年・梅若丸伝説からきています。 現在、橋は東白鬚公園内の道路を跨ぐ陸橋として整備され、 周辺は散策にも心地よい緑豊かなエリアです。 かつてこの一帯には、江戸城に納める野菜を栽培していた 「御前栽畑(ごぜんさいばたけ)」が広がっており、歴史 の面影が今も地名とともに残されています。 住 所 / 東京都墨田区堤通2丁目2−22 |










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明治通り沿いです 住 所:東京都墨田区堤通二丁目11 |















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![]() 纏(まとい)。それは、江戸時代において、火事といえば即、纏といわれ、纏のもとに 総力を結集して、消火活動を行い纏が火を消したとまで、いわれていました。 この公園は、大震火災時には、都民の安全を守る避難場所ともなっています。 その安全をあらわすシンボルとして、ここに纏のモニュメントを建造しました。 (現在社団法人・江戸消防記念会のもとに、11区89組があり、この纏は第6区7番組 のものをもとにしています。) 昭和61年3月 東京都 |

