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ひがしんアリーナ(墨田区総合体育館) 子共から高齢者まで幅広い世代がスポーツを楽しめる施設です。 墨田区在住の高齢者(65歳以上)の方は、事前登録にて半額 で都度利用が可能。 子育て支援のために3階には授乳室を設けています。 利用可能時間 / 9:00〜22:30 住 所 / 東京都墨田区錦糸4-15-1 電 話 / 03-3623-7273 |
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王貞治のふるさと墨田 世界のホームラン王と云われている王選手! 総合受付のカウンターの手前,名誉区民顕彰 ー ナ ーに展示室。 電 話 / 03-3623-7273 住 所 / 東京都墨田区錦糸4-15-1 錦糸公園内 営業時間 / 10:00~18:00 休業日 / 第3月曜日 |
王貞治選手ゆかりの場所
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廣 田 硝 子 (株) 明治32(1899年)創業。東京で最も歴史のある 硝子メーカーの一つです。創業より伝わる貴重な デザイン資料を元に、江戸切子や吹き硝子など 脈々と受け継がれる手仕事による伝統的製造を 継承し、 現代のインテリアに調和するプロ ダクトを作り続けています。 電 話 / 03-3623-4145 住 所 / 東京都墨田区錦糸2-6-5 |
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伊藤左千夫牧舎兼住居跡 明治時代の歌人で小説家としても活躍した 伊藤左千夫の牧舎と住居がありました 住 所 / 東京都墨田区江東橋3-13(錦糸町駅前) |
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伊藤左千夫牧舎兼住居跡 所在地 墨田区江東橋三丁目十四番 この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居が ありました。左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(一八六四)八月十八日、上総国武射郡 殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川 の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区 茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し四畳半一間と土間のついた仮小屋 を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました随想『家庭小言』には 開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家 という評を得たことなどが書かれています。左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年 ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳 の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。 また、子規没後の明治三十六年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治四十一年には後継誌 『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、 島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』 が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み 継がれています。この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文 『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった 当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の 江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を 残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。 隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤佐千夫記念会」が 建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」 に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる 左千夫の思いがうかがわれます。 平成二十四年三月 墨 田 区 教 育 委 員 会 |
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すみだトリフォニーホール 住 所 / 東京都墨田区錦糸1-2-3 電 話 / 03-5608-5400 |
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TOHOシネマズ 錦糸町(楽天地・オリナス) 山田洋次監督こんにちは、母さん上映館 住 所 / 東京都墨田区江東橋4-27-14 楽天地ビル 電話番号. 03-5637-1040 (24時間自動音声案内) |
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カッパ像(おいてけ堀) ‘Kappa’ (from the Story of Oitke-bori) 本所七不思議の一つ 大横川親水公園の壁面展示の一つ 住 所 / 東京都墨田区江東橋4-17-1 |
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![]() おいてけ堀「河童」の由来 (本所七不思議の一つ) その昔、本所周辺には淋しい堀が沢山ありました。そこでは、 たくさんの魚が釣れました。ある日の夕方釣人が、魚を釣って 帰ろうとすると、身体中が、ゾクゾクと、寒けがしました。 すると、堀の中から「おいてけ〃」「おいてけ〃」の声が したので、釣人は、びっくり仰天魚を置いて、一目散に、 逃げ出しました。何人もが、このような経験をしたために、 何時とは無く、この堀を、おいてけ堀(錦糸堀)と、呼ぶように なりました。この声の主こそ(河童)と、伝えられています。 平成七年十月七日建立 江東橋四丁目町会 おいてけ堀「かっぱ祭」実行委員会 |
![]() ![]() 本所七不思議 1・置いてけ堀 夕方になって釣り人が帰ろうとすると 堀の中から「おいてけ!」という声が聞こえてきます。 周囲に人影はなく、空耳と思って立ち去ろうとすると、途中で必ず足がすくみ、釣った魚は いつのまにかいなくなってしまう。 ( 錦糸町駅北口付近、錦糸堀 ) ( 江東区亀戸1-12第三亀戸中学校 )
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墨 田 区 弓 道 場 経験者または有段者対象です。 詳細は墨田区弓道連盟 電話 / 03-3612-7887 住 所 / 東京都墨田区江東橋4丁目1−3 電 話 / 03-3633-9463 営業時間 / 9:00~9:00 |
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五徳山 江東寺(通称:江東観世音) 阪急電鉄や東宝の創始者である小林一三が、街の 発展を願い昭和15年(1940)に群馬県伊香保にある 水沢観音の別院として創建しました。 住 所 / 東京都墨田区江東橋3-6-5 |
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撞 木 橋 堅川と横川の合流付近に、本所・深川のまちまち に時を告げる「時の鐘」がありました。鐘を打ち 鳴らす撞木 (しゅもく) から近くにあった北辻橋、 南辻橋、新辻橋の3つの橋を「撞木橋」と名づけ られたが、昭和63年(1988)に撤去されました。 住 所 / 東京都墨田区緑4-22 |
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![]() ![]() 撞 木 橋 の 由 来 ここに架かっていた撞木橋は万治2年(1659)当時の本所奉行徳山五兵衛、山﨑四郎左衛門 両名によって墨田区江東橋一丁目より、同緑四丁目の大横川に架けられました。 最初は長さ10間、幅2間の木橋でしたが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年 7月には、鋼橋(トラス)になりました。この橋は、大横川親水河川整備事業により、 この役目を終えて昭和62年10月に撤去されました。 なお、ここは堅川・大横川の交差辻なので、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」 の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。 その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われます。 |
![]() 時 の 鐘 跡 住 所 墨田区緑四丁目二十二番 大横川の左岸には時の鐘を撞(つ)く鐘楼(しょうろう)がありました。江戸時代、 時を知らせる手段は鐘を撞くこと以外にはありませんでした。そのため、江戸城 で打ち出された太鼓の音(のちに日本橋本石町の鐘楼の鐘)を、周辺の 鐘楼が鐘の音に換えて打ち出し、順次この鐘の音を引き継いで江戸の隅々へと時を知 らせていきました。従って、江戸城と周辺の町内とでは、少し時間にずれが生じるのが 普通でした。また、当時は不定時法を採用していたことから、季節に応じて時間の長さ が変化しました。従って夜明けは常に明け六ツ(六時)、日没は常に暮れ六ツ(六時) だったのです。日本橋本石町の鐘の音は、ここ本所の鐘楼に伝えられました。鐘楼の 近くには時鐘屋敷(緑四丁目十番・二十一番の境)があり、町会で選ばれた撞き番の人 が待機していたそうです。 平成十九年三月 墨田区教育委員会 |
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芥 川 龍 之 介 の 文 学 碑 (大川の水)は大正3年(1914年)4月1日発行 の雑誌『心の花』第18巻第4号に柳川隆之介 の署名で掲載されました。 住 所 / 東京都墨田区江東橋1-7-14 (東京都立両国高等学校附属中学校内) |
![]() 「大川の水」(抜粋) もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと 答えるのになんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、 大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は 大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。 |
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国産マッチ発祥の地 日本で初めてマッチを生産した清水誠の新燧社の 所在地を記念するもので、1986年に建立されました。 清水誠は加賀藩士の子で、1870年にフランスの 理工系学校の名門エコール・サントラル・パリに 留学した際に学んだ知識がマッチ開発の際に役立 ったと言われています。 住 所 / 東京都墨田区江東橋1-7-14 |
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史 跡 勝 海 舟 揺 籃 の 地 (五柱稲荷神社内) 住 所 / 東京都墨田区緑 4-11-6 |
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勝海舟居住の地━旗本岡野氏屋敷跡━ 父母とともに本所の旗本屋敷を転々としましたが、 天保二年(一八三一)頃ここにあった岡野氏の 屋敷に落ち着き、十代後半までの多感な時期を過 ごしたといわれています。 住 所 / 東京都墨田区緑 4-35-6 |
![]() ![]() 勝 海 舟 居 住 の 地━━旗本岡野氏屋敷跡━━ 所在地 墨田区緑四丁目三十五番六号 勝海舟(麟太郎)は、文政六年(一八二三)に両国にあった父勝惟寅 の実家、男谷(おたに)氏の屋敷(現区立両国公園)で誕生しました。その後、父母とともに 本所の旗本屋敷を転々としましたが、天保二年(一八三一)頃ここにあった岡野氏の屋敷に 落ち着き、十代後半までの多感な時期を過ごしたといわれています。麟太郎は後に幕臣として 出世を果たし、激動の時代に活躍の場を広げてゆきます。麟太郎が世話になった岡野氏は後 北条氏の旧臣板部岡江雪(いたべおかこうせつ)を祖とする旗本で、文政九年十二月の屋敷替え を経て、同十年三月ごろに当地に移住していました。家の経営費を捻出する為の屋敷替で あったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わり に旧居の半分ほどしかない屋敷に移住していたようです。幕府創業期より続く由緒ある武家 とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫(ひっぱく)していたようです。このため、幕末維新の 時代ともなれば家来を召し抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ支払えぬ事態に陥ります。 正月に餅をつく金さえなかったという貧しい下級旗本の家に生まれた麟太郎は、こうした 武家凋落の厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。 平成二十五年一月 墨田区教育委員会 |
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![]() 相 模 の 彦 十 の 家 彦十が密偵となる前から住んでいた家です。 彦十は本所松井町の「岡場所」に巣食う香具師 あがりの無類者で、若かりし平蔵が放蕩無類の 暮らしを送っていた頃からの取り巻きの1人 です。密偵に転じるとその働きには目を見張る ものがありました。 住 所 / 東京都墨田区亀沢4-14-6 |
![]() ![]() 鬼 平 情 景 相 模 の 彦 十 の 家 密偵となる前から住んでいた家で、一時、大滝の五郎蔵も同居していました。後に 引き払い、本所・二ツ目橋の軍鶏なべ屋〔五鉄〕の二階へ寄宿します。「本所・桜屋敷」 で平蔵が二十余年ぶりに南割下水で偶然出会うシーンが出てきます。平蔵が若かりし頃、 本所は松井町の岡場所に巣食う香具師上りの無頼者で、取り巻きの一人でした。〔小川や梅吉〕 の探索を頼まれ、密偵に転じます。その後の働きは枚挙に遑(いとま)のないほどです。昔 馴染みだけに、長官の平蔵を「銕つぁん」「親分」などと気安く呼び、周りを唖然とさせ ますが、平蔵も「悪い友だちを持ったものよ」とあまり意に介さず、ちょいと頭の 上がらないところがあります。 墨 田 区 |
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公 立 本 所 小 学 校 跡 久保尊保 (田安徳川家旧臣) が明治4年(1871)に開いた 私塾松川堂が明治7年5月に公立本所小学校となりました。 明治8年11月に新築された校舎は、日本で本格的な洋風 建築が普及する前に建てられた擬洋風建築の建物です。 開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家より多額の 寄附を受けたため尾張学校とも呼ばれました。 住 所 / 東京都墨田区亀沢4-11-15 |
![]() ![]() ![]() 公 立 本 所 小 学 校 跡 所在地 墨田区亀沢四丁目11番15号 墨田区立堅川中学校 当地にほど近い亀沢三丁目13番地には、久保尊保 (田安徳川家旧臣) が明治4年(1871) に開いた私塾、松川堂がありました。松川堂は明治7年5月に公立本所小学校 となり、明治8年11月、当地に校舎が新築されました。校舎は日本で本格的な洋風建築が普及 する前に建てられた擬洋風建築の建物で、バルコニーに唐破風 を付けた二階建ての洋風建物を中央に配し、その両側にガラス戸をはめ込んだ平屋の 和風建物が接続していました。本所小学校は、開校当時、近所に屋敷を構えた尾張徳川家 より多額の寄附を受けました。(このため尾張学校とも呼ばれました)。徳川家の資料の中 には校舎を撮影した写真が残され、文明開化の息吹を伝える建物が本所地域の子供たちの 新しい教育の場になったことをよく伝えています。児童256名、教員5名から始まった 本所小学校は、明治44年 (1911) には児童2094名、教員30名を数えるまでになり、廃校 となる昭和21年 (1946) までの間に8,000名を超える卒業生を送り出しました。 平成30年11月10日 墨田区教育委員会 |
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河 竹 黙 阿 弥 終 焉 の 地 “日本のシェイクスピア”と呼ばれた歌舞伎の作者 河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼 ばれた狂言作者です。 江戸日本橋の商家に生まれ ましたが、遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活 を送る中で細木香以らと交流を深めました。 歌舞伎を始め、狂歌や茶番などに通じ、二十歳で五代目 鶴屋南北に弟子入りをし、勝諺蔵と名乗りました。 幕末の人びとを生き生きと描き出した三六〇編に 及ぶ作品を残しました。 住 所 / 東京都墨田区亀沢2-11-11 |
![]() ![]() 河 竹 黙 阿 弥 終 焉 の 地 所在地 亀沢二丁目十一番 河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。黙阿弥の 本名は吉村芳三郎。江戸 日本橋の商家に生まれるも遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木香以らと 交流を深めました。歌舞伎をはじめ、狂歌や茶番などにも興じ、ニ十歳で五代目鶴屋南北に入門、 勝諺蔵を名乗りました。後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永七年 (一八五四) に 江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白浪(忍ぶの惣太)」が四代目 市川小団次との提携で大当たりを取り、「小袖曽我薊色縫 (十六夜清心) 」、「三人吉三廓初買」 など、現在も上演される作品を次々と世に送り出してゆきました。七五調の美しい台詞を 巧みに活かして幕末の人々を生き生きと描き出し、三六〇編に及ぶ作品を残しました。 明治の新時代にも活躍、明治十四年 (一八八一) に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、 その後も劇作の筆を置くことはありませんでした。明治二十年三月、黙阿弥は浅草の自宅 を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南双葉町三十一番地(現亀沢二丁目十一番)に 自宅を新築し、転居しました。周囲に塀をめぐらせた広い新宅は南割下水(現北斎通り)の ほど近くにあり、庭には潮入の池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れが造られて いました。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地で六年間を過ごし、九代目市川團十郎 のために「紅葉狩」、五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き上げました。黙阿弥 の人柄は彼の作品とは対照的で、穏やかでもの静かであったとされています。自らの死も 予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理、友人への挨拶まわりなど なすべきことを終えて、明治二十六年一月二十二日に七十七年の生涯を閉じました。 平成二十七年一月 墨田区教育委員会 Final Resting place of Kawatake Mokuami A legendary writer of Kabuki plays, Kawatake Mokuami was called“the great warehouse of Edo drama”by famed author Tsubouchi Shoy. Originally born as Yoshimura Yoshisaburo to a merchant family in the Nihonbashi district of Edo, Mokuami was disowned by his family for Indulging in worldly pleasures, At the age of 20, he became an apprentice of Kabuki playwright Tsuruya Namboku V, later taking the name of Kawasaki Shnshichi 11. In 1854, the Mokuami-penned “Miyakodori Nagare No Shiranami” (commonly called “Shinobu No Sota”)was performed on stage. It was in this play, which he produced in collaboration with Ichikawa Kodanji 1V、that Mokuami found his breakthrough work. Numerous leading plays by Mokuami including “Kosode Soga Azami No Ironui”(commonly called“Izayoi Seishin”)and “Sannin Kichisa Kuruwa No Hatsugai”continue to be performed today. In total, he penned over 360 works. In March 1887 , Mokuami relinquished his abobe in Asakusa to Kawatake Shinshichi Ⅲ and built a new residence here in what is now Kamezawa 2-chome 11-ban, to which he then relocated. Surrounded by a canal, this home hosts a pond as wellas a two-story storehouse and an annex that Mokuami used as a study. He spent six years being called “the master of Honjo (an Edo suburb),” during which he penned the likes of “Momijigari”for ichikawa Danjuro Ⅸ and “Modoribashi” for Onoe Kikugoro V. Mokuami was said to have a gentle personality, and Spent his last days organizing his library, paying visits to his friends, and otherwise taking care of what he had left to do. The final chapter In his life of 77 years closed on January 22. 1893. |
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三 遊 亭 圓 朝 住 居 跡 三遊亭圓朝(一八三九~一九〇〇)は、江戸時代 後期から明治時代にかけて活躍した落語家です ※三遊亭円朝旧居跡が新宿区新宿1丁目21、 新宿区立花園公園内にあります。 住 所 / 東京都墨田区亀沢2-13-7 (亀沢第一児童遊園内) |
![]() ![]() 三 遊 亭 圓 朝 住 居 跡 所在地 墨田区亀沢二丁目十三番七号 三遊亭圓朝(一八三九~一九〇〇)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍 した落語家です。本名は出渕次郎吉。父は二代目三遊亭圓生の門人橘家 圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りしました。初舞台は弘化二年(一八四五) 三月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から 離れました。池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と 同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。 その後、再び圓生門に戻り十七歳で圓朝を称します。元治元年(一八六四)に 二十六歳で両国垢離場の昼席の真打となります。人情噺、怪談噺、落し噺 などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に 押し上げました。圓朝は明治九年(一八七六)十月に浜町から本所南二葉町二十三番地 (この公園の南側、現在の亀沢二丁目十二番)に移り、同二十八年に牛込に転居 するまでの十九年間をこの地で過ごしました。この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助 をモデルにした名作『塩原多助一代記』を生み、明治二十二年四月には三遊派の隆盛 を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。代表作に「真景累ヶ淵」 「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結」など 多数あります。 平成二十五年三月 墨田区教育委員会」 |
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すみだ北斎美術館 葛飾北斎を区民の誇りとして、永く顕彰すると ともに、新たな文化創造の拠点として、平成28年 (2016) 11月に開館した美術館です 住 所 / 東京都墨田区亀沢2-7-2 電 話 / 03-6658-8936 |
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緑 町 公 園 昭和5年3月31日開で、ロープで作られたジャングルジム のザイルクライミングが魅力の一つです。 &緑町公園の立札色々 (江戸の町江川太郎左衛門屋敷跡前 両国物語津軽の太鼓 津軽家上屋敷跡 江戸の町南割下水) 住 所 / 東京都墨田区亀沢2 -7 -7 |
![]() ![]() 絵 画 と 文 学 Birthplace of Ukiyo-e artist,Hokusai 葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近) 宝暦十(一七六0)年九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を 出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立 させて、多くの名作を遺しました。代表作『富嶽三十六景』は、天保二(一八三一)年から天保四(一八三三) 年にかけて製作。とても七十歳を過ぎてからの作品とは思えません。八十歳を過ぎても創作意欲は衰えず、 死の床に就いた嘉永二(一八四九)年、「あと一〇年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の 画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい 臨終の言葉でした。 墨 田 区 |
![]() ![]() 江 戸 の 町 江川太郎左衛門屋敷跡前 9 江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門は江川家の代々の当主の通称です。 なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(一八〇一~五五)です。彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な 沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防衛のため、江戸湾内 に数ヵ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれています。 この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年 振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。 墨 田 区 |
![]() ![]() 両 国 物 語 津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡 8 南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。通常、火の見櫓で火災を 知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知 らせていました。なぜ、この屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのか誰も知らず、不思議なこととされて いました。これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。七不思議とはいいますが、伝説などの伝 わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。この「津軽の太鼓」には 「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。 墨 田 区 |
![]() ![]() 江 戸 の 町 南 割 下 水 明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、堅川、大横川、 北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削と、両国橋の架橋です。掘割の一つが南割下水で、雨水を 集めて川へ導くために開削されたものです。北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。幅は 一間(約一・八メートル)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の 「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。昭和初期に埋め立てられ ましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。 また、この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。 墨 田 区 |
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江川太郎左衛門邸跡 韮山に鉄製大砲を製造するための 反射炉を建設したことでも知られています。 この地で五十五歳の生涯を閉じ、韮山の本立寺 に葬られました 住 所 / 東京都墨田区亀沢1-3-121 |
![]() ![]() 江川太郎左衛門屋敷跡 所在地 墨田区亀沢一丁目三番 幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍は、享和元年(一八○一)現在の静岡県伊豆の国市韮山に生まれました。 天保六年(一八三五)三十五歳の時、韮山代官に就任し、伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐の五か国の天領 (幕府の直轄地)を管理していました。代官の役所は韮山と江戸の二か所にあり、韮山役所で伊豆国・ 駿河国駿東郡の支配にあたり、残りは江戸屋敷で管理していました。嘉永七年(一八五四)の頃には、 最も多くの家来を召し抱えており、江戸屋敷には手付三人、手代十四人がいたようです。 韮山代官となった英龍は、領民のために誠実な仕事を行ったので、郡内地方では、端午の節句に 世直江川大明神」と書かれた紙のぼりを立てていたようです。その後、海防の視点から、西洋文化 の知識を積極的に摂取し、品川台場の建設などに尽力しました。韮山に鉄製大砲を製造するための 反射炉を建設したことでも知られています。また、外国からの攻撃に備え、保存性、携帯性にも優 れていた乾パン(兵糧パン)を日本で初めて考案し焼かせたことでも有名です。 安政二年(一八五五)一月十六日、この地で五十五歳の生涯を閉じ、韮山の本立寺に葬られました。 平成二十八年二月 墨田区教育委員会」 The Site of Homestead for Egawa Tarozaemon Egawa Tarozaemon (1801-1855) was a servant of the Tokugawa Shogun, who actively learned military knowledge from Western countries and was dedicated to the defense of Edo Bay (the current Tokyo Bay) in the first half of the 19th century .He is also famous for the construction of reverberator in Nirayama in the Izunokuni City of Shizuoka prefecture which naw is aunthorized as a World Heritage. This is the homestead Site for Egawa. |
![]() 幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだ その子英敏が完成させました。韮山反射炉は、実際に 稼働した反射炉として国内で唯一現存するものです。 |
![]() 重要文化財 江川家住宅 江川邸 〒410-2143 静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地 TEL: 055-940-2200 |
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【MERIKOTI(メリコティ)】 布 ぞ う り “メリヤス”の「MERI」と北欧の言葉で“ふるさと” をあらわす「KOTI」・「メリヤスのふるさと」 に由来しています。 住 所 / 東京都墨田区亀沢1-12-10 電 話/070-6986-0708 営業時間 / 10:00 - 18:00 月曜定休 |
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東武ホテルレバント東京 東京スカイツリーを望む絶景! 住 所 / 東京都墨田区錦糸1-2-2 電 話 / 03-5611-5511 |
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大 心 堂 雷 お こ し《古代》 (工場店舗) 美味しいと有名です! 住 所 / 東京都墨田区亀沢4-23-11 電 話 / 03-3624-8961 定休日/毎週日曜&祝祭日 時間:9:00~6:00 |
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CAFE BONFINO カフェ・ボンフィーノ 本店 YKKブラジルコーヒー農場直送の豆です! 住 所 / 東京都墨田区亀沢3-22-1(YKK 60ビル別館) 電 話 / 03-5610-8183 営業時間 / 10:00~17:30 休業日 土、日、祝日 |
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東 あ ら れ 両 国 本 店 明治43年創業 住 所 / 東京都墨田区亀沢2-15-10 電 話 / 03-3624-9733 営業時間 / 9:00 - 19:00 定休日 / 年中無休 (1/1~1/3除く) |
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東京両国 江戸蕎麦 ほそ川 住 所 : 東京都墨田区亀沢1丁目6-5 電 話 : 03-3626-1125 定休日 : 毎週月曜日、第1、第3火曜日 営業時間 : 11:45~14:30 17:30~21:00 |
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元祖 浪 花 家 本 店 麻布十番たい焼き浪花屋の暖簾分け店 住 所 / 東京都墨田区亀沢1-24-2 電 話 / 03-3623-2667 定休日 / 毎月第2第4月・日曜日 時 間 / 10:00~18:00 (月~金) 10:00~16時(土) |
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住 所 / 東京都墨田区亀沢1-24-2 電 話 / 03-3623-2667 定休日 / 毎月第2第4月・日曜日 時 間 / 10:00~18:00 (月~金) 10:00~16時(土) |