スカイ姫のつぶやき街角北西部ルート6
鐘 ヶ 淵 駅

      

 

多 聞 寺 ( ヒロシマでの原爆
被害を表徴する花夾竹桃&長崎
爆心地の木 楠)

多聞寺山門

榎本武揚の書による隅田川七
福神の碑  

東京大空襲で被災した浅草国際劇
場の鉄骨&戦災の証言者
 
  六地蔵座像   タヌキ塚

平和観音像   本 堂

   映画人の墓碑


たもんじ交流農園

醍醐山円徳寺

古代東海道案内板

鐘ヶ淵紡績発祥碑由来記

鐘ヶ淵紡績発祥の地案内版

 隅田水門周辺

隅田西児童遊園

墨田二丁目児童遊園



   


   


真言宗 智山派(ちさんは) 隅田山 
吉祥院(きっしょういん)多聞寺(たもんじ)


明治維新までは隅田川神社の別当寺
でした。多聞寺は区内の最北端にあり
関東大震災、戦災ともに遭わなかった
為、昔日の面影を残す数少ない寺院
となっています。
住 所:墨田5-31-13
 電 話:03-3616-6002




多 聞 寺
Tamonji Temple (Sumidagawa-shichifukujin)
区内の最北端にあり、関東大震災、戦
災ともに遭わなかったため、昔日の面
影を残す数少ない寺院。木造萱葺切妻
造の山門は、区内最古の建造物と考え
られています。また、隅田川七福神の
毘沙門天が祀られています。

Located at the northernmost edge of
the ward,Tamonji Temple is one of
only a few temples in Tokyo where visitors can still enjoy vestiges of along-gone era as a result of its not
having suffered significant damage
in either the Great Kanto Earthquake
or World War 11.The temple’s
Sammon Gate, built of wood and featuring a rare thatched gable roof,
is considered to be the oldest
structure in Sumida Ward. The
temple also enshrines Bishamonten
(the god of war and warriors), one of
the seven gods Of fortune associated
with the Sumida-gawa River

  




はるこま七福神めぐり
2025年1月3日(金)少雨・雷決行


はるこま七福神めぐり
2025年1月3日(金)少雨・雷決行

第一部  隅田川七福神めぐり(10:00~12:00予定、以下同様)
多聞寺(10:00)➡白鬚神社(10:30)➡向島百花園(10:45)➡百花珈琲(11:00)じまん草餅 (11:05)➡言問団子➡(11:20)➡長命寺桜餅(11:30)➡長命寺(11:45)➡弘福寺(12:00) 
第二部   三囲神社 (12;45)~まちまわり (13:00~14:30予定)
向島二丁目を中心として  
第三部 祝 福芸能 (14:30~15:15予定)会場・弘福寺境内
初春のお祝い芸 (万歳唄、紙芝居、玉すだれ、など)と福引
開運の「干支福飾り」の頒布を行います。
















不殺生(ふせっしょう)修行(しゅぎょう)
日本国憲法(にほんこくけんぽう) 第二章(しょう) 戦争(せんそう)放棄(ほうき)
戦争(せんそう)放棄(ほうき)戦力(せんりょく)不保持(ふほじ)交戦権(こうせんけん)否認(ひにん)
第九条(だいきゅうじょう) 日本国民(にほんこくみん)は、正義(せいぎ)秩序(ちつじょ)基調(きちょう)とする国際平和(こくさいへいわ)誠実(せいじつ)希求(ききゅう)し、
国権(こっけん)発動(はつどう)たる戦争(せんそう)と、武力(ぶりょく)による威嚇(いかく)(また)武力(ぶりょく)行使(こうし)国際紛争(こくさいふんそう)解決(かいけつ)する手段(しゅだん)としては、永久(えいきゅう)にこれを放棄(ほうき)する。
2、前項(ぜんこう)目的(もくてき)(たっ)するため、陸海空軍(りくかいくうぐん)その()戦力(せんりょく)は、これを保持(ほじ)しない。(くに)のの交戦権(こうせんけん)は、これを(みと)めない。




巡回スーパーの車





















多 聞 寺 山 門













多 聞 寺 山 門
  所在地  墨田区墨田5-31-13
所有者  多 聞 寺
多聞寺山門(たもんじさんもん)は、木造
切妻造の四脚門で、現在では珍しい
茅葺屋根を持ちます。幅が太く深い
文様を彫り出す点に特徴のある簡素
な和様の造りですが、控柱の礎石(
礎盤 )など一部に禅宗様の技法が確
認できます。寺伝によれば、多聞寺
山門は、慶安二(1649)の建立後、享
保三年(1718) 二月に焼失していま
す。再建年は不明ですが、寺の過
去帳に享和三年(1803) 二月の火災
に関する記録が見え、その中に
「表門は焼けず」とあります。ま
た、専門家による調査の結果、現
存する山門の建立年代は十八世紀
を降らない、との判断が得られて
います。これらのことから、この
山門は享保三年以降に再建され、
享和三年の火災で焼失を免れたも
のではないかと考えられています
ただし後年幾度か改修が行われて
います)。多聞寺山門は、このよ
うに、建立年代が江戸時代中期に
遡る可能性が考えられる貴重な文
化財です。平成十六年十月一日に
墨田区指定有形文化財に指定
されました。
  平成二十九年九月
     墨田区教育委員会





山号額「隅田山」(正法金対書)裏に
「明和九年三月吉日造営」、「現住
法印典慶代」、「願主 瀧澤逸平 
規和」と刻まれています。このため、
現存 する山門を明和9年(1772) の造
営物と見る説もあります
Tamonji-Sanmon
Tamonji-Sanmon (Main Gate) is a wooden four-legged gate with a
gabled thatched roof. It is thought
to have been built in around the
middle of 18th century, and is a
precious cultural asset that
Preserves traditional Japanese
architectural techniques to the
present day.



















多(た) 聞(もん)寺(じ)の山(やま)門(もん)
山門中央(ちゅうおう)の「隅田山
(すみださん)」と記(き)された山号
(さんごう)額(がく)の裏(うら)に
「明和(めいわ)年(きゅうねん)」(一七
七二年) と彫(ほ)られており、現存
(げんぞん)する墨田(すみだ)区内(くない)
最古(さいこ)の建造物(けんぞうぶつ)
として区(く)登録(とうろく)有形(ゆう
けい)文化(ぶんか)財(ざい)とされて
います。屋根(やね)を支(ささ)える
本柱(ほんばしら)の前後(ぜんご)に二
本ずつの控柱(ひかえばしら)をもつと
ころから四足門(しそくもん)または四
(し)脚門(きゃくもん)と呼(よ)ばれる形
式(けいしき)の門です。
一部(いちぶ)には朱(しゅ)と思(おも)わ
れる痕跡(こんせき)があり、建立(こん
りゅう)当初(とうしょ)は朱塗(しゅぬ)り
瓦(かわら)葺(ぶ)きであったことが察
せられます。
その後(のち)、享和(きょうわ)三年 (一
八〇三年) の火災、安政(あんせい)二年
一八五五年の大地震(だいじしん)など
の被害(ひがい)を受(う)け、後(のち)
に萱葺(かやぶき)にされたものと
思(おも)われます。その後もこの門
は、拝仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)、
関東(かんとう)大震災(だいしんさい)、
十五年戦争(せんそう)などの天災(てん
さい)と人災(じんさい)の歴史(れきし)
をくぐり抜(ぬ)け、 娑婆 (しゃば) (人
間自身が作り出した苦しみの世界)
の人々(ひとびと)の営(いとな)みを見
据 (みす) てきました。これからも、
安楽 (あんらく) を願(ねが)う人々(ひと
びと)を見守 (みまも) ってくれるで
しょう。
       隅田山 多聞寺




榎本武揚の書による 隅田川七福神の碑






榎本武揚の書による隅田川七福神の碑
この碑は元幕府の海軍奉行を勤め、
戊辰の役には五稜郭で戦った榎本武
揚の書を自然石に刻したのです。
生粋の江戸っ子の榎本武揚は、隅田
川辺りの散策をことのほか好み、当
寺を訪れたおり、筆をとったといわ
れます。碑面には隅田川七福之内
 毘沙門天 正二位子爵榎本武
揚」と記されています。

七 福 神 の 創 始
 昔から七福とは、人の本質でもっ
とも尊い宝とされていました。寿命
・裕福・人望・清廉・愛嬌・威光・
大量を神仏聖人を当てはめて室町時
代後半に七福神として瑞祥の象徴と
なりました。後の江戸時代後半より
、一年の幸福祈願に七福神を巡拝す
る慣わしが町人文化に根付き、盛ん
になったと言われています。

毘 沙 門 天 (威光)
 インドの神様で右手に矛、左手に
多宝塔をかかげる、武装分怒の守護
神四天王随一の多聞天であるが、
毘沙門天と呼ばれている 
 




ヒロシマでの原爆被害を表徴する花
・夾竹桃  長崎爆心地の木・楠



























左 側
ヒロシマでの原爆被害を表徴する花
夾竹桃
2000年3月9日
広島県原爆被害者団体協議会




右 側
長崎爆心地の木   楠
2000年3月9日
長崎原爆被害者協会






東京大空襲で被災した浅草国際劇場の
鉄骨と戦災の証言者














東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう
被災(ひさい)した浅草国際劇場(あさくさ
こくさいげきじょう)の鉄骨(てっこつ)
1945 (昭和(しょうわ)20) 年3月10日未明
(みめい)、アメリカ軍(ぐん)B29爆撃機
(ばくげきき)330機による無差別絨毯爆
撃(むさべつじゅうたんばくげき)を受(う)
け、下町一帯(したまちいったい)は ”炎
(ほのお)の夜(よる)” と化(か)した。
この東京大空襲により下町は壊滅状
態(かいめつじょうたい)に陥(おちい)り
、死者10万人(まんにん)、重傷者(じ
ゅうしょうしゃ)11万人、 100万人が家
(いえ)を失(うしな)った。(犠牲者(ぎせ
いしゃ)の氏名(しめい)、正確(せいかく)
な人数(にんずう)は現在(げんざい)も
不明(ふめい)) この元(もと)浅草国
際劇場の鉄骨 (1998年現在、大部分
(だいぶぶん)は江戸(えど)・東京博物館
(はくぶつかん)に展示中(てんじちゅう))
は、東京大空襲を語(かた)り継(つ)ぐ、
数少(かずすく)ない歴史的(れきしてき)
“証人(しょうにん)” である。
風船爆弾(ふうせんばくだん)の工場(こう
じょう)となっていた浅草国際劇場
も直撃弾(ちょくげきだん)を受(う)け、
屋根(やね)を支(ささ)えていた鉄骨は
曲(ま)がり、ちぎれ、天井(てんじょう
)の大部分(だいぶぶん)が抜(ぬ)け落(お)
ち、たくさんの人々(ひとびと)が焼死
(しょうし)した。目(め)の前(まえ)の痛
(いた)ましくひきちぎられた鉄骨に
向(む)かって目を閉(と)じてみると、
炎(ほのお)の夜(よる)の恐怖(きょうふ)が
よみがえる。戦争(せんそう)の実相
(じっそう)を伝(つた)える “証人たち
” に静(しず)かに心(こころ)を傾(かたむ)
け、不殺生(ふせっしょう)の誓(ちか)い
を新(あら)たにしましょう。
隅田山(すみださん) 多聞寺(たもんじ)






戦 災 の 証 言 者
パールハーバーから半世紀、終戦か
ら46年目の1991年8月12日、この木
は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧
、三河島4丁目3420番〜3421番)に
新しくビルを建てるための堀削に
より発見されました。東京地域では
、1942年4月18日から、1945年8月
15日に至るまでに71回の空襲が
ありました。ここに展示されて
いる木は、43回目の1945年4月13日
の23時から14日の2時22分にかけて
の空襲で焼かれた木です。当日の
投下爆弾は高性能弾81.9t焼夷弾
2037.7tで罹災地域は、西日暮里
を含め139ヶ所に及びました。
戦火で焼け爛れたこの木は、
生命の尊を訴えるとともに、今、
平和憲法のもと、び戦火にまみれ
る事のない国を作ることを、私た
ちに求めています。
1992年10月18日
      戦災の木を保存する会

Monument of Word War Ⅱ
The monument, the burnt tree was discovered in 1-2-7 Nishinippori, Arakawa-ku
( former address 4-3420, 3421 Mikawashima ) where the
construction of a new building had
started, on August 12, 1991, a half
century from the battle of pearl
Harbor, the 46th year from the
end of World War Ⅱ.
There were 71 raids from April 18,
1942 to August 15, 1945. Now the
tree that is displayed in this place
is the one that was burnt in the
air raids from 11 p.m. April 13,
1945 to 2:22 am.
April14, 1945. The bombs dropped
were high quality bombs, 81.9t
and incendiaries 2037.7t. The
damaged area spread 139 places
containing Nishinippori. This
tree that was burnt in the war
makes an appeal for precious
life. Now we should try to
build a peaceful country forever
under the peaceful constitution.

October 18, 1992
Sensai no ki wo hozonsuru kai
(The society to preserve the tree
burnt in World War Ⅱ)




タ ヌ キ 塚























狸塚のいわれ
むかし、江戸幕府が開かれる少し前、
今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の
中で草木が生い茂るとても寂しい
ところでした。大きな池があり、そこ
にはひとたび見るだけで気を失い、何
か月も寝込んでしまうという毒蛇
がひそんでいました。また「牛松」と
呼ばれるおとなが五人でかかえるほど
の松の大木がありました。この松の
根元には大きな穴があり、妖怪狸がす
みつき人々をたぶらかしていたので
す。そこで、鑁海(ばんかい)和尚と村
人たちは、人も寄りつくことができ
ないような恐ろしいこの場所に、お
堂を建てて妖怪たちを追いはらうこ
とにしました。まず、「牛松」を切
り倒し、穴をふさぎ、池をうめてし
まいました。するとどうでしょう、
大地がとどろき、空から土が降って
きたり、「おい、ここはわしのもの
じゃ。さっさと出て行け、 さもな
いと、村人を食ってしまうぞ。」
と、おどかすのでした。和尚さんは
びっくりして、一心にご本尊さまを
拝みました。やがて、ご本尊毘沙門
天のお使いが現れて妖怪狸に話し
ました。「おまえの悪行は、いつ
かおまえをほろぼすことになるぞ。
」次の朝、二匹の狸がお堂の前で死
んでいました。これを見つけた和尚
さんと村人たちは、狸がかわいそう
になりました。そして、切り倒して
しまった松や、埋めてしまった池へ
の供養のためにもと塚を築いたの
でした。この塚はいつしか『狸塚』
と呼ばれるようになりました。




六 地 蔵 座 像
 「坐姿六態地蔵」と呼ばれる都内
でも珍しいお地蔵様です。仏教に
おいては、地獄・餓鬼・畜生・
修羅・人間・天上の六道のどこに
いても救いの手をさしのべて
くれるといわれています














<墨田区登録文化財>
六 地 蔵 座 像
墨田区墨田五丁目三十一番十三号
           多聞寺内
この六地蔵像は総高約一五〇センチ
で、いずれも安山岩の四石からなっ
ており、地面から一、二段目の石は
方形の台石、三段目は蓮台、その上
に、それぞれ六十センチの丸彫り地
蔵坐像がのっている。像容は向かっ
て右から持ち物不明の坐像が二体、
両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋
を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、
合掌している坐像の順に並んでい
ます。欠損や修復の跡が見られま
すが、僧覚誉理慶(利慶)が願主
となり、七年間にわたって隅田村内
の地蔵講結衆の二世安楽を願って
造立されたことが刻銘から読み取
ることができます
隅田村地蔵講中の数年にわたる作業
行為を知り得る、貴重な資料といえ
ます六地蔵の製作年代は右から、正
徳三年(一七一三)二月吉祥日、同
四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日
、同二年八月吉祥日、享保元年(
一七一六)九月吉祥日、同三年十
月日と刻まれています。
平成四年三月
         墨 田 区 




平 和 観 音 像
 真言宗の開祖弘法大師ご入定1150
年の1984年にご遠忌を記念して、
東京大空襲の犠牲者を追悼する為に
建立されました。
人間が人間を殺す為に作り出した
武器・軍備を、人間である私たち
が廃絶し、戦争のない世界を実現
するための証のお姿だそうです。












本 堂





























































映 画 人 の 墓 碑
映画を愛し、平和と民主主義を支え、人間の尊厳を守った人々、ここに眠る」と刻まれています






平和を愛し民主主義を支えた映画人
の墓碑

 「映画を愛し、平和と民主主義を支
え、人間の尊厳を守った人々、ここに
眠る」と刻まれています。
薄田研二、今井正、山本薩夫らととも
に榎本健一(エノケン)の名前もあり
ます。
 戦前否応もなく映画・演劇界にも戦
争の影響が色濃く反映し、戦意高揚に
積極的に協力させられ戦争物一色に
なっていった中に、「榎本健一一座」
(座長榎本健一)の上演演目は「助
六」、「勧進帳」などの歌舞伎狂言
に加えて「鼠小僧」、「森の石松」
など、戦時色とは無縁で戦争とは一
定の距離をおいたものだったそうです
題字は新藤兼人


故坂斎小一郎(共同映画株式会社創立
者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提
供し、日本映画の民主的発展のために
つくされた映画の仲間の生涯を顕彰
し、追悼する共同の墓碑建立に役立て
てほしいとの申し出があり、映画を愛
する人々と団体によって、この墓碑が
建立されまし
た。

事務局:東京都渋谷区渋谷2-5-12
   青山アジアマンション505号
電 話: 03(6427)4425

会の年中行事
4月29日 全合葬者・合同追悼会
11月23日 墨東めぐり・墓参会
1月3日(自由参加
   隅田川七福神めぐり




  


たもんじ交流農園()
農地のない墨田区で、寺島なすの復活で
寺島なすを栽培したいという想いをもっ
て農地を探していたところ、多聞寺ご住
職の御好意により、無償で駐車場跡地20
0坪を提供していただき始められた都市
型農園。寺島なすの栽培や子どもたちの
農作業体験、個人やグループが様々な野
菜をつくっています。耕作地の他、芝生
広場、ビオトープ、ウッドデッキ、花壇、ピザ焼き窯、雨水活用設備などもありま
す。たもんじ交流農園”を「蛍が生息する、鑑賞できる」墨田区北部の名所にすると
いう壮大な夢に挑戦されるとの事(小規
模ながらもすでに実現されたようです。)
住 所:東京都墨田区墨田5-30
時 間 / ~6:00 
 




































  


武蔵・下総を結んだ古代東海道
東武スカイツリーライン線鐘ヶ淵
駅の付近には、武蔵国と下総国を
結ぶ古代東海道と呼ばれる古代の
官道がありました。
所在地:墨田区墨田二丁目~四丁目












 

武蔵・下総を結んだ古代東海道
所在地 墨田区墨田二丁目~四丁目
東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と
下総国を結ぶ古代の官道がありまし
た。古代東海道と呼ばれるこの街道
は、現在の墨田区北部を東西に貫き
京の都から常総方面に至る幹線道路
として多くの人々に利用されたと考
えられます。官道に定められた年代
は、九~十世紀と想定されます。
『大日本地名辞書』に「隅田村より
立石、奥戸を経、中小岩に至り、下
総府へ達する一径あり、今も直条糸
の如く、古駅路のむかし偲ばる」と
記されるように、明治十三年(1880)
の地図からは、古代の官道の特徴を
示す直線道を見出すことができます
また、この道筋には大道や立石など
古代の官道跡に見出される地名が墨
田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、
江戸川区小岩(大道下)に確認ます。
また葛飾区立石には、古代の標石に使
用されたと考えられている立石様が
残っています。これらは古代東海道
の名残を示すものといえます。鐘ヶ
淵駅から西に進むと隅田川に至りま
す。江戸時代より前の時代、隅田川
を渡るには船がおもな交通手段でし
た。承和二年(835)の太政官符で渡
船の数を二艘か四艘にしたことは、
隅田川を往来する人々の増加を物語
っています。その行程をたどるのが
『伊勢物語』東下りの場面です。
在原業平が
「名にしほは、いざ事とはむ宮こ鳥   わがおもふ人はありやなしやと」
と詠ったとされる場所は、古代東海道
をつなぐ渡であったのです。










真ん中の白いビルの前が古代
東海道で、荒川の土手に出ます。






ビルの間が古代東海道で、墨堤通り
に出ます






真ん中の道が古代東海道で下の道と
交叉しています。






墨堤通りに出ます。




   


醍 醐 山 円 徳 寺
曹洞宗駒込吉祥寺の末寺で、慶長
十八年(1613)に離北良重和尚が
創建したと伝えられている。
本尊は薬師如来である。
境内には、寛文十二年(1672)銘の
庚申供養塔がある。
所在地 / 墨田区墨田5丁目42-17




















































 

<墨田区登録文化財>
 庚 申 塔 (
寛文十二年十一月一日銘)
  所 在 墨田区墨田五丁目四十二番十七号         圓通寺内
 十干十二支で庚申は六十日に一度め
ぐってくる。この日の夕に斎戒沐浴し
て供養し、一夜を寝ずに明かす行事を
「庚申待(こうしんまち)」という。人
の身中に潜む三尸(さんし)という虫が
この夜の眠っている間に抜け出し、人
界での諸悪を点天帝に告げるため、人
は寿命を縮めるとされている。近隣の
者たちが供物(馳走)を持ち寄り、庚申
の掛物を礼拝し、日ごろの話題に談笑
したりして夜明けを待つ。また、この
夜は村人にとっては数少ない楽しみの
ひとつでもあった。この庚申塔は区内
でもかなり大きなものであり、舟型 
光背・蓮華座に阿弥陀尊像を配し、台
座にも三猿を彫出していて、優品に属
する。銘を「寛文十二壬子歳十一月一
日 奉造立庚申待供養現当二世安楽所
 敬白」とし、主尊の両側には旧隅田
村の有力者名が二十七名も彫られてお
り、多数の村人たちが結集(けっしゅう)
し、信心の証しとして造立したこと
がわかる。
          墨 田 区




  

鐘ヶ淵紡績発祥碑由来記
(カネボウ物流公園内)
住 所 / 墨田5丁目19番他
鐘淵紡績発祥の地
 明治19年(1886)に綿問屋の三越、
大丸、白木屋、荒尾、奥田の 5軒が
集り三越得右衛門を頭取として 東
京綿商店が設立されました。翌年
、隅田川河畔鐘ヶ淵の宏大な土地
に、資本金を10倍に増加させて,紡
績工場を建設し、 明治22年(1889)
に操業を開始,名称も有限責任鐘
淵紡績会社と変更しました。
































 

発 祥 碑 由 来 記
此の地は古くから沈鐘の伝説があり、
江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之
の引揚げを下命しましたが成功せず鐘
は毎夕月の出と共に燦然として光を放
ったといわれます 周辺の風光明媚を
賞でて徳川氏はここを将軍家専用の野
菜畑とし御前栽と称しました。明治20
年近代工業の先覚としてこの地に東京
錦商社が設立せられ、紡績機械二万九
千錘を英国より輸入して東洋第一の紡
績工場を建設明治二十二年社名を鐘淵
紡績株式会社と改稱しました。爾来近
代日本の進展と共に工場は拡大し、そ
の技術は全国津々浦々に結実し製品は
カネボウの名声と共に遠く欧米各国を
席巻しました。この間にあって産業立
国の一翼を担った人々少なからず、ま
た過ぐる関東大震災、東京大空襲当時
その耺に殉じて斃れた者は五十余柱に
及びました。いまこゝに時代の進展と
共に工場の移転を実施するに当って鐘
紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し
八十余年に亘ってうけたこの地域社会
の御かげを感謝すると共に老人の人と
児童の憩いの場を設けて記念庭園とし
永く先人の偉業を偲ぶよすがとなるこ
とを切願するものであります。
昭和四十四年十月二十日
   鐘ヶ淵紡績株式会社  社中




  


鐘ヶ淵紡績発祥の地案内版
住 所 / 墨田5丁目19番他























鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)発祥の地
 
所在 墨田区墨田五丁目十九他
明治十九年(一八八六)に綿問屋
の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥
田の五軒が集まり、三越得右衛門
を頭取として東京綿商店が設立さ
れました。翌年、資本金十倍に増
加させ、隅田川河畔鐘ヶ淵の広大
な土地に紡績工場を建設して、明
治二二年(一八八九)に操業を
開始、名称も有限責任鐘淵紡績会
社と変更しました。これが、現在
のカネボウ株式会社です。鐘淵紡
績は、設立当初こそ経営難に見舞
われたものの、他社を吸収合併す
る中に、日清戦争を機に大発展を
遂げ、世界有数の紡績会社とな
りました。
平成十三年三月
       墨田区教育委員会 
 




   


隅 田 水 門 周 辺
住 所 / 墨田区墨田5-23-5



国土交通省・荒川下流河川事務所
隅田水門管理棟

















































   


墨田二丁目児童遊園
色々な種類の走る東武電車を見学できま
す!何気なく通り過ぎていた公園の奥
に、こんなに素晴らしい場所があるなん
て驚きました!東向島の駅から歩いて10
分位で行けます。
    住 所 / 墨田5丁目19番他



























  


隅 田 西 児 童 遊 園
公園の奥に区営の駐車場があります。
駐車場の奥に墨田西児童遊園があります。
住 所 / 墨田区墨田3-31
公営 1年2000円












































            




つぶやきいってみよう
(お店・工場関係)



 CAFE ぷろーすと 

たい焼き浪花屋 

 カフェコロラド

つりがね最中 墨田園

フィボナッチ紳士洋品店

鋏職人が作る裁ち鋏石宏製作所
 



   


  


P r o s t (乾杯)
CAFE ぷろーすと

食材が30種類以上使われているのには
驚きでした。人々に歓びをというホテル
のシェフをしてらしたオーナーの心意気
が感じられます。そしてお値段もお手頃
で嬉しいです。Prost(プロースト)とは、
ドイツ語で乾杯という意味です!
住 所:墨田区墨田5-44-10
定休日:月・火 電話:070-8585-0429
    時間:水~土 11:30~19:30
          日 11:30~17:00














































ドイツの可愛い小物達




































ライブ&メディア編




































2024年4月1日テレビ東京H.Pにて放映










  


カフェ コロラド 鐘ヶ淵店
モーニングが嬉しいお値段(570円)です!
住 所:墨田5-43-9 
電 話:03-3610-3643
定休日:無 休
営業時間 平日 8:00~21:00
土曜 、日祝 8:00~21:00.
































  


墨  田  園
つ り が ね 最 中
創業は明治7年。鐘ヶ淵の地名の由来
とされる釣鐘の形をした最中が有名!
創業当初の味を守っておられる
そうです!
 住 所:墨田4-9-17
定 休 日:火曜日
    電 話:03-3611-3386
 営業時間:9:00~20:00









































  


浪  花  屋
創業70年のたい焼き屋
自家製餡一丁焼
おにぎり、いなり寿司、のり巻き
夏場かき氷があります
たい焼きは9時からです
   住 所 : 墨田5-45-101
定 休 日 :月曜日
    電 話: 03-3612-5445
       営業時間 :6:30~17:00





































  


石 宏 製 作 所
1970年に先代が創業、医療用の
はさみを作成「すみだモダン」2011
に認証され、2012年スカイツリー
オープニングセレモニーのテープ
カットで使用されました。
見学OKです!
  住 所:墨田5-48-10
   電 話:03-3614-3292
時 間:8時~20時
 営 業:月~土(祝祭日:不定休)










































  


フィボナッチ紳士洋品店
オーセンティックな紳士用品を誂
えることができるお店です。
住 所:墨田5-4-7
定 休 日:不定休
    電 話:03-6874-3505
         営業時間:12:00~20:00



























 

フィボナッチ紳士洋品店は、オーセン
ティックな紳士洋品を誂えることが
できるお店です。革靴をはじめ、
スーツ・シャツ・ネクタイなどを、
お客様と対話しながらトータルで
コーディネート致します。残念な
ことに、大量生産の安価なモノを
使い捨てにする時代です。当店で
は、修理しながら永く愛用したく
なるモノを提供することを通し、
お客様の生活が豊かになるお手伝
いをさせていただきます。ファッシ
ョン上級者の方、トラディショナル
な装いに興味がある方、体に合った
モノを身に付けたい方など、様々な
お客様とお会いできることを楽しみ
にしております。昭和の雰囲気が
残る下町・鐘ヶ淵で皆様のご来店
をお待ちしております。
店主 郷 間 裕

              









墨田区内循環バス時刻表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)