![]() 墨田フィールド(墨田区総合運動場) |

| 綾 瀬 川 について (絵本江戸土産 江戸名所図会 名所江 戸百景に書かれています。鶴の池もあ ったのですね!) 綾瀬川は総延長47.6kmの一級河川で、 埼玉県桶川市に端を発し、伊奈町、 さいたま市、越谷市、草加市を経て東京 都葛飾区で中川に合流した後、海に注い でいます。この川の周辺は、昭和の中頃 から都市化が進み15年連続水質汚濁最下 位というレッテルがはられました。綾瀬 川は昭和5年の荒川放水路完成にともな い、墨田区と葛飾区に分断され、葛飾区 側は放水路に沿って中川と合流し、墨田 区側は隅田川にそそいでいた450mの部 分を残すのみとなり、旧綾瀬川と呼ばれ るようになりました。 |









































![]() ![]() 歌川広重『江戸名所百景』のうち 「綾瀬川鐘ヶ淵」 (国立国会図書館所蔵 デジタルコレクション) 鐘ヶ淵」の由来 所在地 墨田区堤通二丁目11番1号 鐘ヶ淵は、隅田川と綾瀬川の合流地点 で、堤通二丁目の地先にあたります。 江戸時代後期の『墨水遊覧誌』には鷺の 名所であったと記されています。かつて 隅田川が直角に曲がり、それが大工道具 の指矩に似ていることから「かねが淵」 と呼ばれるようになったといわれていま す。鐘ヶ淵には、鐘にまつわる伝説がい くつもあります。たとえば、普門院が亀 戸(江東区)に移転する際、梵鐘が隅田川 におちたまま引き揚げられずに沈んでい るという話や、石浜の保元寺(台東区)の 鐘が壊れて隅田川に転がり落ちたという 話、あるいは8代将軍徳川吉宗が川底に 沈んだ長昌寺(台東区)の鐘を引き揚げさ せようとしたができなかったなどという 話が伝えられています。明治時代には、 周辺の開発が進み、紡績工場が建てられ て、社名を鐘ヶ淵紡績株式会社としまし た。この会社こそ、後に世界有数の紡績 会社に成長した「鐘紡」で、このエリア にはその東京工場があり、周辺には工場 に勤める多くの職員が暮らしました。工 場は昭和44年(1969)に操業を停止し、そ れから次第に景観を変えていきました。 令和3年3月 墨田区教育委員会 |














































































![]() ![]() 纏(まとい)。それは、江戸時代にお いて、火事といえば即、纏といわれ、 纏のもとに総力を結集して、消火活動 を行い纏が火を消したとまで、いわれ ていました。この公園は、大震火災時 には、都民の安全を守る避難場所とも なっています。その安全をあらわすシ ンボルとして、ここに纏のモニュメン トを建造しました。 (現在社団法人・江戸消防記念会のもとに、11区89組があり、この纏は第6区7番組のものをもとにしています。) 昭和61年3月 東京都 |














![]() ![]() この公園は、江東再開発基本構想に基 づき災害時における避難広場の確保と 生活環境の整備を目的としてつくられ たものです。樹木には、火災による火 の粉や熱風から人を守る働きがありま す。このため公園の樹木も防災力の大 きい、常緑広葉樹を中心に枝葉の密な シイノキ、シラカシ、タブノキ、マテ バシイ、ツバキ類などを用いました。 この公園は避難した人々を火から守り 、火災の延焼を防ぐようつくられたも のです。また、ふだんは緑とレクレー ションの広場として広く利用されて います。 |

