スカイ姫のつぶやき街角南部ルート3都営両国駅(江戸東京博物館前)~
 刀剣博物館(旧安田庭園)同愛記念病院



  



江戸東京博物館 

置いてけ堀案内板

本所御蔵跡 (横網1丁目遺跡)

徳川家康公銅像

横 網 町 公 園

言問橋の欄干と縁石  




葛飾北斎御厩川岸より両国橋夕陽見

葛飾北斎首尾松の鉤舟椎の木の夕蝉
 
葛飾北斎 駒止石━馬尽━

村松志保子の産婆学校跡

 
本所七不思議、椎の木屋敷跡

旧安田庭園  刀剣博物館

小林清親の旧居地
 
 
NTTドコモ歴史展示スクエア

 
大東流合気柔術本部道場

Marked マークト

両国テラスカフェ

R Cafe192 dog cafe



      





  


江 戸 東 京 博 物 館

公益財団法人東京都歴史文化財団 が
運営する東京都立の博物館。
定 休 日 / 月曜
開館時間 / 9:00~17:30
                土曜日~19:30
     電 話 / 03-3626-9974
住 所 / 東京都墨田区横網1-4-1




江戸東京博物館
Edo-Tokyo Museum
失われつつある江戸・東京の歴史遺産
を守るとともに、東京の歴史と文化を
振り返ることによって、未来の東京を
考えるために設立された博物館。江戸
から昭和にかけての町並みが再現され
ており、日本橋も復元されています。

This museum was built to preserve
nd exhibit the historical heritage
of the city of Tokyo. An
understanding of Tokyo’s origins
and history as Edoserves as a basis
for considering the future of the metropolis. Displays re-create various aspects of city life, from Edo’s founding in 1603 through the 20th century.
A huge reconstructionof the bridge,
Nihombashi, is included in the exhibits.












































 

 


徳 川 家 康 公 銅 像
鷹匠の勇姿で江戸城を望んでいる
家康公像
 所在地 / 東京都墨田区横網1-4-1


















徳川家康公銅像建立由来
鷹狩の勇姿で江戸城を望んでいる徳
川家康公が始めて、草深い江戸の地
に天正十八年(1590年)に、豊臣秀
吉の命により国替えとなった。そし
て、関ヶ原の戦い後慶長八年(1603
年)征夷大将軍となり江戸に幕府を
開き天下普請を大名に命じ、本格的
な都市づくりの大事業を行い、政治
の中心地として明治に至るまでの永
き亘って現在の東京の基礎となった
ことは周知の事実である。社団法人
江戸消防記念会では、このような、
江戸開府の大事業を成し遂げた徳川
家康公の偉業を称え、顕彰すべく銅
像建立の計画を練っていたところ、
平成五年三月、江戸東京博物館が両
国の地に落成の運びとなるや、徳川
家康公銅像建立気運が一気に盛り上
がり記念会創立以来の名誉ある事業
であることから、これを積極的に推
進し、東京都をはじめ関係諸機関に
格別のご協力をいただきまして、江
戸消防記念会が主体となって平成六
年四月銅像を建立、東京都に寄贈し
たものである




寄 贈
この徳川家康公の銅像は江戸町火消
の伝統を現在に受け継ぐ江戸文化保
存伝承団体である当会が、都民文化
貢献の一環として、支援団体及び全
会員の協力により建立し東京都に寄
贈したものである。
平成六年四月吉日
社団法人 江戸消防記念会 
 




 


 言問橋の欄干と縁石
東京大空襲の時に言問橋の辺りで沢山
の人達が、逃げまどって亡くなられた
そうです。
 所在地 / 東京都墨田区横網1丁目


















言問橋の欄干と縁石
Parapet and curb stone of the
Kototoi Bridge

言問橋は、1928年 ( 昭和3 ) に完成
した、いわゆる震災復興橋梁のひと
つである。1945年 ( 昭和20 ) 3月10
日未明の東京大空襲の際、浅草方面
から向島方面へ避難しようとする人
びとと、その反対側に渡ろうとする
人びとが橋上で交叉し、身動きがと
れない状態となった。人だけでなく
、荷車やリヤカーも通行を妨げた。
そこへ火が燃え移り、橋上はたちま
ち大火災に包まれた。橋上では逃げ
るすべもなく、多くの市民が焼死し
た。1992年 ( 平成4 ) の言問橋の改
修工事にあたって、当時の欄干と縁
石が撤去されることとなったため、
東京大空襲の被災資料として、その
一部を当館に譲っていただいた。




  


  置 い て け 堀 立 札
本所を舞台とした本所七 不思議と呼ば
れる奇談・怪談の一つ
住 所 / 東京都墨田区横網1-5-2













 





両 国 物 語
Oiteke-bori & Site of Otake-gura

置いてけ堀・御竹蔵跡
この辺りには、幕府の資材置き場だ
った御竹蔵があり、その周りには掘
割がありました。ある日、町人がこ
のあたりの堀で釣りをしたところ、
たくさん魚が獲れたので、気を良く
して帰ろうとすると堀の中から「置
いてけ!」という怪しい声がしまし
た。逃げるように家に帰って、恐る
恐る魚籠をのぞくと、釣れた魚が一
匹も入っていませんでした。これが
、本所七不思議の一つ、「置いてけ
堀」の話です。話の内容や場所には
諸説があり、置いてけ堀は「錦糸堀
」との説もあります。作られたのは
寛政年間(一七八九~一八〇一)
といわれ、七つ以上の話が伝えられ
ています




 


本 所 御 蔵 跡 (横網1丁目遺跡)
JR両国駅から横網町公園にかけての範
囲には、かつて幕府の管轄する4万4
千坪の広さの本所御蔵という米倉があ
りました。両国中学校グランドフェン
ス脇に説明板が立っています
所在地/東京都墨田区横網1丁目~2丁目


















本 御 蔵 跡
 
墨田区横網一丁目4番・6番・8番
9番、10番、横網二丁目3番
本所御蔵は、米価の高騰(こうとう)
が原因で発生した江戸初の打ち毀し
(享保の打ち毀し)の直後に建設され
た江戸幕府の米蔵です。享保(きょ
うほ)19年(1734)竣工の12棟88
戸前の倉庫群から規模を拡大し、
安政(あんせい)5年(1858)までに37
棟246戸前を数えたとされています
。敷地面積は4万4千坪(約14万
5千㎡)で、その範囲は現在のJR両
国駅から都立横網町公園にかかる
一帯に及びます。本所御蔵跡につ
いては、平成13年(2001)に部分的
な発掘調査が実施され、掘割(ほり
わり)や護岸(ごがん)の跡、徳川家の
三葉葵紋(みつばあおいもん)をあし
らった瓦(かわら)などが出土しまし
た。また、御蔵が廃止された明治5
年(1872)以降に設置された陸軍被服
廠(りくぐんひふくしょう)に関する
遺物(木製の荷札(にふだ)など)も見
つかりました。こうしたことから、
所御蔵跡の大部分は、周知(しゅう
ち)の埋蔵(まいぞう)文化(ぶんか)
財(ざい)包蔵地(ほうぞうち)に指定
されています。
令和3年3月
     墨田区教育委員会









   


横 網 町 公 園
関東大震災(大正12年、1923年)や、東京
空襲(昭和19年~20年、1944~45年)によ
る悲劇を、記憶・伝承し、その犠牲にな
った多くの人々を慰霊する公園です

住 所 / 東京都墨田区横網2-3-25

電 話 / 03-3622-1208  










































































































































横 網 町 公 園
Yokoamicho Park
関東大震災(大正12年、1923年)や、
東京空襲(昭和19年~20年、1944~45
年)による悲劇を、記憶・伝承し、そ
の犠牲になった多くの人々を慰霊す
る公園です。
This park is dedicated to the
remembrance of the many victims
of the Great Kanto Earthquake
(1923) and the Tokyo Air Raid
(1944~1945)、to commemorate
and preserve the memory of
these tragedies.

東京都慰霊堂 
Tokyo Metropolitan Memorial Hall
関東大震災、および東京空襲の遭
難者、16万人余の御霊を慰霊する施
設です。昭和5年 (1930年) に建てら
れました。堂内には絵画等の展示も
あります。どなたでも入堂できます。
入堂無料、
9時~16時30分、何末年始は閉堂
Built in 1930, this hall is a memorial
for more than 160,000 lives lost
during the Great Kanto Earthquake
and the Tokyo Air Raid Paintings
and other archives are on display
in the hall, and it is open to the
public. Free admission, open 9:00
am to 4;30 pm.
Closed for the New year’sholiday

復 興 記 念 館
Great Kanto Earthquake Memorial Museum
関東大震災からの復興事業を記念す
るために昭和6年 (1931年) に建てら
れました。関東大震災、東京空襲の
被害や復興に関する資料を展示して
います。
入館無料、9時~16時30分
(入館) 、毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
および何末年始は休館
This museum was built in 1931
 to commemorate the reconstruction
projectfollowing the Great Kanto Earthquake, Documents and
other materials related to the
damage caused by the earthquake
and the Tokyo Air Raid, as to the
ensuing reconstruction are on display.
Free admission, open 9:00am to the 4:30pm (entry).
Closed on Mondays (if a national
holiday closed the following day)
and for the New Year’s holiday.






幽 冥 鐘 の 由 来
この梵鐘は、関東大震災により遭難し
た死者を追悼するため、中国仏教徒か
ら寄贈されたものです。震災の悲惨な
凶報が伝わった中国では、杭州西湖の
招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、
それぞれ念仏法要が営まれ、中国在
留の同胞に対しても参拝を促しまし
た。また、各方面の回向が終わった
後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之
れを日本の災区に送って長年に亘っ
て撃撞し、此の鐘声の功徳に依って
永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣
言しました。その後、中国国内で鋳
造し、杭州から上海、横浜経由で大
正14 (1925) 年11月1日、記念堂建設
地(横網町公園)に運ばれました。
この鐘を安置する鐘楼は、昭和5
(1930) 年8月31日に現在地に完成し
、同年10月1日 「梵鐘始撞式」 を
行いました。なお、これら一連の事
業の遂行にあたっては、上海の王
一亭氏の特段のご尽力がありました。
          東 京 都






震災遭難児童弔魂像
大正12 (1923) 年9月1日の関東大
震災により東京市(当時)の小学校児
童約5千人が亡くなりました。この
死を悼み、冥福を祈るため、全市学
校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付
を募りました。その寄付金により、
彫刻家小倉右一郎氏に製作を依頼、
昭和6 (1931) 年5月16日に除幕
式が行われました。その後、像部分
は、 昭和19 (1944) 年、金属回収
のため撤去されましたが、昭和36
(1961) 年、都は、小倉右一郎氏の高
弟である、津上昌平、山畑阿利一氏
に製作を依頼し、往時の群像を模し
て再建されました。
(台座の裏面には次の言葉が記されて
います。)大正十二年九月一日の大震
火災の為に我が東京市小学校児童の
死亡せし者無慮五千人其の惨状言語
に絶せり学校長等深く之を哀み之を
悼み相議りて当時幸に難を逃れ生を
全うせる都下の学童をして此の不遇
の霊を慰め不幸の魂を弔はしめむこ
とを企画し第五回の忌辰に際して之
を発表するや 忽ちにして学童の共
鳴する者十八萬二千二十七名に及び
其の醵金一萬四千六十六圓四十七銭
に達せり乃ち小倉右一郎氏に託して
震災記念堂の傍に此の群像を建設し
保存資金を添えて之を財団法人東京
震災記念事業協会に寄附し永く当
時を追憶し其の冥福を祈らむとす
     昭和五年九月一日







   





  


葛 飾 北 斎 ①
御厩川岸より両国橋夕陽見
━富嶽三十六景━
富士山を描いた「富嶽三十六景」シ
リーズの一枚です。
住 所 / 東京都墨田区横網2丁目7番地
         (隅田川緑道公園)























葛 飾 北 斎 ①
御厩川岸より両国橋夕陽見
━富嶽三十六景━
Thirty-six Views of Mount Fuji: Onmayakashi Yori
Ryogoku Bashi Sekiyo wo miru
(Sunset across the Ryogoku Bridge
from the bank of the Sumida
River at Onmayakashi)


富士山を描いた「富嶽三十六景」シ
リーズの一枚です。夕陽に浮かぶ富
士山を中心に、船の往来でにぎわう
両国橋や、様々な客でひしめきあう
御厩川岸の渡し船の様子が描かれて
います。構図上の特徴は、船頭の頭
を中心点として、橋の曲線と船の弧
が点対称になっている点です。また
、活き活きとした彼の描写には、北
斎らしさが表れていると言えるでし
ょう。御厩川岸(おんまやかし)の名
は、江戸時代、西岸の浅草に幕府の馬
小屋である御厩があったことに由来
します。現在の墨田区本所1丁目あた
りから台東区蔵前2丁目あたりを結ん
でいた渡し場がありました

A print from the Thirty-six View
of Mount Fuji series featuring
scenes ofMt Fuji. This scene
depicts Ryogoku Bridge surrounded
by river traffic and a boat traversing
the reiver at Onmayakashi crowded
with various types of passengers,
while Mt.Fuji rises in the center
of the background amid the sunset.
The main features, of the composition arethe prow of the boat taking the
center location, and the asymmetry attained with the curving bridge and
arc of the boat. The depiction of the
lively waves may also be considered
to be typical of Hokusai. The name Onmayakashi originates from the
fact that the Shogun' s stable,name Onmaya,was located at Asakusa
on the west bank ofthe reiver
during the Edo Era. A ferry landing
point linking 1-chome Honjo,
Sumidacity, with 2- chome Kuramae,
Taito city, is currently situated at
this location
 




  


葛 飾 北 斎 ②
首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉
━絵本隅田川両岸一覧━
隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅
田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一
枚です。

住 所 / 東京都墨田区横網1丁目12番
         (隅田川緑道公園)























葛 飾 北 斎 ②
首尾松の鉤舟 椎の木の夕蝉  
━絵本隅田川両岸一覧━
Panoramic Views on Both Banks of
the Sumida River: Shubinomatsu
no Tsuribune Shiinoki no Yuuzemi
(Fishing Boat by the Shubinomatsu
Pine Tree Evening
Cicada in the ShinokiForest)

隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅
田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一
枚です。隅田川の対岸から描かれて
います。釣り舟の向こう、左手に描
かれているのが首尾の松です。首尾
の松は蔵前にずっと並ぶ米蔵の真ん
中あたりにあった松で、丁度よい目
印になっており、この辺は釣りの名
所でした。釣り糸の向こう、右手の
森が肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷
です。この上屋敷には本所七不思議
の一つに数えられる「落ち葉なしの
椎」があったことから、椎の木屋敷
と呼ばれるようになりました。

One of the prints from the second
of the three-volume comic tanka
picture books, Panoramic Views on
Both Banks of the Sumida River,
depicting a full year along the
Sumida River. This prints has been
drawn from the opposite bank of
the Sumida River. The Shubinomatsu
pine tree is located over the far side
of the fishing boat on the Left-hand
side. This tree was located in the
center of a long of line of tres that
flourished in Kuramae and made a
perfect landmark for a famous
fishing spot located nearby.The
forest shown beyond the fishing
lines to the right is the Tokyo
residence of the Matsuura daimyo
family of the Hirada Shinden fuedal
clan from Hizen Province. This
mansion became known as the
Shinoki Mansion owing to the
“Leafless”
 




  


葛 飾 北 斎 ③ 駒止石 ━馬尽━
文政時代(1818-1830)の正月の配り物
として摺られた「馬尽」シリーズの
1枚です。
住 所 / 東京都墨田区横網1丁目12番地






















葛 飾 北 斎 ③
駒止石 ━馬尽━
Uma-Zukushi: Komadome-ishi
(Horse Series: Hitching Stone)


文政時代(1818-1830)の正月の配り物
として摺られた「馬尽」シリーズの
1枚です。手前側に駒止石、一番奥
には雪を頂いた富士山が描かれてい
ます。寛永8(1631)年の初夏、暴風
雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が
大洪水に見舞われた際、三代将軍家
光が本所地区の被害状況調査を命じ
たところ、旗本阿部豊後守忠秋がそ
の濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を
示したという逸話があり、その際に
馬を繋いだのが 「駒止石」です。当
時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にあ
りましたが、現在は安田庭園内で見
ることができます。
 

One of the Horse Series that were
printed to hang during the New
Year period in the Bunsei Era
(1818-1830). A stone for hitching
horses is located at the front,and
the snow-covered Mt. Fuji appears
in the background. The Sumida
River overflowed owing to a
violent rainstorm in early summer
1631, and the third Shogun, lemitsu, ordered a survey to be carried out
to assess damage inflicted on the
Honjo district when the entire area
was flooded, and it is said that only Tadaaki  Abe. direct retainer of the Shogun, displayed his loyalty to the Shogun by skillfully crossing the
turbid waters alone on horseback
tocarry out this order.The hitching
stone shown in this print is said to
be the stone to which he tied his
horse during this. This bank of
the Sumia River was located in
front of the Shiinoki Mansion at
that time, and the former Yasuda
Garden can be seen from this
point today.




 


村松志保子の産婆学校跡
沼田藩の侍医の家に生まれ、1888年に
日本初の産婆学校を設立した女性一千
余坪の中に、産婆学校、淑女館、安生
堂医院。慈善(無料)妊婦収容所が、
ありました。
住 所 / 東京都墨田区横網2丁目7-4
電 話/ 03-3625-5742(村松志保子研究会)



















村松志保子の自立的・博愛的 近代
助産師活動と助産師教育発祥の地


明治時代に女医から産婆(助産師)に
なり、明治・大正時代に、博愛精神に
基づき、助産活動をした先駆的助産師
村松志保子は、安政三年(一八五六)年
生〜大正十一年(一九二十二)没明治十
四年、この地に安生堂医院を開設、更
に女性の地位向上のため、明治十五年
、淑女館と安生堂産婆学校を設立し、
新しい教養豊かな産婆(助産師)がこの
地で育成された。志保子の博愛精神は
、貧富の分け隔てなく当時の母子を助
け、その活動は、大正十二年九月一日
の関東大震災まで続けられた。 ここに
「志保子の崇高な精神」「高邁な志」
に基づく活動を、末永く称えると共に
、助産師自らが設立した助産師教育と
博愛的助産師活動発祥の地に、将来に
わたり全世界の全ての母子とその家族
の健康と幸福を願い、更に世界平和の
実現への助産師の祈りの発信基地とな
ることを記念して。
村松志保子助産師顕彰会建立
平成十七年三月八日




 

小 林 清 親 の 旧 居 地
最後の浮世絵師、明治の広重と評
されました
住 所 / 東京都墨田区横網1丁目




アパホテルが見えます。











絵 画 と 文 学
Site of former residence of
Kobayashi Kiyochika
小林清親旧居地
明治の浮世絵版画家で、最後の浮世
絵師とも言われる小林清親は、江戸
本所のお蔵屋敷で生まれ、この辺り
で暮らしていました。七人兄弟の末
子で、明治維新の際は大阪や静岡な
どを転々としますが、その後、帰京
し洋風木版画の『東京名所図』を出
版しました。その西洋風の画風が「
光線画」として人気となり、浮世絵
版画に文明開化をもたらしたといわ
れています。明治十四年(一八八一)
の両国の大火後は、光線画から遠ざ
かり、「清親ポンチ」というポンチ
絵を描くようになり、その後、錦絵
の衰退により肉筆画を多く描くよう
になっています。近世から近代への
絵画の変遷を体現した画家といえる
でしょう。
 





品川海上眺望図





本町通夜雪
  
小林清親ギャラリーヘ




  

本所七不思議 椎の木屋敷跡
肥前平戸新田藩・松浦豊後守の上屋敷
には、樹齢が何百年かわからない鬱蒼
と茂った椎の古木が枝々を塀の外にま
で伸ばしていた。でもどんな時にも落
葉したことがなかった為、これを気味
悪がり家人もこの家にはあまり近づか
なかったそうです。
反対側に安田庭園があります。
住 所 / 東京都墨田区横網2-1




























両 国 物 語
Former Mansion with the Chinkapin
Tree of Unfallen Leaves
椎の木屋敷跡  2

本所七不思議の一つ、「落ち葉なし
の椎」があった松浦家という大名屋
敷は、この辺りにありました。庭に
は立派な椎の木がありましたが、こ
の木から葉が落ちるのを誰も見たこ
とがありませんでした。その噂はた
ちまち江戸中に知れ渡り、松浦家は
「椎の木屋敷」と呼ばれるようにな
りました。もともと椎の木というの
は常緑樹で落ち葉は少ないものです
が、それでも一枚も落ち葉がないと
いうことが不思議です。大名屋敷
という庶民からすれば特別の場所で
あったために、このような伝説が広
まったと考えられます。墨田区
 





絵本江戸土産10編 
首尾の松 大川端 椎の木屋敷
向こう岸の左側が椎の木屋敷






(すみだ郷土文化資料館より)




 


旧 安 田 庭 園
旧安田庭園は、元禄4年(1691)
、下野足
利藩主本庄氏の下屋敷として作られた
のが始まりです。安政年間に大規模な
改修が施され 隅田川の水を引いた汐
入回遊庭園として整備されました。徳
川時代における大名庭園の典型をなす
名園で、明治22年(1889)、安田財閥の
所有に移り、大正11年(1922)東京市に
寄贈されました。 現在は墨田区が管
理しています。
開園時間/ 1月~5月、9月~12月)
9:00~16:30
(6月~8月)9:00~18:00
住 所 / 東京都墨田区横網1-12-1



東 門 付 近




















 

横網町公園
Yokoamicho Park

旧 安 田 庭 園 の 沿 革
元禄年間 (1688~1703) に、徳
川5代将軍綱吉の生母である桂昌院の
実弟で、後の常陸笠間ひたちかさま藩5
万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷と
して拝領し、この庭園を築造したと伝え
られている。中央に「心」字をかたど
った池を配し、かつては隅田川の水を引
き入れ、潮の干満によって変化する景観
を楽しむ、いわゆる潮入り池泉回遊式庭
園である。明治になって旧備前岡山藩主
池田章政侯爵邸となり、明治24年(1
891)には、安田財閥の創始者である
初代安田善次郎の所有となった。安田翁
の逝去後、故人の遺志により大正11
年( 1922 ) に家屋及び庭園は、東京
市に寄付された。大正12年 (1923)
9月1日の関東大震災により壊滅的な
被害を受けたが、残った地割り石組を
基にして復元工事が行われた。旧安田
邸跡地は寄付者の名を冠 して「旧安田
庭園」と命名され、昭和2年(192
7) 民間篤志家の寄附による和風庭園
として都内初の一般公開となった。
昭和42年 (1967) 、東京都から
墨田区に移管されたのを機に、全面的
な改修工事を行い、昭和46年
(1971) に新装開園し、現在に至って
いる。明治時代の文献の中で記載されて
いる姿を今日までよくとどめており、清
澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園
の一つであることから、平成8年(19
96)、東京都の「名勝」に指定された。

THE HISTORY OF KYU=YASUDA GARDENS
In the Genroku Era ( 1688-1703),a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan of 50,000 koku, Honjo Inabanokami Munesuke, who was a youger blood brother of the biological mother (keishoin ) of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun, received this land from the Bakufu as a suburban residence and
is said to have constructed this garden. This garden has a pond in the shape
of the Japanese character “kokoro”(heart) at its center and uses a system ston formationsknown as shioiri by which the pond is fed from the Sumida River so
the water level in the pond rises and
falls with the ebb and flow of the
river’s tide. After the Meiji Restoration,
it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late Bizen-Okayama
Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of
the Yasuda Financial Group. After Zenjiro’s death,as specified in his will,
the garden and house were donated to Tokyo City in 1922. However, on September 1 of the
following year (1923)、the grounds
were almost completely destroyed by
the Great Kanto Earthquake. The
City began re-construction work on
the garden, using as a base the
ishigumi ston formations, which fortunately remained, and then named
the gardens after the donor- -“Kyu-
Yasuda Gardens” In 1927, it was
opened to the public as the first
Japanese garden, donated by a private charitable person.
Taking the opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan
Government to Sumida City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971.
It was completely restored to the original condition of former times when it was
called a “distinguished garden ”. in 1996, this garden wasdesignated a
Metropolitan place of Scenic Beauty as
a typical garden of the Meiji Era.














心 字 亭




















北 門 付 近










潮 入茶 屋 (Sioiri Tea House)










西 門 付 近




















水 門 跡 付 近












水  門  跡
江戸時代にこの庭園が造成された折、
隅田川から水を引き込み、潮の干満
によって池の水位を上下させ、それ
とともに見え隠れする岩や護岸、浮
沈する島等の景観変化を楽しむとい
う技法がとられました。これは「潮
入」と呼ばれるものです。この水門
は、潮入池の水位調整のために造ら
れたものでしたが、昭和三十年代ま
での隅田川の水質環境の悪化や、
出水対策のための堤防補強に伴って
、昭和四十年頃には閉じられ、導水
溝も埋められてしまいました。潮入
の池は、都内ではほかに浜離宮公園
や旧芝離宮公園、清澄庭園などでも
採り入れられていましたが、現在も
目にすることができるのは、浜離宮
のみとなりました。墨田区では、潮
入の再現を図るため、昭和四十六年
に本園北側に約七百五十平方メート
ルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地
下に造り、池と貯水槽に水を移動さ
せることにより、人工的に干満を表
現する潮入を再現しました。本園の
水門は、現在では当初の機能を失っ
はいますが、往時の姿をとどめる
遺構として現状のまま保存されてい
ます。
       墨 田 区














駒止稲荷(Komadome-inari-jinjya)















駒 止 石
三代将軍家光の寛永年間の半ばにあ
たる八年 (一六三一) に秋の台風に見
舞われ隅田川は大洪水となりました
。本所側の被害は特に甚大で、これ
を憂慮した家光は、その状況を調べ
させようとしました。しかし、あま
りの濁流に誰もが尻込みをする中、
旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現
在の柳橋の辺りから、馬を乗りいれ
ました。忠秋は、馬を巧みに操って
川を渡り、被害状況を調べて回りま
したが、その際、馬を止めて休憩し
たところが駒止石です。当時、この
辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を
敬い、この地に駒留稲荷を祀り
ました。
            墨 田 区 




 

刀 剣 博 物 館
The Japanese Sword Museum
2018年1月19日(金)旧両国公会堂跡地
に開館公益 財団法人日本美術刀剣保存
協会運営の、美術刀剣類の保存、展示
をする博物館です。
住 所 /東京都墨田区横網1-12-9
  電   話 /03-6284-1000
開館時間 9:30~17:00









































































   

良い歯の日発祥記念碑
昭和43年(1968) に両国駅近くの両国中学
校の校門前に設置されたが, 両国中学校
の工事のため 一時的に 旧曳舟中学校の
校門前に移された。大正時代に今の
両国中で歯科検診を始めたことを記念し
て「良い歯の日」が定められた
そうです。
住 所 / 東京都墨田区横網1-10-2
























良い歯の日発祥記念碑
歯科界の黎明期に 本所歯科医師会
は  入江義次 五十嵐庭治君等の提唱
で口腔衛生普及運動を起したその始は
奥村鶴吉 加藤清治  川上為次郎 
岡本清纓 高津武の諸先生に依頼して  当時の本所高等小学校(現墨田区立両
国中学校)で区内学童の口腔診査を
実施した会員の積極的活動とライオン
歯磨の後援によってこの運動は日本歯
科界最初の企画として当時の新聞に報
道された。この時学童数名を選び表彰
状と「良い歯の日碑」と記したメダル
を贈った。大正十四年(1925年)十
一月七日のことである 本会の唱導は
多くの反響をよび 後年「ムシ歯予
防デー」として発展するところとな
った  本会発足五十周年に当り国民
保健向上の一齣であるこのことが永
く後世に伝わるようにこの碑を記念
事業として建てるものである
   昭和四十三年(1968年)
         十月十日建之
        本所歯科医師会




   

NTTドコモ歴史展示スクエア
自動車・船舶・衛星・携帯電話、ポケ
ットベル、携帯情報端末(PDA)、PH
Sといった、電電公社NTT、NTTド
コモ、NTTパーソナルを中心とした、
300点以上の実機、移動体通信の過去か
ら未来への歴史を見ることができます。
住 所 / 東京都墨田区横網1-9-2
電 話 / 03-6658-3535
開館時間 / 10:00~17:00
休 館 日 / 日曜・月曜、祝祭日、
年末年始

































   

大東流合気柔術 本部
伝統ある正統大東流合気柔術の修行・保
存を通して国内・海外を問わず世に役立
つ健全な人づくりを目指します。
人生の指導原理として武道を通して正道
自覚し、世の為人の為になる人物育成を
目的にしています。

稽古日/毎週火・金・日曜日
住 所 / 東京都墨田区横網1-12-31 
電 話 / 03-3517-2447




















               






つぶやきいってみよう
(お店・工場関係)







  


Marked マークト
Goodies by good ones: Marked(マー
クト)は英語で「気になるもの」、
デンマーク語で「市場」を意味し、
「おいしい」の背景に、確かな理由と
物語がある商品陳列されています。
住 所:東京都墨田区本所1-1-101 
時 間:9:00~18:00
定 休 日:火曜日
 





























































  


両 国 テ ラ ス カ フ ェ
電 話 :03-5608-7580
住 所:東京都墨田区横網1-12-21
OPEN EVERYDAY
[Mon-Fri]
LUNCH / 11:00~15:00(14:30 l.o.)
DINNER / 17:00~22:00
(FOOD 21:00 l.o./DRINK 21:30 l.o.)
[Sat,Sun&Holiday]
LUNCH / 11:00~15:00
CAFE / 15:00~17:00
DINNER / 17:00~22:00
(FOOD 21:00 l.o./DRINK 21:30 l.o.)

































  


R Cafe192 dog cafe
ヘルシーなお料理とオーガニック
コーヒーを楽しめます。

目の前はNTTドコモのビルです。
無料WiFI・ワンチャンOK
テイクアウトOK:広々52席
 住 所:東京都墨田区横1-9-2(AHBASE内)
電 話:03-5637-7414
    定 休 日:無休/不定休あり






























        






墨田区内循環バス時刻表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)


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