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![]() 文政年間(1818年~30年)の中頃の摺物 (すりもの)です。摺物とは狂歌師など が知り合いに配るために絵師に注文し て作ったプライベートな版画で、売り は違い、採算を度外視した豪華な作品 が多いのが特徴です。葛飾北斎が為一 (いいつ)と名乗っていた60~70歳代中 頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を 訪れる参詣客の様子が描かれています 。門前の右の石柱に「新田義貞公守本 尊髻不動明王寺嶌法泉寺」とあります 。現在のところ、江戸時代の法泉寺に 関する版画はこの作品だけであり、墨 田区所蔵のピーター・モースコレクシ ョン以外では確認されていない唯一の 作品で、墨田区指定有形文化財となっ ています。 A surimono print from between 1818 and 1830. Surimono prints are woodblock prints that were commissioned for the private use of artists to distribute as gifts to comical tanka artists and other such acquaintances, and because they were not for sale, many of these prints feature a level of exaggerated gorgeousness that would not have been profitable under normal circumstances. This print was created by katsushika Hokusai under the name of litsu when he was between 60 and 70 years old, and it portrays the many people who visit the Hosenji Temple in Higashi-Mukoujima, Sumida-ku, to pray. On the right-hand column to the right of the gate is written Nitta Yoshisada-Guardian-Acala- Hosenji.This is the only woodblock print related to the Hosen Temple in the Edo Period currently in exstence, and no other ones heve been confirmed outside of the Peter Morse collection that is stored in the Sumida-ku archives. It has been designated as a Sumida-ku Tangible Cultural Asset. |
![]() ![]() 法 泉 寺 縁 起 法泉寺は永平寺と總持寺を両大本山と 仰ぎ駒込吉祥寺を本寺とする曹洞宗の お寺です。今から約八百年前、源頼朝 公の重臣で奥州を支配した葛西三郎清 重公がこの下総国大沼に堤を築いて開 墾し、父母追善供養の為に建立したと 伝えられており、「寺島村」地名発祥 の寺のひとつと云われています。天文 元年(一五三二)吉祥二世大州安充大和 尚により伽藍が再興され、慶安元年( 一六四八)には江戸幕府より八石五斗 の御朱印状を賜りました。寛文二年( 一六六二)石造地蔵菩薩立像、享保二 年(一七一七)銅像地蔵菩薩立像が建立 されたほか、東京大空襲による焼失を 免れた数々の文化財が継承されていま す。四百年の歳月を経て、なおやさし さを偲ばせる三百余基の石仏群が祀ら れ、粋でゆとり溢れる江戸文化が伝え られています。 清河山 法 泉 寺 |
![]() ![]() 不 許 葷 酒 入 山 門 葷酒山門に入るを許さず 寛政三年(1791)二月二十一日 禅寺門前にある戒壇石。香りの強い葱 ・韮・大蒜等の野菜や酒等は心乱し 修行を妨げるため、寺内への持ち込み とそれらを口にした者の立入りを 許さないという意。 |
![]() ![]() <墨田区登録有形文化財> 窪俊満「故郷の」の歌碑 所在 墨田区東向島三丁目 八番一号 法泉寺 江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の窪 俊満(一七五七~一八二〇)を偲び、彼 の友人たちが文政四年(一八二一)六月 に建立しました。正面には俊満の作品 で狂歌作品集にも掲載された「故郷の おやの袖にも やとるかとおもへは 月は ふたつなきもの」という和歌が 刻まれています。裏面には石川雅望に る俊満の人物紹介と建碑の経緯を記し た一文が刻まれています。書は秋元廣 丸、碑刻は窪世祥が受け持ちました。 平成二十七年九月 墨田区教区委員会 |
![]() ![]() 〈墨田区登録有形文化財〉 銅 像 地 蔵 菩薩立 像 所在 墨田区東向島三丁目八 番一号 法泉寺 享保二年 (一七一七) 九月に十方万霊供 養と施主浅草御堂前阿部主水の祖先及 び二親の一家霊魂菩提のために建立さ れました。延命地蔵として今日まで親 しまれてきました。右手に錫杖、左手 に宝珠を持つのは地蔵 菩薩の典型です。円光背があり、方形 の台石と銅像蓮台の上に地蔵菩薩が立 っています。蓮台敷茄子には「奉造納 東海道武蔵國葛飾郡西葛飾領寺島村 佛頂山法泉寺」と陽鋳され、地蔵菩薩 の衣には結衆者の名前と戒名が陰刻さ れています。作者は鋳物師の宇田川善 兵衛藤原重勝です。重勝は『大武鑑』 にその名が載り、小伝馬町三丁目(現中 央区日本橋小伝馬町) に住んでいたこ とが分かります。常泉寺 (墨田区向島) の鐘享保四年) 等も製作しました。 (現存しません) 平成二十七年九月 墨田区教育委員会 |
![]() ![]() 〈墨田区登録有形民俗文化財〉 石造地蔵菩薩立像 所在 墨田区東向島三丁目八番一号 法泉寺 寛文二年 (一六六二) に祀られた舟形 光背をもつ浮彫地蔵菩薩立像で、三人 の導師と二十一名の建立者の名前が 刻まれています。建立者の中には玉と いう女性の名前も確認できます。右手 は欠損していますが、裳裾の状態 から錫杖を持っていたと考えられ ます。総じて眉目秀麗な造りです。 光背には紀年銘とともに「願以此 功徳 普及於一切我等与衆生 皆共成 佛道(願わくは此の功徳を以て、普 く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共 に、仏道を成ぜんことを)」と いう有名な回向文が刻まれています 平成二十七年九月 墨田区教育委員会 |
![]() ![]() 千鳥庵鳥奏の歌碑 寛政九年(一七九七) 短冊塚 散日からちるを盛や花の山 思ひきって飛姿なりほとときす 我を山に捨て名月入に鳧 夕煙雪の野末に里ありや 千鳥庵鳥奏 裏面 寛政九丁巳秋九月 三世千鳥建之 |
橋 場 の 渡 し 白鬚の渡しとも呼ばれ、現在の白鬚橋 付近にありました。記録に残る隅田川 の渡しとしては最も古く、橋場の渡し の辺りは、明治の中頃までは鬱蒼とし た樹木が茂る、閑静で長閑な田園地帯 であったそうです。橋場は歴史の古い 土地柄から江戸時代から風流な場所と され、大名や豪商の別荘が隅田川河岸 に並び、有名な料亭も多く、明治期に は明治の政府高官三条実美の別荘であ る「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあ りました。橋場の渡しは、奥州街道と 水戸街道が隅田川を渡る位置にありま したので、江戸と東北地方を結ぶ重要 な渡河地点でした。東北へ往来する 要から徳川幕府は千住に大橋を架けま すと、橋場の渡しは、街道の渡し場と しての役割は終わりましたが、大正時 代に白髭橋が架けられる迄ありました |