![]() 【墨 堤 通 り】 ![]() 【三と も 通 り】 ![]() ![]() ![]() ![]() 【鳩 の 街 通 り 】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
向島蔵春閣の「大倉喜八郎を語る」 講演会 令和5年4月15日(土) 午後2時~午後4時 すみだ生涯学習センターにて 70名以上の参加者で、大倉喜八郎氏の 人柄を講師の村上先生が分り易く説明 して下さり、喜八郎氏の人柄の素晴ら しさを知り、新発田市に是非行ってみ たいと思いました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 蔵春閣 (大倉別邸) 講演会 平成31年4月20日(土) 午後2時~午後4時 松 尾 浩 樹 氏 (大成建設) 岩 崎 和 雄 氏 (建築写真家) すみだ学習センター(ユートリア)にて ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 言問団子さんに展示されています。 ![]() 墨田区伝統工芸 江戸文字提灯 大石智博氏作 「蔵春閣」のあゆみ
大 倉 喜 八 郎 新潟県新発田市出身で明治・大正期に 活躍した実業家です。大倉財閥を一代 で築きあげ、さまざまな近代産業の 育成や企業の設立に関わっています。 大倉喜八郎が興した主な企業や学校。
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![]() 大 倉 喜 八 郎 別 邸 跡 この一角は田沼意次にとりいり養女 を大奥に入れて権勢をほしいままに した中野碩翁の別邸跡で、隅田川に 面して贅をこらしていた。そこを 明治の政商大倉喜八郎が受け継ぎ、 大蔵別邸としていた。邸内の川に 面して建てられていた、「蔵春閣」 は船橋の『ららぽーと』に 移築されている。 共栄倉庫株式会社 |
![]() A vassal of the Shogun who became a Meiji Leader Residence of Enomoto Takeaki 榎 本 武 揚 旧 居 跡 父は幕臣で、伊能忠敬にも師事した知 識人であった。武揚も幼い頃から 学 才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎 左衛門から蘭語、中濱萬次郎から英語 をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋楽 の素養を身につけた。19歳で箱館奉行 の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検 に参加する。安政3 (1856) 年には長崎 海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航 海術を身につけた。文久2(1862)年 に 幕府留学生としてオランダに渡って、 船舶に関する知識をさらに深める一 方、国際法や軍学を修めた。慶応3 (1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽 」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総 裁に任ぜられた。戊辰戦争では徹底抗 戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間 投獄された。この箱館戦争で敵将なが らその非凡の才に感服した黒田清隆の 庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明 治7(1874) 年に駐露特命全権公使とな り、樺太・千島交換条約を締結。海軍 卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大 臣などを歴任した。明治38(1905) 年 から、73歳で没する同41年までこの付 近で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する 姿が見られたという。 ![]() 榎本武揚像 梅若公園にある銅像 武揚が揮毫した牛島小学校の篆額 ![]() Enomoto Takeaki (1836~1908) was gaoled for supporting the defeated Shogun’s forces during the Meiji restoration, but later he was enlisted to serve the new government in several ministerial posts. He was known for his love of the spirit of downtown Tokyo. 天保7 (1836) 年8月25日~明治41 (1908) 年10月26日。箱館戦争で官軍 と戦ったが、3年間の投獄後は新政府 で文部大臣、外務大臣などを歴任し た。下町情緒を好み、門づけの 三味線弾きを家に呼び込んだり、ひい きの力士に相撲の型をとらせて楽しん だという。また墨堤植桜之碑や牛島 小学校の篆額に揮毫している。 |
![]() The mentor of Mori Ogai and aficionado of Mukojima-Hyakkaen Gardens Residence of Yoda Gakkai 依 田 学 海 旧 居 跡 佐倉藩士の家に生まれた學海は、藩校・ 成徳書院で漢学を学び、教授となった。 後に江戸藩邸留守居役などの重職を務め 、維新後は東京会議所の書記官となった。 その後、文部省に出仕し、漢文教科書の 編集に携わっている。53歳で退官し、創 作や文芸評論に力を注いだ。森鴎外の師 としても知られ、『キタ・セクスアリ ス』の中では文淵先生として登場。向 島の隅田川の土手を臨む須崎村142(向 島5丁目、言問小学校あたり)に居を構 え、若い妻と幸せな日々を送っていた ことを書いている、(実際は妾宅で、漢 文の直しを乞いに訪ねた若い鴎外は気 づかなかった)。鴎外が15歳の頃の出 会いだが、その後も二人の交流は続き、鴎外のドイツ留学に際しては、『送森 軍医游伯林序』という送別の漢詩を贈 っている。向島百花園にもよく足を運 び、明治15年に発行された『墨水24景 記』には永井荷風著「墨東綺譚」の主 人公が持って歩いていたことでも知ら れている。また、50年以上に亘って書 き続けた日記『學海目録』には多く の文化人との交流が記され、明治文 化史の貴重な資料にもなっている。 ![]() ![]() Yoda Gakkai (1833-1909) was a scholar of Chinese classics, art critic, novelist and playwright. He mentored. the writer Mori Ogai, and Koda Rohan was also his protege. Yoda remained close to Mori for many years and he even penned a farewell Chinese poem when Mori departed to study in Germany. 本名:依田百川 天保4(1833)年1月3日~明治42(1909) 年12月27日漢学者、文芸評論家、 小説家、劇作家。森鴎外の師、幸田 露伴を文壇に送り出した人として 知られている |
![]() ![]() 成島柳北 の 住 居 跡 所 在 墨田区向島五丁目四十番 言問小学校 成島柳北(一八三七~一八八四)は、幕府 の儒者の家に生まれ、奥儒者として将 軍徳川家定・家茂に仕えました。後に 騎兵奉行・外国奉行などを歴任しまし た。明治維新後は新政府の招きを固辞 し、「朝野新聞」の主筆として、新聞 条例や讒謗率を批判し たことで知られました。 明治十七年(一八八四)一一月、海棠園 と呼ばれたこの場所で四八年の生涯を 閉じました。初め、横川にある本法寺 に葬られましたが明治四二年(一九〇九) に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬されま した。明治一八年、長命寺の境内に柳 北の記念碑が建てられました。 平成一三年三月 墨田区教育委員会 |
![]() 向 嶋 有 馬 温 泉 縁 起 向島は江戸時代より多くの別荘が営 まれ、春には花の名所として賑わっ ていました。明治十七年、兵庫有馬 の湯花をこの付近に遷し、向島有馬 温泉が開業しました。この由来を語 り継ぐものとして次のような文献が 残っています。客間萱葺二階建て一 棟何の風情も無けれど、遠く墨堤の 桜を望み、小田の蛙に耳を澄し、 秋は稲葉の風に戦ぐも、態変わりて をかし、栽籠繁茂く枝を交し、瓦葺 の三階造は小丘を抱きて立てるをも て背面より登れば直ちに二階に達す く、正面より登れば初階より通るを 得べし、其さま恰も浅草奥山鳳凰閣 の如く、南に二階家の離れて建てら れたるは旅館なり、梅林鬱として藤 樹蔭を成し松籟微かに眠を催して、 三伏涼を納るゝに適す。泉水 池あ り水青く、中島に茶室あり、渚に捨 小舟、それすら風雅なるに、蓮の浮 葉に鯉の跳ねて、客あり、釣竿を望 時は、随意に貸与して、釣る所の魚 を調理す、鮮鱗溌溂膳に上るも快。 混堂 池畔に在り、湯槽は好心地よ く洗われて、男室女室に区画たる。 料理 普通一式の料理、花中又弁当 を調進す。美人なし、別嬪は他より お連れ下されとは情けなくも、前歯 のぼっくり欠損たる婆様が愛嬌。梅 干 梅林数十株、毎歳梅干と為す、 有馬産の梅干は名代なり、春は籬根 の残雪未だ全く消えやらぬ間に、 南枝蕾を破って暗香浮動、梅見に と筇を曳く雅客、つヾいて向島桜 狩りの崩れ客、庭の藤の花池の面に ゆかりの色を映せば、五月ともなり て実梅の影夏座敷に落ちて、水無月 文月三伏ともなれば、夏を余所なる 納涼がてらの客、美姫を携え酒肴 満盞、緑蔭華胥に遊ぶもよからむ。 『新撰東京名所図会』第十四編より 一部引用上の絵は山本松谷、右は山 下重民の文により明治三十一年発行 の『風俗画報』に掲載されました。 江戸の面影と明治の息吹を伝える雑 誌に「有馬温泉」は「行楽の場」と して描かれています。その後この地 に「有馬温泉」の名に因んだ銭湯が 誕生し、地域の人たちの「憩いと語 らいの場」としてともに生きてきま した。向島の歴史と文化を伝えたく この碑文を設けます。 二〇〇四年十二月 |
![]() A popular novelist and recipient of the Order of Cultural Merit Residence of Yoshikawa Eiji 吉 川 英 治 旧 居 跡 明治25(1892)年、横浜生まれ。父は旧 小田原藩士。県庁勤務の後牧場経営に 失敗し、家運が傾いたため、小学校を 中退。職を転々としながら、朝から晩 まで働き通した。18歳の時、上京。本 所菊川町(立川4丁目)のラセン釘工場 に住み込み、夜は、本所林町(菊川1丁 目)の府立夜間職工学校で、工芸図案 を学ぶ。その後、浅草三筋町にある輸 出用金属象嵌の下絵描きの徒弟となっ た。 貧しさも あまりの果ては 笑ひ合ひ (吉川雉子郎の名で発表した川柳) 大正6(1917)年、25歳の時に下谷の 花街で知り合った赤沢やすと、この付 近で同棲を始め、母たちを近くの借家 に呼んだといわれている。本格的な作 家活動は、30歳で『親鸞』を初めて 新聞連載した時に始まる。以後、創刊 された「キング」に『剣難女難』、大 阪毎日新聞に『鳴門秘帖』を連載し、 国民文学作家としての地位を不動のも のにした。 ![]() Yoshikawa Eiji (1892~1962)was a prolific author responsible for around 80 full-length novels including. The Secret Record of Naruto, Miyamoto Musashi, Romance of the Three Kingdoms,and The New Tale of Heike, as around 180 shorter works. In 1960 this popular author was awarded the Order of Cultural Merit 本名:吉川英次 明治25(1892)年8月11日~昭和37(1962) 年9月7日。「鳴門秘帖」 「宮本武蔵」「三国志」「新・平家物 語」など長編約80編、短編約 180編という膨大な小説を執筆、国民 文学作家と親しまれ、昭和35年に 文化勲章受章 ![]() ◆ 「古川柳隅田川考」 隅田川の古川柳に関する研究。 吉川雉子郎のペンネームで、 「大正川柳73号」に発表。 画像提供 吉川英治記念館 |
《墨堤さんより一言》 墨 亭 と は 築60年超の古商店を改修し、隅田川沿 いの地域名「墨堤」にかけて墨田区向 島界隈の地域に根ざした寄席をコンセ プトに2019年(令和元年)5月1日、オー プンしました。向島は江戸時代の後期 に「江戸落語中興の祖」である烏亭焉 馬が「咄の会」を開き、現在に至る落 語を生んだ地です。そうした地で、日 本を代表する芸能である落語や講談、 諸芸、そして、江戸・東京文化を「聞 き・知り・学ぶ」をコンセプトとした 高座と講座を繰り広げるべく空間です |
![]() この「押絵」と「羽子板」がいつ頃そ の別々の歩みの中で融合したのか。時 は江戸中期文化文政の頃(1800)江戸 では大平の世の中、庶民の娯楽の第一 が「歌舞伎」でした。そこで名優、人 気役者の舞台姿を「押絵」の技法で作 り、おめでたとされていた「羽子板」 に入れ販売したところ江戸庶民に人気 を得て、その後明治、大正、昭和、 平成の現在に至る。押絵羽子板作り 歌舞伎の所作事を多く主とし荒事、 和事、舞踊など芝居の筋、演じる役 者の心を読み取って作り上げる。 ![]() 「羽子板」、これはいつの時代から あった物だろうか詳しい事はわから ないが、室町時代の書物に初めて見 える。永享4年(1433)正月「御所 において宮様公卿女官達が紅白に分 かれて羽根突に興ぜられた」と記録 ある。宮中ではお正月に必ず羽根突 きをしてその年の健康を祝いました 。現在でも女の子の誕生の初めての お正月には羽子板を贈る風習が全国 各地に残っています。「押絵」とは 後世の押絵細工ではなく表具の貼絵 の技法で、宮中の公卿女官達の趣味 として衣類の残り布を材料として屏 風、香箱等に装飾として使われ当時 の上流社会において流行、江戸時代 には庶民の間に普及した。 |
書道工房「麗」さんからの一言 ・少人数制で、一人一人としっかり向 き合い、丁寧な指導を心がけています。 ・書くことの楽しさ、上達することの 喜びを体感できる教室を目指していま す。 ■クラス ・年長さん(安全上、保護者様の同席を お願いしております) ・小・中学生 ・高校生・一般 ・小さなお子様連れママ ■指導内容 毛筆(楷書・行書・草書・仮名)、及び 硬筆の指導が可能です。 学年や経験年数に応じた学習内容を 提案させていただきます。 |