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![]() 下 の 道 承和2年(835) の太政官符に「武蔵国下 総両国堺、住田河四艘・・」の記載が みられます。住田渡し(隅田渡)は現在 の白髭橋辺と考えられ、大正3年(1914 )の架橋頃まで、永々と続く隅田渡があ りました。古代東海道の官道であり、 鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道す じにもなっていました。この墨堤堤を 下る道も古道で、古くから「下の道」 と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも 想定させます。源頼朝が敵対する常陸 国の佐竹氏討伐に、また、奥州征伐に も使用された道とも考えられます ( 吾妻鏡)。さらに時代が下り、戦国時 代には国府台合戦の小田原北條軍の 使用路でもあり、郷土の歴史を知る うえからも貴重な道すじです。 平成12年3月 監修 墨田区教育委員会 施主 東京都住宅供給公社 |
![]() 鎌倉街道ルート 上道 (かみつみち) 高崎→山名→奈良梨→笛吹峠→入間→ 所沢→府中→本町田→瀬谷→化粧坂→ 鎌倉 中道 (なかつみち) 古河→栗橋→岩槻→鳩ヶ谷→板橋→ 世田谷→荏田→鶴ヶ峰→上永谷→鎌倉 下道 (しもつみち) 松戸→堀切→浅草→大手町→丸子→ 綱島→菊名→帷子→金沢→六浦→ 朝比奈→鎌倉 |
![]() ![]() 岐 雲 園 跡 岩瀬忠震居住の地 所在地 墨田区墨田一丁目4番 この付近には、幕末の幕臣、岩瀬 忠震(1818~1861)の別邸がありま した。その別邸は、忠震が所有した 画巻の作者、魯岐雲の名にちなんで 岐雲園と呼ばれました。広さ約500坪 の敷地の中に、河水を引いた汐入式 の庭園があったようです。忠震は、 旗本設楽貞丈の三男で、37歳のとき 旗本岩瀬忠正の娘婿となり、同家の 家督を継ぎました。しょうへいざかがくもんじょの 教授を務め、その俊才ぶりが老中阿 部正弘の目にとまり、登用されて外 国奉行にまで出世しました。 全権の一人としてロシアやアメリカ との条約締結にかかわったことで 有名です。岩瀬と交渉したアメリカ 合衆国総領事タウンゼント・ハリス は、「岩瀬の諸全権は綿密に逐条 の是非を論究して余を閉口せし めることありき」と回想していま す。しかし、忠震は将軍継嗣問題で対立した大老井伊 直弼から蟄居 を命じられ、その後は岐雲園で書 画にふける生活を送り、文久元年 (1861) 7月に43年の生涯を閉じ ました。なお、東向島の白鬚神社に は、友人の永井尚志 が撰文した「岩瀬鴎書君之墓碑)」 があります。(鴎書は忠震の号) 。岐雲園には後にこの永井が暮ら し、忠震を偲びました。また、永 井の後には幸田露伴(作家)や、 露伴の兄成常(相模紡績社長)も居住 しました。 令和3年3月 墨田区教育委員会 |
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