スカイ姫のつぶやき街角南部ルート3
都営両国駅〈江戸東京博物館前〉~刀剣博物館(旧安田庭園)・同愛記念病院

                          いってみよう (お店関係)

       都営両国駅(江戸東京博物館前)

本所御蔵跡案内板  徳川家康公銅像  言問橋の欄干と縁石  置いてけ堀・御竹蔵跡案内板 

都立横網町公園(東京空襲による悲劇を記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園)

江戸東京博物館


       刀剣博物館(旧安田庭園)・ 同愛記念病院

葛飾北斎案内板① 御厩川岸より両国橋夕陽見) 葛飾北斎案内板②(首尾松の鉤舟椎の木の夕蝉)

葛飾北斎案内板③(駒止石━馬尽━)  村松志保子の産婆学校跡

  小林清親旧居地案内板(最後の浮世絵師、明治の広重)   刀剣博物館(美術刀剣類の保存、展示) 

 旧安田庭園(下野足利藩主本庄氏の下屋敷)  椎の木屋敷跡(本所七不思議)

  NTTドコモ歴史展示スクエア   大東流合気柔術本部道場  良い歯の日発祥記念碑

   R Cafe192 dog cafe(ワンチャンOKのヘルシーなお料理とオーガニックコーヒー) 

 両国テラスカフェ



       都営両国駅(江戸東京博物館前)



        江 戸 東 京 博 物 館 
失われつつある江戸・東京の歴史遺産を守るとともに、
東京の歴史と文化を振り返ることによって、未来の
東京を考えるために設立された博物館。

電 話 / 03-3626-9974  住 所 / 東京都墨田区横網1-4-1

定 休 日 / 月曜






 
    江戸東京博物館
Edo-Tokyo Museum
失われつつある江戸・東京の歴史遺産を守るとともに、
東京の歴史と文化を振り返ることによって、未来の東京
を考えるために設立された博物館。江戸から昭和にかけての
町並みが再現されており、日本橋も復元されています。
This museum was built to preserve and exhibit the historical
heritage of the city of Tokyo. An understanding of Tokyo’s
origins and history as Edoserves as a basis for considering the
future of the metropolis. Displays re-create various aspects of
city life, from Edo’s founding in 1603 through the 20th
century. A huge reconstructionof the bridge,
Nihombashi, is included in the exhibits.
 





         





         





         





         





         





         






      
置 い て け 堀・御竹蔵跡案内板
本所を舞台とした本所七不思議と呼ばれる
奇談・怪談の一つ
住 所 / 東京都墨田区横網1-5-2





         





        

両 国 物 語
Oiteke-bori & Site of Otake -gura
置いてけ堀・御竹蔵跡
この辺りには、幕府の資材置き場だった御竹蔵があり、その周りには掘割がありました。ある日、
町人がこのあたりの堀で釣りをしたところ、たくさん魚が獲れたので、気を良くして帰ろうとすると、
堀の中から「置いてけ!」という怪しい声がしました。逃げるように家に帰って、恐る恐る魚籠をのぞくと、
釣れた魚が一匹も入っていませんでした。これが、本所七不思議の一つ、「置いてけ堀」の話です。話の
内容や場所には諸説があり、置いてけ堀は「錦糸堀」との説もあります。作られたのは寛政年間
(一七八九~一八〇一)といわれ、七つ以上の話が伝えられています。





(スカイ姫のつぶやき街角南部ルート8 本所吾妻橋駅東下車 本所七不思議より)

      

本所七不思議
       1・置いてけ堀

夕方になって釣り人が帰ろうとすると 堀の中から「おいてけ!」という声が聞こえてきます。
周囲に人影はなく、空耳と思って立ち去ろうとすると、途中で必ず足がすくみ、釣った魚は
いつのまにかいなくなってしまう。    ( 錦糸町駅北口付近、錦糸堀 )
( 江東区亀戸1-12第三亀戸中学校 )



昇旭斎国輝画
( 三代目歌川 国輝 )
 
     置 い て け 堀
                     
(墨田区役所・すみだむかしばなしより)
この堀では非常に魚が釣れるが、夕方になって釣り人が帰ろうとすると、堀の中
から「オイテケ! オイテケ!」と叫ぶ声が聞こえるという。周囲に人影はなく、
釣り人は空耳と思って立ち去ろうとすると、途中で必ず足がすくみ、釣った魚は
いつのまにかいなくなってしまう。釣り人は、「きっと堀に落ちたのだろう」と
あきらめて、もぬけの殻となったビク(魚を入るもの)を提げてしょんぼり家路
を急ぐだけとなる。この堀では誰もが同じ目に遭うので、釣人は「釣った魚は置
いていくしかない」とあきらめるようになったという。「オイテケ」というのは
、ビクの中の魚を置いてけという事でこれから「置いてけ堀」の名が生まれた。
しかし、この「置いてけ堀」がどこだったかというと、いろいろな説があり、い
まの東京楽天地あたりとか、亀戸とか、また横網にあった「御竹蔵」の周囲の
堀であるとか色々伝えられている。






      
本 所 御 蔵 跡 (横網1丁目遺跡)

JR両国駅から横網町公園にかけての範囲には、
かつて幕府の管轄する4万4千坪の広さの本所
御蔵という米倉がありました。両国中学校
グランドフェンス脇に説明板が立っています
所在地 / 東京都墨田区横網1丁目~2丁目





         





    

本 御 蔵 跡
 墨田区横網一丁目4番・6番・8番・9番、10番、横網二丁目3番
本所御蔵は、米価の
高騰(こうとう)が原因で発生した江戸初の打ち毀し(享保の打ち毀し)の
直後に建設された江戸幕府の米蔵です。
享保(きょうほ)19年(1734)竣工の12棟88戸前の
倉庫群から規模を拡大し、
安政(あんせい)5年(1858)までに37棟246戸前を数えたとされています。
敷地面積は4万4千坪(約14万5千㎡)で、その範囲は現在のJR両国駅から都立横網町公園
にかかる一帯に及びます。本所御蔵跡については、平成13年(2001)に部分的な発掘調査が
実施され、
掘割(ほりわり)護岸(ごがん)の跡、徳川家の三葉葵紋(みつばあおいもん)をあしらった(かわら)
などが出土しました。また、御蔵が廃止された明治5年 (1872)以降に設置された
陸軍被服廠(りくぐんひふくしょう)
に関する遺物(木製の荷札(にふだ)など)も見つかりました。
こうしたことから、本所御蔵跡の大部分は、周知(しゅうち)の
埋蔵文化財包蔵地(まいぞうぶんかざいほうぞうち)
に指定されています。
令和3年3月
           墨田区教育委員会












      徳 川 家 康 公 銅 像
鷹匠の勇姿で江戸城を望んでいる家康公像
 所在地 / 東京都墨田区横網1-4-1  





            







      

徳川家康公銅像建立由来
鷹狩の勇姿で江戸城を望んでいる徳川家康公が始めて、草深い江戸の地に天正十八年
(1590年)に、豊臣秀吉の命により国替えとなった。そして、関ヶ原の戦い後慶長八年
(1603年)征夷大将軍となり江戸に幕府を開き天下普請を大名に命じ、本格的な都市
づくりの大事業を行い、政治の中心地として明治に至るまでの永き亘って現在の東京
の基礎となったことは周知の事実である。社団法人 江戸消防記念会では、このような、
江戸開府の大事業を成し遂げた徳川家康公の偉業を称え、顕彰すべく銅像建立の計画を
練っていたところ、平成五年三月、江戸東京博物館が両国の地に落成の運びとなるや、
徳川家康公銅像建立気運が一気に盛り上がり記念会創立以来の名誉ある事業であることから、
これを積極的に推進し、東京都をはじめ関係諸機関に格別のご協力をいただきまして、
江戸消防記念会が主体となって平成六年四月銅像を建立、東京都に寄贈したものである。




寄 贈
この徳川家康公の銅像は江戸町火消の伝統を現在に受け継ぐ江戸文化保存伝承団体
である当会が、都民文化貢献の一環として、支援団体及び全会員の協力により建立し
東京都に寄贈したものであ。平成六年四月吉日
社団法人 江戸消防記念会 






       言 問 橋 の 欄 干 と 縁 石
1945年( 昭和20 ) 3月10日未明の東京大空襲の際、浅草
方面から向島方面へ避難しようとする人々と、その反対
側に渡ろうとする人々が橋上で交叉し、身動きがとれ
ない状態となり、人だけでなく荷車やリヤカーも通行
を妨げた。そこへ火が燃え移り橋上はたちまち大火災
に包まれた。橋上では逃げるすべもなく多くの市民
が焼死した。

 所在地 / 東京都墨田区横網1丁目





         





    

言 問 橋 の 欄 干 と 縁 石
Parapet and curb stone of the Kototoi Bridge
言問橋は、1928年 ( 昭和3 ) に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年
( 昭和20 ) 3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人
びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。
人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち
大火災に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。1992年 ( 平成4 )
の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京
大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。






       都  立  横  網  町  公  園
関東大震災(大正12年、1923年)や、東京空襲
(昭和19年~20年、1944~45年)による悲劇を、
記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を
慰霊する公園です

住 所 / 東京都墨田区横網2-3-25

電 話 / 03-3622-1208  





            





         





         





         





         





         





 





    横 網 町 公 園  Yokoamicho Park
関東大震災(大正12年、1923年)や、東京空襲(昭和19年
~20年、1944~45年)による悲劇を、記憶・伝承し、
その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。
This park is dedicated to the remembrance of the many
victims of the Great Kanto Earthquake (1923) and the
Tokyo Air Raid (1944~1945)、to commemorate and
preserve the memory of these tragedies.

東京都慰霊堂 Tokyo Metropolitan Memorial Hall
関東大震災、および東京空襲の遭難者、16万人余の
御霊を慰霊する施設です。昭和5年 (1930年) に建て
られました。堂内には絵画等の展示もあります。
どなたでも入堂できます。入堂無料、
9時~16時30分、何末年始は閉堂
Built in 1930, this hall is a memorial for more than 160,000
lives lost during the Great Kanto Earthquake and the
Tokyo Air Raid Paintings and other archives are on display
in the hall, and it is open to the public. Free admission,
open 9:00 am to 4;30 pm. Closed for the New year’sholiday

復興記念館 Great Kanto Earthquake Memorial Museum
関東大震災からの復興事業を記念するために昭和6年
(1931年) に建てられました。関東大震災、東京空襲の
被害や復興に関する資料を展示しています。
入館無料、9時~16時30分 (入館) 、毎週月曜日
(祝日の場合は翌日) および何末年始は休館
This museum was built in 1931 to commemorate the reconstruction projectfollowing the Great Kanto Earthquake, Documents and other materials related to the damage
caused by the earthquake and the Tokyo Air Raid, as to
the ensuing reconstruction are on display. Free
admission, open 9:00am to the 4:30pm (entry).Closed
on Mondays (if a national holiday closed the following
day)and for the New Year’s holiday.







幽 冥 鐘 の 由 来
この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈
されたものです。震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び
上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝
を促しました。また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、
之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく
幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。その後、中国国内で鋳造し、杭州から
上海、横浜経由で大正14(1925)年11月1日、記念堂建設地 (横網町公園)に運ばれました。
この鐘を安置する鐘楼は、昭和5 (1930) 年8月31日に現在地に完成し、同年10月1日
「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、
上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。
                     東 京 都







震災遭難児童弔魂像
大正12 (1923) 年9月1日の関東大震災により東京市(当時)の小学校児童約5千人
が亡くなりました。この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、
寄付を募りました。その寄付金により、彫刻家小倉右一郎氏に製作を依頼、昭和6 (1931)
年5月16日に除幕式が行われました。その後、像部分は、 昭和19 (1944) 年、金属
回収のため撤去されましたが、昭和36 (1961) 年、都は、小倉右一郎氏の高弟である、
津上昌平、山畑阿利一氏に製作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。台座の
裏面には次の言葉が記されています。大正十二年九月一日の大震火災の為に我が東京市
小学校児童の死亡せし者無慮五千人其の惨状言語に絶せり学校長等深く之を哀み之を悼み
相議りて当時幸に難を逃れ生を全うせる都下の学童をして此の不遇の霊を慰め不幸の魂を
弔はしめむことを企画し第五回の忌辰に際して之を発表するや 忽ちにして学童の共鳴する
者十八萬二千二十七名に及び其 の醵金一萬四千六十六圓四十七銭に達せり乃ち小倉右一郎
氏に託して震災記念堂の傍に此の群像を建設し保存資金を添えて之を財団法人東京震災記念
事業協会に寄附し永く当時を追憶し其の冥福を祈らむとす
     昭和五年九月一日









        刀剣博物館(旧安田庭園)・ 同愛記念病院



        葛飾北斎 御厩川岸より両国橋夕陽見
 ━富嶽三十六景━

Thirty-six Views of Mount Fu : Onmayakashi Yori Ryogoku
Bashi Sekiyo wo miru (Sunset across the Ryogoku Bridge
from the bank of the Sumida River at Onmayakashi)
富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。
住 所 / 東京都墨田区横網2ー7(隅田川緑道公園)





          





     

御厩川岸より両国橋夕陽見  ━富嶽三十六景━
富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。夕陽に浮かぶ富士山を中心に、
船の往来でにぎわう両国橋や、様々な客でひしめきあう御厩川岸の渡し船の様子が描
かれています。構図上の特徴は、船頭の頭を中心点として、橋の曲線と船の弧が点対称
になっている点です。また、活き活きとした彼の描写には、北斎らしさが表れていると
言えるでしょう。御厩川岸(おんまやかし)の名は、江戸時代、西岸の浅草に幕府の馬小屋
である御厩があったことに由来します。現在の墨田区本所1丁目あたりから台東区蔵前2
丁目あたりを結んでいた渡し場がありました。

A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt Fuji.
This scene depicts Ryogoku Bridge surrounded by river traffic and a boat traversing
the reiver at Onmayakashi crowded with various types of passengers, while Mt.Fuji
rises in the center of the background amid the sunset. The main features, of the
composition are the prow of the boat taking the center location, and the asymmetry
attained with the curving bridge and arc of the boat. The depiction of the lively
waves may also be considered to be typical of Hokusai. The name Onmayakashi
originates from the fact that the Shogun' s stable, named Onmaya,was located
at Asakusa on the west bank of the reiver during the Edo Era. A ferry landing
point linking 1-chomeHonjo, Sumida city, with 2- chome Kuramae, Taito city,
is currently situated at this location






      葛飾北斎 ②首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉
━絵本隅田川両岸一覧━

Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River:
Shubinomatsu no Tsuribune Shiinoki no Yuuzemi
(Fishing Boat by the Shubinomatsu Pine Tree Evening
Cicada in the ShinokiForest)
隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』
三巻のうち、中巻の一枚です

住 所 / 東京都墨田区横網1ー2番(隅田川緑道公園)





            





     


首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉  ━絵本隅田川両岸一覧━
隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。隅田川の
対岸から描かれています。釣り舟の向こう、左手に描かれているが首尾の松です。首尾の松
は蔵前にずっと並ぶ米蔵の真ん中あたりにあった松で、丁度よい目印になっており、この辺
は釣りの名所でした。釣り糸の向こう、右手の森が肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷です。
この上屋敷には本所七不思議の一つに数えられる「落ち葉なしの椎」があったことから、
椎の木屋敷と呼ばれるようになりました。

One of the prints from the second of the three- volume comic tanka picture books,
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River, depicting a full year along the
Sumida River. This print has been drawn from the opposite bank of the Sumida River.
The Shubinomatsu pine tree is located over the far side of the fishing boat on the
Left-hand side. This tree was located in the center of a long of line of trees that flourished
in Kuramae and made a perfect landmark for a famous fishing spot located nearby. The
forest shown beyond the fishing lines to the right is the Tokyo residence of the Matsuura
daimyo family of the Hirada Shinden fuedal clan from Hizen Province. This mansion
became known as the Shinoki Mansion owing to the “Leafles






         葛飾北斎 ③ 駒 止 石 ━馬尽━
 Uma-Zukushi: Komadome-ishi
(Horse Series: Hitching Stone)

文政時代(1818-1830)の正月の配り物として摺られた
「馬尽」シリーズの1枚です。
住 所 / 東京都墨田区横網1ー12
 





           





     


駒 止 石 ━馬尽━
文政時代(1818-1830)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの1枚です。
手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永8(1631)年の初夏、
暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区
の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河
し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。当時は
椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は安田庭園内で見ることができます。

One of the Horse Series that were printed to hang during the New Year period in the
Bunsei Era (1818-1830). A stone for hitching horses is located at the front,and the
snow-covered Mt. Fuji appears in the background. The Sumida River overflowed
owing to a violent rainstorm in early summer 1631, and the third Shogun, lemitsu,
ordered a survey to be carried out to assess damage inflicted on the Honjo district
when the entire area was flooded, and it is said that only Tadaaki Abe. a direct
retainer of the Shogun,displayed his loyalty to the Shogun by skillfully crossing the
turbid waters alone on horseback to carry out this order.The hitching stone shown
in this print is said to be the stone to which he tied his horse during this. This
bank of the Sumia River waslocated in front of the Shiinoki Mansion at that time,
and the former Yasuda Garden can be seen from this point today.






        村松志保子の産婆学校跡
沼田藩の侍医の家に生まれ、1888年に日本初の産婆
学校を設立した女性
一千余坪の中に、産婆学校、淑女館、
安生堂医院。慈善(無料)妊婦収容所が、ありました。
住 所 / 東京都墨田区横網2丁目7-4

電話番号/ 03-3625-5742(村松志保子研究会)





        





       

村松志保子の自立的・博愛的 近代助産師活動と

助産師教育発祥の地

明治時代に女医から産婆(助産師)になり、明治・大正時代に、博愛精神に基づき、助産
活動をした先駆的助産師村松志保子は、安政三年
(一八五六)年生〜大正十一年(一九二十二)
明治十四年、この地に安生堂医院を開設、更に女性の地位向上のため、明治十五年、淑女館と
安生堂産婆学校を設立し、新しい教養豊かな産婆
(助産師)がこの地で育成された。志保子の
博愛精神は、貧富の分け隔てなく当時の母子を助け、その活動は、大正十二年九月一日の関東
大震災まで続けられた。ここに「志保子の崇高な精神」「高邁な志」に基づく活動を、末永く
称えると共に、助産師自らが設立した助産師教育と博愛的助産師活動発祥の地に、将来にわたり
全世界の全ての母子とその家族の健康と幸福を願い、更に世界平和の実現への助産師の祈りの
発信基地となることを記念して。

村松志保子助産師顕彰会建立               

平成十七年三月八日







        小 林 清 親 の 旧 居 地
江戸本所にて幕臣の子として生まれる。1862年(文久2
年)、15歳の時に父が亡くなった為元服し、清親を名乗
り、家督を継ぐ。幕府消滅後、徳川慶喜らを追って静岡
に下る。帰京後、絵師を志し、河鍋暁斎や柴田是真らと
席画会(後援者の前にて、即興で書画を揮毫すること。
)を共にしたと言われる。最後の浮世絵師、明治の広重
と評された。
住 所 / 東京都墨田区横網1丁目10





        







絵 画 と 文 学
Site of former residence of Kobayashi Kiyochika
小 林 清 親 旧 居 地
明治の浮世絵版画家で、最後の浮世絵師とも言われる小林清親は、江戸本所のお蔵屋敷
で生まれ、この辺りで暮らしていました。七人兄弟の末子で、明治維新の際は大阪や静岡
などを転々としますが、その後、帰京し洋風木版画の『東京名所図』を出版しました。
その西洋風の画風が「光線画」として人気となり、浮世絵版画に文明開化をもたらしたと
いわれています。明治十四年(一八八一)の両国の大火後は、光線画から遠ざかり、「清親ポンチ」
というポンチ絵を描くようになり、その後、錦絵の衰退により肉筆画を多く描くようになって
います。近世から近代への絵画の変遷を体現した画家といえるでしょう





光 線 画
明治に描かれた錦絵に「光線画」と呼ばれるものがあります。光線画とは西洋絵画の遠近法、
陰影法、明暗法といった手法で光を表現した浮世絵で、明治9(1876)年に小林清親によって
始められ、版元の松木平吉が名付けたといわれます。小林清親は写真術を下岡蓮杖に、西洋画法
をワーグマンに、日本画を川鍋暁斎・柴田是真に学び、それらの技法を総合して光線画を生み
出しました。清親は明治14(1881)年から光線画を描かなくなりますが、弟子の井上安治は
明治22(1889)年に亡くなるまで描き続けました。




品川海上眺望図
        
 本町通夜雪
           (小林清親ギャラリーへ)






       本所七不思議 椎の木屋敷跡
肥前平戸新田藩・松浦豊後守の上屋敷には、樹齢が何百年
かわからない鬱蒼と茂った椎の古木が枝々を塀の外にまで
伸ばしていた。でもどんな時にも落葉したことがなかった
為、これを気味悪がり家人もこの家にはあまり近づかなか
ったそうです。本所七不思議の一つで椎の木の葉が落ちる
のを誰も見たことがなく、「椎の木屋敷」と呼ばれる
ようになりました。
住 所 / 東京都墨田区横網2-1  





          





        






     

両 国 物 語
Former Mansion with the Chinkapin Tree of Unfallen Leaves
椎 の 木 屋 敷 跡
   2
本所七不思議の一つ、「落ち葉なしの椎」があった松浦家という大名屋敷は、この辺りにありました。
庭には立派な椎の木がありましたが、この木から葉が落ちるのを誰も見たことがありませんでした。
その噂はたちまち江戸中に知れ渡り、松浦家は「椎の木屋敷」と呼ばれるようになりました。もともと
椎の木というのは常緑樹で落ち葉は少ないものですが、それでも一枚も落ち葉がないということが
不思議です。大名屋敷という庶民からすれば特別の場所であったために、このような伝説が広まった
と考えられます。
                               墨 田 区





 
絵本江戸土産10編 首尾の松 大川端 椎の木屋敷
向こう岸の左側が椎の木屋敷
           
(すみだ郷土文化資料館より)







       旧 安 田 庭 園
旧安田庭園は、元禄4年(1691)、下野足利藩主本庄
氏の下屋敷として作られたのが始まりです。安政年間
に大規模な改修が施され 隅田川の水を引いた汐入回
遊庭園として整備されました。徳川時代における大名
庭園の典型をなす名園で、明治22年(1889)、安田財閥
の所有に移り、大正11年(1922)東京市に寄贈されました
現在は墨田区が管理しています。
開園時間 1月~5月、9月~12月)9:00~16:30
(6月~8月)9:00~18:00   住 所 / 東京都墨田区横網1-12-1  











        

旧 安 田 庭 園 の 沿 革
元禄年間 (1688~1703) に、徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)
の実弟で、後の常陸笠間(ひたちかさま)藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資(ほんじょういなばのかみむねすけ)
が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかた
どった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、
いわゆる潮入り池泉回遊式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政(あきまさ)
侯爵邸となり、明治24年(1891)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有
となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正11年( 1922 ) に家屋及び庭園は、
東京市に寄付された。大正12年 (1923) 9月1日の関東大震災により壊滅的な被害
を受けたが、残った地割り石組を基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者
の名を冠 して「旧安田庭園」と命名され、昭和2年(1927) 民間篤志家(とくしか)の寄附
による和風庭園として都内初の一般公開となった。昭和42年 (1967) 、東京都から
墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年 (1971) に
新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を今日まで
よくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、
平成8年(1996)、東京都の「名勝」に指定された。

THE HISTORY OF KYU=YASUDA GARDENS
In the Genroku Era ( 1688-1703),a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan
of 50,000 koku, Honjo Inabanokami Munesuke, who was a youger blood brother
of the biological mother (keishoin ) of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun,
received this land from the Bakufu as a suburban residence and is said to have
constructed this garden. This garden has a pond in the shape of the Japanese
character “kokoro”(heart) at its center and uses a system ston formationsknown
as shioiri by which the pond is fed from the Sumida River so the water level in
the pond rises and falls with the ebb and flow of the river’s tide. After the Meiji
Restoration, it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late Bizen-Okayama
Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of the
Yasuda Financial Group. After Zenjiro’s death,as specified in his will, the garden
and house were donated to Tokyo City in 1922. However, on September 1 of the
following year (1923)、the grounds were almost completely destroyed by the Great
Kanto Earthquake. The City began re-construction work on the garden, using
as a base the ishigumi ston formations, which fortunately remained, and then
named the gardens after the donor- -“Kyu-Yasuda Gardens” In 1927, it was opened
to the public as the first Japanese garden, donated by a private charitable person.
Taking the opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan
Government to Sumida City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971. It
was completely restored to the original condition of former times when it was
called a “distinguished garden ”. in 1996, this garden wasdesignated a Metropolitan
place of Scenic Beauty as a typical garden of the Meiji Era.





         





         





         





         





         





         





         





      

水  門  跡
江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって
池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化
を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです。この水門
は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の
水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ、
導水溝も埋められてしまいました。潮入の池は、都内ではほかに浜離宮公園や旧芝離宮
公園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、
浜離宮のみとなりました。墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園
北側に約七百五十平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽
に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入を再現しました。本園の
水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として
現状のまま保存されています。
                    墨 田 区





         





         






駒 留 石 
          
駒 留 井 戸 





          

駒  止  石
三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年 (一六三一) に秋の台風に見舞われ隅田川は
大洪水となりました。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べ
させようとしました。しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋
が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗りいれました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、
被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休憩したところが駒止石です。
当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒留稲荷を祀りました。
                               墨 田 区





         





         






       刀 剣 博 物 館
The Japanese Sword Museum
2018年1月19日(金)旧両国公会堂跡地に開館
公益 財団法人日本美術刀剣保存協会運営の、
美術刀剣類の保存、展示をする博物館です。
住 所 /東京都墨田区横網1-12-9  電話 /03-6284-1000
開館時間 9:30~17:00  





          





         





       





         





         






左側に防炎防火の防災観光風呂敷が見えます。 
          





                 






       良い歯の日発祥記念碑
昭和43年(1968) に両国駅近くの両国中学校の校門前に
設置されたが, 両国中学校の工事のため 一時的に 旧
曳舟中学校の校門前に移された。大正時代に今の
両国中で歯科検診を始めたことを記念して
「良い歯の日」が定められたそうです。

住 所 / 東京都墨田区横網1-10-2





              





         







良い歯の日発祥記念碑
歯科界の黎明期に 本所歯科医師会は  入江義次 五十嵐庭治君等の提唱で
口腔衛生普及運動を起したその始は奥村鶴吉 加藤清治  川上為次郎 岡本清纓 
高津武の諸先生に依頼して  当時の本所高等小学校(現墨田区立両国中学校)で
区内学童の口腔診査を実施した会員の積極的活動とライオン歯磨の後援によって
この運動は日本歯科界最初の企画として当時の新聞に報道された。この時学童数名
を選び表彰状と「良い歯の日碑」と記したメダルを贈った。大正十四年(1925年)
十一月七日のことである 本会の唱導は多くの反響をよび 後年「ムシ歯予防デー」
として発展するところとなった  本会発足五十周年に当り国民保健向上の一齣で
あるこのことが永く後世に伝わるようにこの碑を記念事業として建てるものである
    昭和四十三年(1968年)
         十月十日建之
                本所歯科医師会
 






       NTTドコモ歴史展示スクエア
自動車・船舶・衛星・携帯電話、ポケットベル、携帯
情報端末(PDA)、PHSといった、電電公社 NTT、
NTTドコモ、NTTパーソナルを中心とした、300点以上
の実機、移動体通信の過去から未来への歴史を見ること
ができます。
住 所 / 東京都墨田区横網1-9-2  電話 / 03-6658-3535 
開館時間 / 10:00~17:00
休 館 日 / 日曜・月曜、祝祭日、年末年始  





              





         





         






        大 東 流 合 気 柔 術 本部道場
「大東流」は多くの流派に枝分かれしている合気道
界の源流で日本古来の武道です。源義家の弟、新羅
三郎源義光を流祖として、甲斐、会津と武田家秘伝の
武芸として上級武士に代々伝えられてきました。
本部道場 稽古日  日曜日 18:30~21:00 
                            青年部少年部合同
 火曜日・金曜日 17:30~18:45 少年部
        19:00~21:00 青年部
住 所 / 東京都墨田区横網1-12-31  電 話 / 03-3517-2447 





         





         

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つぶやきいってみよう(お店・工場関係)



       Rcafe192(AHBASE両国)
カフェ
わんちゃんと過ごせるカフェ
目の前はNTTドコモのビルです。
無料WiFI・ワンチャンOK
テイクアウトOK:広々52席
住 所:東京都墨田区横1-9-2(AHBASE内)
電 話:03-5637-7414
   定 休 日:無休/不定休あり





             





          





          






      両 国 テ ラ ス カ フ ェ
旧安田庭園の隣です
電 話 :03-5608-7580
住 所:東京都墨田区横網1-12-21
[Mon-Fri]
LUNCH / 11:00~15:00(14:30 l.o.)
DINNER / 17:00~22:00
[Sat,Sun&Holiday]
LUNCH / 11:00~15:00  CAFE / 15:00~17:00
DINNER / 17:00~22:00





             





             





            

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(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)






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