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![]() 吾 嬬 神 社 御祭神 弟橘姫ノ命 日本武ノ命 縁 起 往時は吾嬬の森八丁四方と云はれまた 浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った 森林の神域にあった名社である草創は 遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼ り御祭神は弟橘姫ノ命を主神とし日本 武ノ尊を御合祀奉斉してあります。 正治元年(一一九九)北条泰時が幕下の 遠山丹波守らに命じて神領三百貫を 進し社殿を造営した嘉元元年(一三〇 三)開創の真言宗宝蓮寺現亀戸四丁目 を別当寺とし吾嬬大権現と称した以 後家の尊宗があって安永三年(一七七四) 大川橋の新設にあたり江戸から当社え の参道にあたるところから橋名を吾妻 橋と称したともいい明治二十一年に数 村を合せて吾妻村と称したのは時の府 知事高橋五代の発案で社名をとったの である。抑当社御神橘は昔時日本武ノ 夷征伐の御時相模の国に御進向上総の 国に到り給はんと御船に召されたるに 海中にて暴風しきりに起り来て御船す でに危ふかりしに御右橘姫の命海神の 心を知りて御身を海底に沈め給かしか ば忽海上おだやかに鎮りたり時に一つ の島忽然と現れ到る心を知りて御船を ば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひて あ丶吾妻恋しと宣ひしに俄かに東風吹 き来りて橘姫ノ命の御召物海上に浮び 磯部にた丶寄らせ給ひしかば尊大きに 喜ばせ給ひ橘姫ノ命の御召物を則此洲 に納め築山をきづき御廟となしたりこ れ現在の御本殿の位置なり此時尊は食 し給ひし橘の御箸を以て末代天下平安 ならんには此箸忽ち根枝を生じし処葉 茂り連理の男木女木となれり神代より 二千有余年の星霜おし移ると云へ共尚 梢えの色変らず栄えし処名樹も第二次 大戦の災禍を被り焼け落ち化石の如き 姿で残った其一部を以て賽銭箱を造り ご神前に永く保存される事となった以 後御神徳に依る数々の奇瑞を現わし諸 人の助けとなりたる神樹を惜みて明治 維新百年祭を記念して元木に優る名樹 本語成長を祈念しつつ二本の若木が植 えられた爾来十年余念積成就の兆し現 れ日毎に葉茂り枝栄えたりこれこそ御 神木の再生ならんと此由来を御世に伝 えんと略してしるす也 亀戸郡 七十八歳 老書 樰澤信博 |
![]() 吾 嬬 神 社 御祭神 弟橘姫命合殿日本武命 縁 起 抑当社御神木楠は昔時日本武命尊東夷 征伐の御時相模の國に御進向上の國に 到り給はんと御船に召されたる海中に て暴風しきりに起り来て御船危ふかし りて御后橘媛命海神の心を知りて御身 を海底に沈め給ひしかば忽海上おだや かに成りぬれ共御舟を着くべき方も見 えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀 にも西の方に一つの嶋忽然と現到る御 船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給 ひてあゝ吾妻戀しと宣ひしに俄に東風 吹耒りて橘媛命の御召物海上に浮び磯 辺にただ奇らせ給ひしかば尊大きに喜 ばせ給ひ橘媛命の御召物を則此浮洲に 納め築山をきづき瑞離を結び御廟とな し此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ海上 船中の守護神たり尊神ここに食し給ひ し楠の御箸を以て末代天下平安ならん には此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて 御手自ら御廟の東の方にささせ給ひし に此御箸忽ち根枝を生じし処葉茂り相 生の男木女木となれい神代より今に至 りて梢えの色変らぬ萬代をさめし事宛 然神業なり其後民家の人々疫にあたり 死する者多かりしに時の宮僧此御神木 の葉を与えしに病苦を払ひ平癒せしよ り諸人挙って尊び敬ひぬ今こそ此御神 木楠の葉を以って護符となして裁服す るに如何なる難病にても奇瑞現れぬと 云ふ事なし凡二千有余年の星霜おし移 ると云へ共神徳の変らざる事を伝ふべ し共猶諸人の助けとならんと略してし るす也 |
![]() ![]() 《墨田区登録文化財》 吾 嬬 の 森 碑(あずまのもりひ) 所在地 墨田区立花一丁 目一番十五号 吾嬬神社内 この碑は、明三年(一七六六)に儒学 者山県大貳(やまがたたいに)により建 立されたと伝わります。「吾嬬の森」 とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、 江戸を代表する神社の森のひとつとし て「葛西志」や「江戸名所図会」にも 紹介されています。碑の内容は、地元 に伝わる神社の来歴となっており、日 本武尊(やまとたけるのみこと)の東征 、尊の妃・弟橘媛(おとうとたちばな ひめ)の入水(じゅすい)により海神の怒 りを鎮めたこと、人々がこの神社の地 を媛の墓所として伝承し、大切に残し てきたことなどが刻まれています。「 新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の 傍らに建てられていたと記されていま す。神木とは、墨田区登録文化財であ る「連理(れんり)の樟(くす)」のこと です。一つの根から二つの幹を見せる は、歌川広重の「江戸名所百景」にも 描かれています。左の絵は広重の作品 「江戸名所道化盡(どうけづくし) 吾 嬬の森梅見」で、中央にひときわ高く そびえるのが「連理の樟」です。明治 四十三年(一九一❍)の大水や関東大 震災、東京大空襲などにより森は失わ れましたが、長く地域に根ざした伝承 は、この碑を通じても垣間見ることが できます。 平成二十一年三月 墨田区教育委員会 |
![]() 〈墨田区登録文化財〉 狛 犬 安永二年五月銘 所 在 墨田区立花一丁目一番 この狛犬は比較的小型の一対ですが、 世話人一0名と奉納者二二名もの名前 が刻まれています。そのほとんどが築 地小田原町(中央区築地六・七丁目)や 本船町地引河岸(中央区日本橋本町)な ど日本橋の商人であることから、海運 ・漁業関係者とのつながりをよく表し ているといってよいでしょう。このこ とは吾嬬神社の由来に起因しています 日本の神話に、日本武尊(やまとたけ るのみこと)が現在の東京湾を舟で渡 っている時に海神の怒りに触れ、往 生していた時に妻の弟橘媛(おとた ちばなひめ)が海に身を投げて海神の 怒りを鎮めたという話があります。 この媛の品が流れ着いた所がこの地 だったということです。以来、海や 川で働く人々の守護神として信仰さ れてきたわけです。また、地盤沈下 していなかったため、この社の裏の 「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山 のように広がり、海上からの好目標 だったことも崇敬を集めた理由のひ とつでしょう。現在、鉄柵の奥にあ るために近づくことはできません が、かえって台座に刻まれた人名な ど、良い状態で保存されています。 平成九年三月 墨田区教育委員会 |
![]() 吾 嬬 神 社 御祭神 弟橘姫ノ命 日本武ノ命 縁 起 往時は吾嬬の森八丁四方と云はれまた 浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った 森林の神域にあった名社である草創は 遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼ り御祭神は弟橘姫ノ命を主神とし日本 武ノ尊を御合祀奉斉してあります。正 治元年(一一九九)北条泰時が幕下の遠 山丹波守らに命じて神領三百貫を寄進 し社殿を造営した嘉元元年(一三〇三 )開創の真言宗宝蓮寺現亀戸四丁目を別 当寺とし吾嬬大権現と称した以後武家 の尊宗があって安永三年(一七七四)大 川橋の新設にあたり江戸から当社えの 参道にあたるところから橋名を吾妻橋 と称したともいい明治二十一年に数村 を合せて吾妻村と称したのは時の府知 事高橋五代の発案で社名をとったので ある。抑当社御神橘は昔時日本武ノ命 東夷征伐の御時相模の国に御進向上総 の国に到り給はんと御船に召されたる に海中にて暴風しきりに起り来て御船 すでに危ふかりしに御右橘姫の命海神 の心を知りて御身を海底に沈め給かし かば忽海上おだやかに鎮りたり時に一 つの島忽然と現れ到る心を知りて御船 をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひ てあ丶吾妻恋しと宣ひしに俄かに東風 吹き来りて橘姫ノ命の御召物海上に浮 び磯部にた丶寄らせ給ひしかば尊大き に喜ばせ給ひ橘姫ノ命の御召物を則此 浮洲に納め築山をきづき御廟となした りこれ現在の御本殿の位置なり此時尊 は食し給ひし橘の御箸を以て末代天下 平安ならんには此箸忽ち根枝を生じし 処葉茂り連理の男木女木となれり神代 より二千有余年の星霜おし移ると云へ 共尚梢えの色変らず栄えし処名樹も第 二次大戦の災禍を被り焼け落ちて化石 の如き姿で残った其一部を以て賽銭箱 を造りご神前に永く保存される事とな った以後御神徳に依る数々の奇瑞を現 わし諸人の助けとなりたる神樹を惜み て明治維新百年祭を記念して元木に優 る名樹日本語成長を祈念しつつ二本の 若木が植えられた爾来十年余念積成就 の兆し現れ日毎に葉茂り枝栄えたりこ れこそ御神木の再生ならんと此由来を 御世に伝えんと略してしるす也 平成二十四年十月 江都西葛飾 亀戸郡 七十八歳 老書 樰澤信博 |
立花大正民家園旧小山家住宅の 年間イベント 〇庭には七福神の像があり、わずか1 分間で七福神めぐりができるスポット になっています。 〇3月3日のひなまつりにちなみ、毎 年2月下旬から3月上旬まで小山家のひ な人形を中心に展示します。 〇5月5日の端午の節句にちなみ、毎 年4月下旬から5月上旬まで小山家の五 月人形を展示します。 お問い合わせ・・すみだ郷土文化資料館 が担当しています。 (電 話/ 03-5619-7034) |
![]() 〈墨田区指定有形文化財〉 旧 小 山 家 住 宅 所在地 墨田区立花6丁目13番17号 立花大正民家園内 旧小山家住宅は、大正6年(1917)建築の平 屋建寄棟造瓦葺の住宅で、平成10年(1998) に墨田区に寄贈されました。この住宅は 、土間のある整形四間取(方形を4等分し た田の字型の間取り)の典型的農家の構造 形式と、出格子窓や堅格子戸など町家の 伝統に客間を充実させた構造とを併せも ち、近代以降に普及したと考えられる都 市近郊住宅の特色をよく留めています。 正面に玄関を二つに設け、縁側の両端に 押入れと便所を配置している構造は、墨 田区周辺地域の他の民家にも見られます 。昭和10年代に屋根を茅葺から瓦葺に葺 き替えたほか、土間に床を張るなどの改 修が部分的に行われていますが、板ガラ スも当時のままの状態で残されるなどほ ぼ原形を保っており、建築当初の姿を伝 えています。関東大震災や東京大空襲な どをのがれた旧小山家住宅は、都市化の 進んだ墨田区内で数少ない歴史的建造物 として、近代以降のこの地域の人々の生 活様式の変化を伝える貴重な文化財 です。 平成二十七年三月 |
令和7年度![]() ![]() |
![]() 旧中川の桜と中川桜愛護会 多くの方々に親しまれている旧中川の 水辺を、より一層区民に親しまれ、魅 力的な空間とするため、区では、区の 木である桜を植樹しています。それを 契機に平成十五年六月十九日に沿川の 五町会で構成された中川桜愛護会が発 足しました。中川桜愛護会は、旧中川 の桜の保全をはじめ、自然豊かな空間 を大切にし、墨田区の桜の名所となる ような美しい環境づくりを目指してい ます。平成二十二年四月十三日には、 三町会一自治会が新たに参加し、沿川 の全町会による愛護会となりました。 旧中川の桜は、平成十三年三月に植樹 した六本の桜から始まり、平成二十四 年三月現在では257本になり、区を代 表する桜の名所の一つとなりました。 中平井橋のたもとには、平成二十二年 二月に立花五丁目町会より、紅白の夫 婦桜が寄贈されました。 平成二十四年三月 墨田区 【中川桜愛護会】 東墨田三丁目町会 東墨田一・二丁目町会 立花五丁目町会 立花五丁目東町会 立花六丁目町会 (平成十五年六月十九日発足) 都営 立花六丁目アパート自治会 立花四丁目町会 立花あづま町会 立花南町会 (平成二十二年四月十三日参加) |
![]() 白 髭 神 社 御 由 緒 御祭神 猿田彦大神 猿田彦大神、またの御名を大地御祖 (おおづちのみおや)神と申し上げ、天 孫「ニニギノ尊」が我が國土におくだ りになった際、天の八街(はちまた)に お出むかえ申し上げ、天孫を高千穂の 峯に道案内申し上げ、この大任を果さ れてから伊勢の五十鈴の川上に宮居を 定められ、こゝを中心に広く國土開拓 の指導にあたられました。御神徳高い 大神は白髭大神・佐田大神(伏見稲荷 大社 御 祭 神) 道祖神(道しるべ 庚申(長命)さまとして全国津々浦々に お祀りされております。大神は古くよ り物事の始めに災いを祓い給い最も善 き方へお導き下さいます御神穂をおも ちになり、海陸の交通の安全を護り商 工業の繁栄、田畑、山林、宅地の凶を 払い、土の御祖神としてあまねく万人 万事に尊い御神恵を垂れさせ給う大恩 神でございます。当社は古来より南葛 飾郡葛西川村の鎮守神であり、新編武 蔵風土記に「村の鎮守とす」と記され ている。葛西誌によると創立は霊言天 皇の御代天和二年、徳川綱吉将軍 (五 代) の時代で、当時の庄屋鹿倉吉兵衛 、関口一郎治両氏が幕府に許しを受 、現在地の中川のほとりに社地を定め 里人を導きて当社を勧請した。現在の 御本殿は大正十二年の御造営にして、 幣殿拝殿は昭和四十六年氏子崇敬者の 熱誠溢れる努力により御造営された。 |
![]() 〈墨田区登録文化財〉 庚 申 塔 ( 道標付 ) 所 在 墨田区立花六丁目十七番 四号 東漸寺内 この庚申塔は宝暦十三年(一七六三)十一 月の銘を持つ駒形の??で、正面には 青面金剛像を半肉彫りし、一鬼・二鶏 ・三猿を配した典型的な庚申塔ですが 、左側面には「左やくし道」、右側面 には「右市川道」と刻まれており、 木下川薬師 (元は荒川放水 路の中程にあった) へ抜ける道と市川 へ抜ける道の分岐点に立てられ、道標 の役割を兼ねていました。このことか ら、元は当寺より南を通る平井街道( 平井の渡しから東は市川道と呼ばれ た)沿いにあったものが、当寺に保管 されたものと思われます。かつては 区内にも、いくつもの街道が交差し 、多くの道標が立てられていたもの と思われますが、数々の災害に見舞 われ、区画が整理されたため、現存 する道標は少なく、庚申塔と兼ねて いるものはこれ一基のみで、貴重な 存在となっています。 平成四年三月 墨 田 区 |
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