![]() ![]() ![]() 被害を表徴する花夾竹桃&長崎 爆心地の木 楠) ![]() ![]() 福神の碑 ![]() 場の鉄骨&戦災の証言者 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 多 聞 寺 Tamonji Temple (Sumidagawa-shichifukujin) 区内の最北端にあり、関東大震災、戦 災ともに遭わなかったため、昔日の面 影を残す数少ない寺院。木造萱葺切妻 造の山門は、区内最古の建造物と考え られています。また、隅田川七福神の 毘沙門天が祀られています。 Located at the northernmost edge of the ward,Tamonji Temple is one of only a few temples in Tokyo where visitors can still enjoy vestiges of along-gone era as a result of its not having suffered significant damage in either the Great Kanto Earthquake or World War 11.The temple’s Sammon Gate, built of wood and featuring a rare thatched gable roof, is considered to be the oldest structure in Sumida Ward. The temple also enshrines Bishamonten (the god of war and warriors), one of the seven gods Of fortune associated with the Sumida-gawa River ![]() ![]() |
第一部 隅田川七福神めぐり(10:00~12:00予定、以下同様) 多聞寺(10:00)➡白鬚神社(10:30)➡向島百花園(10:45)➡百花珈琲(11:00)じまん草餅 (11:05)➡言問団子➡(11:20)➡長命寺桜餅(11:30)➡長命寺(11:45)➡弘福寺(12:00) |
第二部 三囲神社 (12;45)~まちまわり (13:00~14:30予定) 向島二丁目を中心として |
第三部 祝 福芸能 (14:30~15:15予定)会場・弘福寺境内 初春のお祝い芸 (万歳唄、紙芝居、玉すだれ、など)と福引 開運の「干支福飾り」の頒布を行います。 |
![]() 不殺生の修行 日本国憲法 第二章 戦争の放棄 戦争の放棄戦力の不保持交戦権の否認 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国のの交戦権は、これを認めない。 |
![]() 多 聞 寺 山 門 所在地 墨田区墨田5-31-13 所有者 多 聞 寺 多聞寺山門(たもんじさんもん)は、木造 切妻造の四脚門で、現在では珍しい 茅葺屋根を持ちます。幅が太く深い 文様を彫り出す点に特徴のある簡素 な和様の造りですが、控柱の礎石( 礎盤 )など一部に禅宗様の技法が確 認できます。寺伝によれば、多聞寺 山門は、慶安二(1649)の建立後、享 保三年(1718) 二月に焼失していま す。再建年は不明ですが、寺の過 去帳に享和三年(1803) 二月の火災 に関する記録が見え、その中に 「表門は焼けず」とあります。ま た、専門家による調査の結果、現 存する山門の建立年代は十八世紀 を降らない、との判断が得られて います。これらのことから、この 山門は享保三年以降に再建され、 享和三年の火災で焼失を免れたも のではないかと考えられています ただし後年幾度か改修が行われて います)。多聞寺山門は、このよ うに、建立年代が江戸時代中期に 遡る可能性が考えられる貴重な文 化財です。平成十六年十月一日に 墨田区指定有形文化財に指定 されました。 平成二十九年九月 墨田区教育委員会 ![]() 山号額「隅田山」(正法金対書)裏に 「明和九年三月吉日造営」、「現住 法印典慶代」、「願主 瀧澤逸平 規和」と刻まれています。このため、 現存 する山門を明和9年(1772) の造 営物と見る説もあります Tamonji-Sanmon Tamonji-Sanmon (Main Gate) is a wooden four-legged gate with a gabled thatched roof. It is thought to have been built in around the middle of 18th century, and is a precious cultural asset that Preserves traditional Japanese architectural techniques to the present day. |
![]() ![]() 多(た) 聞(もん)寺(じ)の山(やま)門(もん) 山門中央(ちゅうおう)の「隅田山 (すみださん)」と記(き)された山号 (さんごう)額(がく)の裏(うら)に 「明和(めいわ)年(きゅうねん)」(一七 七二年) と彫(ほ)られており、現存 (げんぞん)する墨田(すみだ)区内(くない) 最古(さいこ)の建造物(けんぞうぶつ) として区(く)登録(とうろく)有形(ゆう けい)文化(ぶんか)財(ざい)とされて います。屋根(やね)を支(ささ)える 本柱(ほんばしら)の前後(ぜんご)に二 本ずつの控柱(ひかえばしら)をもつと ころから四足門(しそくもん)または四 (し)脚門(きゃくもん)と呼(よ)ばれる形 式(けいしき)の門です。 一部(いちぶ)には朱(しゅ)と思(おも)わ れる痕跡(こんせき)があり、建立(こん りゅう)当初(とうしょ)は朱塗(しゅぬ)り 瓦(かわら)葺(ぶ)きであったことが察 せられます。 その後(のち)、享和(きょうわ)三年 (一 八〇三年) の火災、安政(あんせい)二年 一八五五年の大地震(だいじしん)など の被害(ひがい)を受(う)け、後(のち) に萱葺(かやぶき)にされたものと 思(おも)われます。その後もこの門 は、拝仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)、 関東(かんとう)大震災(だいしんさい)、 十五年戦争(せんそう)などの天災(てん さい)と人災(じんさい)の歴史(れきし) をくぐり抜(ぬ)け、 娑婆 (しゃば) (人 間自身が作り出した苦しみの世界) の人々(ひとびと)の営(いとな)みを見 据 (みす) てきました。これからも、 安楽 (あんらく) を願(ねが)う人々(ひと びと)を見守 (みまも) ってくれるで しょう。 隅田山 多聞寺 |
![]() ![]() 榎本武揚の書による隅田川七福神の碑 この碑は元幕府の海軍奉行を勤め、 戊辰の役には五稜郭で戦った榎本武 揚の書を自然石に刻したのです。 生粋の江戸っ子の榎本武揚は、隅田 川辺りの散策をことのほか好み、当 寺を訪れたおり、筆をとったといわ れます。碑面には隅田川七福之内 毘沙門天 正二位子爵榎本武 揚」と記されています。 七 福 神 の 創 始 昔から七福とは、人の本質でもっ とも尊い宝とされていました。寿命 ・裕福・人望・清廉・愛嬌・威光・ 大量を神仏聖人を当てはめて室町時 代後半に七福神として瑞祥の象徴と なりました。後の江戸時代後半より 、一年の幸福祈願に七福神を巡拝す る慣わしが町人文化に根付き、盛ん になったと言われています。 毘 沙 門 天 (威光) インドの神様で右手に矛、左手に 多宝塔をかかげる、武装分怒の守護 神四天王随一の多聞天であるが、 毘沙門天と呼ばれている |
左 側 ヒロシマでの原爆被害を表徴する花 夾竹桃 2000年3月9日 広島県原爆被害者団体協議会 ![]() 右 側 長崎爆心地の木 楠 2000年3月9日 長崎原爆被害者協会 ![]() |
![]() 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう 被災(ひさい)した浅草国際劇場(あさくさ こくさいげきじょう)の鉄骨(てっこつ) 1945 (昭和(しょうわ)20) 年3月10日未明 (みめい)、アメリカ軍(ぐん)B29爆撃機 (ばくげきき)330機による無差別絨毯爆 撃(むさべつじゅうたんばくげき)を受(う) け、下町一帯(したまちいったい)は ”炎 (ほのお)の夜(よる)” と化(か)した。 この東京大空襲により下町は壊滅状 態(かいめつじょうたい)に陥(おちい)り 、死者10万人(まんにん)、重傷者(じ ゅうしょうしゃ)11万人、 100万人が家 (いえ)を失(うしな)った。(犠牲者(ぎせ いしゃ)の氏名(しめい)、正確(せいかく) な人数(にんずう)は現在(げんざい)も 不明(ふめい)) この元(もと)浅草国 際劇場の鉄骨 (1998年現在、大部分 (だいぶぶん)は江戸(えど)・東京博物館 (はくぶつかん)に展示中(てんじちゅう)) は、東京大空襲を語(かた)り継(つ)ぐ、 数少(かずすく)ない歴史的(れきしてき) “証人(しょうにん)” である。 風船爆弾(ふうせんばくだん)の工場(こう じょう)となっていた浅草国際劇場 も直撃弾(ちょくげきだん)を受(う)け、 屋根(やね)を支(ささ)えていた鉄骨は 曲(ま)がり、ちぎれ、天井(てんじょう )の大部分(だいぶぶん)が抜(ぬ)け落(お) ち、たくさんの人々(ひとびと)が焼死 (しょうし)した。目(め)の前(まえ)の痛 (いた)ましくひきちぎられた鉄骨に 向(む)かって目を閉(と)じてみると、 炎(ほのお)の夜(よる)の恐怖(きょうふ)が よみがえる。戦争(せんそう)の実相 (じっそう)を伝(つた)える “証人たち ” に静(しず)かに心(こころ)を傾(かたむ) け、不殺生(ふせっしょう)の誓(ちか)い を新(あら)たにしましょう。 隅田山(すみださん) 多聞寺(たもんじ) ![]() 戦 災 の 証 言 者 パールハーバーから半世紀、終戦か ら46年目の1991年8月12日、この木 は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧 、三河島4丁目3420番〜3421番)に 新しくビルを建てるための堀削に より発見されました。東京地域では 、1942年4月18日から、1945年8月 15日に至るまでに71回の空襲が ありました。ここに展示されて いる木は、43回目の1945年4月13日 の23時から14日の2時22分にかけて の空襲で焼かれた木です。当日の 投下爆弾は高性能弾81.9t焼夷弾 2037.7tで罹災地域は、西日暮里 を含め139ヶ所に及びました。 戦火で焼け爛れたこの木は、 生命の尊を訴えるとともに、今、 平和憲法のもと、び戦火にまみれ る事のない国を作ることを、私た ちに求めています。 1992年10月18日 戦災の木を保存する会 Monument of Word War Ⅱ The monument, the burnt tree was discovered in 1-2-7 Nishinippori, Arakawa-ku ( former address 4-3420, 3421 Mikawashima ) where the construction of a new building had started, on August 12, 1991, a half century from the battle of pearl Harbor, the 46th year from the end of World War Ⅱ. There were 71 raids from April 18, 1942 to August 15, 1945. Now the tree that is displayed in this place is the one that was burnt in the air raids from 11 p.m. April 13, 1945 to 2:22 am. April14, 1945. The bombs dropped were high quality bombs, 81.9t and incendiaries 2037.7t. The damaged area spread 139 places containing Nishinippori. This tree that was burnt in the war makes an appeal for precious life. Now we should try to build a peaceful country forever under the peaceful constitution. October 18, 1992 Sensai no ki wo hozonsuru kai (The society to preserve the tree burnt in World War Ⅱ) |
![]() 狸塚のいわれ むかし、江戸幕府が開かれる少し前、 今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の 中で草木が生い茂るとても寂しい ところでした。大きな池があり、そこ にはひとたび見るだけで気を失い、何 か月も寝込んでしまうという毒蛇 がひそんでいました。また「牛松」と 呼ばれるおとなが五人でかかえるほど の松の大木がありました。この松の 根元には大きな穴があり、妖怪狸がす みつき人々をたぶらかしていたので す。そこで、鑁海(ばんかい)和尚と村 人たちは、人も寄りつくことができ ないような恐ろしいこの場所に、お 堂を建てて妖怪たちを追いはらうこ とにしました。まず、「牛松」を切 り倒し、穴をふさぎ、池をうめてし まいました。するとどうでしょう、 大地がとどろき、空から土が降って きたり、「おい、ここはわしのもの じゃ。さっさと出て行け、 さもな いと、村人を食ってしまうぞ。」 と、おどかすのでした。和尚さんは びっくりして、一心にご本尊さまを 拝みました。やがて、ご本尊毘沙門 天のお使いが現れて妖怪狸に話し ました。「おまえの悪行は、いつ かおまえをほろぼすことになるぞ。 」次の朝、二匹の狸がお堂の前で死 んでいました。これを見つけた和尚 さんと村人たちは、狸がかわいそう になりました。そして、切り倒して しまった松や、埋めてしまった池へ の供養のためにもと塚を築いたの でした。この塚はいつしか『狸塚』 と呼ばれるようになりました。 |
![]() <墨田区登録文化財> 六 地 蔵 座 像 墨田区墨田五丁目三十一番十三号 多聞寺内 この六地蔵像は総高約一五〇センチ で、いずれも安山岩の四石からなっ ており、地面から一、二段目の石は 方形の台石、三段目は蓮台、その上 に、それぞれ六十センチの丸彫り地 蔵坐像がのっている。像容は向かっ て右から持ち物不明の坐像が二体、 両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋 を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、 合掌している坐像の順に並んでい ます。欠損や修復の跡が見られま すが、僧覚誉理慶(利慶)が願主 となり、七年間にわたって隅田村内 の地蔵講結衆の二世安楽を願って 造立されたことが刻銘から読み取 ることができます 隅田村地蔵講中の数年にわたる作業 行為を知り得る、貴重な資料といえ ます六地蔵の製作年代は右から、正 徳三年(一七一三)二月吉祥日、同 四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日 、同二年八月吉祥日、享保元年( 一七一六)九月吉祥日、同三年十 月日と刻まれています。 平成四年三月 墨 田 区 |
![]() ![]() 平和を愛し民主主義を支えた映画人 の墓碑 「映画を愛し、平和と民主主義を支 え、人間の尊厳を守った人々、ここに 眠る」と刻まれています。 薄田研二、今井正、山本薩夫らととも に榎本健一(エノケン)の名前もあり ます。 戦前否応もなく映画・演劇界にも戦 争の影響が色濃く反映し、戦意高揚に 積極的に協力させられ戦争物一色に なっていった中に、「榎本健一一座」 (座長榎本健一)の上演演目は「助 六」、「勧進帳」などの歌舞伎狂言 に加えて「鼠小僧」、「森の石松」 など、戦時色とは無縁で戦争とは一 定の距離をおいたものだったそうです 題字は新藤兼人 故坂斎小一郎(共同映画株式会社創立 者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提 供し、日本映画の民主的発展のために つくされた映画の仲間の生涯を顕彰 し、追悼する共同の墓碑建立に役立て てほしいとの申し出があり、映画を愛 する人々と団体によって、この墓碑が 建立されました。 事務局:東京都渋谷区渋谷2-5-12 青山アジアマンション505号 電 話: 03(6427)4425 会の年中行事 4月29日 全合葬者・合同追悼会 11月23日 墨東めぐり・墓参会 1月3日(自由参加) 隅田川七福神めぐり |
![]() 武蔵・下総を結んだ古代東海道 所在地 墨田区墨田二丁目~四丁目 東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と 下総国を結ぶ古代の官道がありまし た。古代東海道と呼ばれるこの街道 は、現在の墨田区北部を東西に貫き 京の都から常総方面に至る幹線道路 として多くの人々に利用されたと考 えられます。官道に定められた年代 は、九~十世紀と想定されます。 『大日本地名辞書』に「隅田村より 立石、奥戸を経、中小岩に至り、下 総府へ達する一径あり、今も直条糸 の如く、古駅路のむかし偲ばる」と 記されるように、明治十三年(1880) の地図からは、古代の官道の特徴を 示す直線道を見出すことができます また、この道筋には大道や立石など 古代の官道跡に見出される地名が墨 田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、 江戸川区小岩(大道下)に確認ます。 また葛飾区立石には、古代の標石に使 用されたと考えられている立石様が 残っています。これらは古代東海道 の名残を示すものといえます。鐘ヶ 淵駅から西に進むと隅田川に至りま す。江戸時代より前の時代、隅田川 を渡るには船がおもな交通手段でし た。承和二年(835)の太政官符で渡 船の数を二艘か四艘にしたことは、 隅田川を往来する人々の増加を物語 っています。その行程をたどるのが 『伊勢物語』東下りの場面です。 在原業平が 「名にしほは、いざ事とはむ宮こ鳥 わがおもふ人はありやなしやと」 と詠ったとされる場所は、古代東海道 をつなぐ渡であったのです。 |
![]() <墨田区登録文化財> 庚 申 塔 (寛文十二年十一月一日銘) 所 在 墨田区墨田五丁目四十二番十七号 圓通寺内 十干十二支で庚申は六十日に一度め ぐってくる。この日の夕に斎戒沐浴し て供養し、一夜を寝ずに明かす行事を 「庚申待(こうしんまち)」という。人 の身中に潜む三尸(さんし)という虫が この夜の眠っている間に抜け出し、人 界での諸悪を点天帝に告げるため、人 は寿命を縮めるとされている。近隣の 者たちが供物(馳走)を持ち寄り、庚申 の掛物を礼拝し、日ごろの話題に談笑 したりして夜明けを待つ。また、この 夜は村人にとっては数少ない楽しみの ひとつでもあった。この庚申塔は区内 でもかなり大きなものであり、舟型 光背・蓮華座に阿弥陀尊像を配し、台 座にも三猿を彫出していて、優品に属 する。銘を「寛文十二壬子歳十一月一 日 奉造立庚申待供養現当二世安楽所 敬白」とし、主尊の両側には旧隅田 村の有力者名が二十七名も彫られてお り、多数の村人たちが結集(けっしゅう) し、信心の証しとして造立したこと がわかる。 墨 田 区 |
![]() 発 祥 碑 由 来 記 此の地は古くから沈鐘の伝説があり、 江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之 の引揚げを下命しましたが成功せず鐘 は毎夕月の出と共に燦然として光を放 ったといわれます 周辺の風光明媚を 賞でて徳川氏はここを将軍家専用の野 菜畑とし御前栽と称しました。明治20 年近代工業の先覚としてこの地に東京 錦商社が設立せられ、紡績機械二万九 千錘を英国より輸入して東洋第一の紡 績工場を建設明治二十二年社名を鐘淵 紡績株式会社と改稱しました。爾来近 代日本の進展と共に工場は拡大し、そ の技術は全国津々浦々に結実し製品は カネボウの名声と共に遠く欧米各国を 席巻しました。この間にあって産業立 国の一翼を担った人々少なからず、ま た過ぐる関東大震災、東京大空襲当時 その耺に殉じて斃れた者は五十余柱に 及びました。いまこゝに時代の進展と 共に工場の移転を実施するに当って鐘 紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し 八十余年に亘ってうけたこの地域社会 の御かげを感謝すると共に老人の人と 児童の憩いの場を設けて記念庭園とし 永く先人の偉業を偲ぶよすがとなるこ とを切願するものであります。 昭和四十四年十月二十日 鐘ヶ淵紡績株式会社 社中 |
![]() 鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)発祥の地 所在 墨田区墨田五丁目十九他 明治十九年(一八八六)に綿問屋 の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥 田の五軒が集まり、三越得右衛門 を頭取として東京綿商店が設立さ れました。翌年、資本金十倍に増 加させ、隅田川河畔鐘ヶ淵の広大 な土地に紡績工場を建設して、明 治二二年(一八八九)に操業を 開始、名称も有限責任鐘淵紡績会 社と変更しました。これが、現在 のカネボウ株式会社です。鐘淵紡 績は、設立当初こそ経営難に見舞 われたものの、他社を吸収合併す る中に、日清戦争を機に大発展を 遂げ、世界有数の紡績会社とな りました。 平成十三年三月 墨田区教育委員会 |
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![]() フィボナッチ紳士洋品店は、オーセン ティックな紳士洋品を誂えることが できるお店です。革靴をはじめ、 スーツ・シャツ・ネクタイなどを、 お客様と対話しながらトータルで コーディネート致します。残念な ことに、大量生産の安価なモノを 使い捨てにする時代です。当店で は、修理しながら永く愛用したく なるモノを提供することを通し、 お客様の生活が豊かになるお手伝 いをさせていただきます。ファッシ ョン上級者の方、トラディショナル な装いに興味がある方、体に合った モノを身に付けたい方など、様々な お客様とお会いできることを楽しみ にしております。昭和の雰囲気が 残る下町・鐘ヶ淵で皆様のご来店 をお待ちしております。 店主 郷 間 裕 |