スカイ姫のつぶやき街角南部ルート4
( 勝海舟生誕の地・吉良邸跡入口
          ~弥勒寺)

【 墨田区内循環バス停:勝海舟生誕の地
・吉良邸入口→千歳三丁目西(六間堀跡)
→弥勒寺前 】

    

 

葛飾北斎新板浮絵忠臣蔵 
     第十一段目元禄赤穂事件
 
 葛飾北斎本所立川、
       ━富嶽三十六景━

吉良邸跡(本所松坂町公園)

吉良邸正門跡 本因坊屋敷跡

赤穂浪士前原伊助住居跡

鏡師中島伊勢住居跡 

相撲部屋時津風部屋(時津風一門)

将棋指しの八代伊藤宗印屋敷跡 
 
芥川龍之介文学碑  二 之 橋

尺振八の共立学舎跡

鬼平情景・ 煙草屋壺屋

鬼平情景軍鶏なべ屋「五鉄」

勝海舟生誕の地
  錨の由来




六間堀の護岸の石の外壁

六間堀児童遊園 弥勒寺橋跡




弥 勒 寺   五 間 堀 跡 


   





    

葛 飾 北 斎 ⑥
新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目

元禄赤穂事件」を描いたシリーズの
一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎
の演目にも盛んに取り入れられた「仮
名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への
赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様子
で描かれており、

住 所 / 墨田区両国3丁目13番9号
(本所松坂町公園)












 

葛 飾 北 斎 ⑥
新板浮絵忠臣蔵 第 十 一 段 目

Shinban Ukie Chushingura : Dai Juichi-
Danme(Newly Published Perspective
Pictures of Chushingura:Act 11)


元禄赤穂事件」を描いたシリーズの
一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎
の演目にも盛んに取り入れられた「仮
名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への
赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様子
で描かれており、軒先や建物のライン
が奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲
まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側
の剣豪、小林平八郎と思われます。こ
の夜吉良上野介を護って討ち死にした
小林平八郎は、自分の曽祖父であると
、北斎自から語っていたそうです。

A print from the series depicting the Genroku Ako incident.This uki-e print depicts the climax of Kanadehon Chushingura,which was performed frequently in puppet shows and
Kabuki at that time, showing the forty-seven Ronin raiding the Kira Residence,and the lines of the
building’s eaves and the building
itself express a deep perspective.
The person putting up a solitary
fight against the forty-seven Ronin
is Heihachiro Kobayashi, one of the
kira master swordsmen, It is said
that Hokusai used to speak of
Heihachiro Kobayashi, a ma
Kozukenosuke Kira that night ,
was his own grandifather




   

葛 飾 北 斎 ⑦
本所立川  ━富嶽三十六景━
富士山を描いた「富嶽三十六景」シリー
ズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です

住 所 / 墨田区両国4丁目1番地12










 




葛 飾 北 斎 ⑦
本所立川  ━富嶽三十六景━
Thirty-six Views of Mount Fuji: HonjyoTatekawa (The Timberyyard
at Honjyo)

富士山を描いた「富嶽三十六景」シリ
ーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行
です。江戸時代、堅川の北側(旧相生
町一丁目~二丁目付近)には、その水
運を活かした材木問屋が密集してい
ました。北斎はそれら問屋と職人た
ち、木材の間から覗く富士山を描き
ました。積み重ねられた材木の間から
見える富士は、遠近法を得意とする北
斎らしい構図です。右下の材木置き場
には「西村置場」、その左右の材木に
は「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」な
どの墨書きがあり、版元名とその場所
、本シリーズ(「富嶽三十六景」)の宣
伝がさりげなく入っています。

A print from the Thirty-six Views
of Mount Fuji series featuring
scenes of Mt.Fuji.This print was
made when Hokusai was about s
eventy years old. During the Edo
Era. timberyards that used the river
for transporting timber were crowed
along the north bank of the
Tatekawa River (nearby the
former Aioicho 1-chome through
to 2-chome). Hokusai has depicted
a scene of Mt.Fuji seen from
between the timberyards, the
workers and the timber.The
composition of this print with Mt.
Fuji visible between the piles of
timber is typical of Hokusai, who
was very proficient at expressing perspective. “Nishimura Storage
Yard”is written on the timber
storage area at the bottom right-
hand side amd “2-Choume
Bakurocho”and“Supplied by
Eijudo”is written on the timber on
the left and right of this,enabling
Hokusai to casually advertise the
name and address of the Thirty-six
Views of Mount Fuji series'
publisher.
 




   

吉 良 邸 跡(本所松坂町公園)
忠臣蔵で知られる赤穂義士の討ち入り
があった吉良上野介義央の上屋敷跡。

住 所 / 墨田区両国3-13-9  
電 話 / 03-5608-6951























 

本所松坂町公園( 吉良邸跡 )
Honjo-matsuzakacho Park
(Site of the former residence of Kira)
忠臣蔵で知られる赤穂義士の討ち入り
があった吉良上野介義央の上屋敷跡。
当時の86分の1の大きさながら、園内
には吉良上野介の首を洗った井戸を再
現し、吉良上野介を祀った稲荷神社が
残されています。
The site of Kira Kozukenosuke
Yoshihisa’s mansion,which was raided
the 47 ronin as described in the classic
take of Chuushingura, also includes a reproduction of the Kubiarai-no-ido
Well where the ronin washed Kira’s
head after the raid.








忠 臣 蔵
Site of former residence of lord Kira

吉 良 邸 跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東
西七十三間、南北三十五間で、面積
は二千五百五十坪(約八四00平方メ
ートル)だったとされています。吉
良上野介が隠居したのは元禄十四年
(一七〇一)三月の刀傷事件の数カ月
後で、幕府は呉服橋門内にあった吉
良家の屋敷を召し上げ、代わりにこ
の本所二ツ目に屋敷を与えています
。現在、吉良邸跡として残されてい
る本所松坂町公園は、当時の八十六
分の一の大きさに過ぎません。この
公園内には、吉良上野介座像、邸内
見取り図、土地寄贈者リストなどの
他、吉良上野介を祀った稲荷神社が
残されています。









本所松坂町、公園由来
所在地 墨田区両国三丁目十三番九号
面 積 九十七・五六平方メートル
この公園は「忠臣蔵」で広く知られ
る、赤穂浪士の討入があった、吉良
上野介義央の上屋敷跡です。その昔
、吉良邸は松坂町一、二丁目(両国
二、三丁目)のうち約八、四〇〇平
方メートルを占める広大な屋敷でし
たが、年を経て一般民家が建ちなら
び、いまではそのおもかげもありま
せん。昭和九年三月地元町会の有志
が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸
跡の一画を購入し史跡公園として、
東京市に寄付したもので、昭和二十
五年九月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は、江戸時代における高
家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を
模した造りで、園内には、元吉良邸
にあった著名な井戸や稲荷社などの
遺跡があり当時をしのばせておりま
す。また内部の壁面には義士関係の
記録や絵画が銅板で展示されており
ます。
 




   


吉 良 邸 正 門 跡
元禄十五年 (十七0二) 十二月十四日、
正門から大石内蔵助以下二十三名が
用意した梯子で邸内に侵入しました。
住 所 / 墨田区両国3-6-7

















忠 臣 蔵
Site of the main gate of Lord Kira’s
former residence

吉良邸正門跡
この辺りに吉良邸正門がありました
。元禄十五年 (十七0二) 十二月十
四日、寅の刻 (午前四時) の七つ鐘
を聞いた後、正門から大石内蔵助以
下二十三名が用意した梯子で邸内に
侵入して、内側から門を開け、「浅
野内匠家来口上」を玄関前に打ち立
てて乱入しました。赤穂浪士は正門
、裏門の二手に分かれて討ち入り、
大声を上げながら、百人以上の大勢
が討ち入ったように装いました。こ
れに動揺した吉良家家臣の多くが外
に飛び出そうとしました。しかし、
弓の名手、速水藤左衛門らが侍長屋
の戸板に向かって次々と矢を射掛け
て威嚇し、出口を固められたため、
飛び出すこともできず戦闘不能にな
ったといわれています。
 




   


赤穂浪士前原伊助宅跡
赤穂浪士四十七士の一人で、米屋五兵衛
として吉良邸裏門のすぐそばに米屋を開
業して、吉良邸を探っていたそうです。
住 所 / 墨田区両国3-2-4
















忠 臣 蔵
Site of former residence of Maebara
Isuke
前 原 伊 助 宅 跡

この辺りに、前原伊助宅がありました。
伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、
浅野家家臣前原自久の長男として生ま
れ、延宝四年(一六七六)に家督を継ぎ
ます。金奉行として勤仕したため、商
才に長けていました。浅野内匠頭の刀
傷事件後は江戸急進派として単独で別
行動を取りました。初めは日本橋に住
んでいましたが、やがて吉良邸裏門近
くの本所相生町二丁目に移り住み、
「米屋五兵衛」と称して店を開業し、
吉良家の動向を探りました。その後、
大石内蔵助と行動をともにしました。
討ち入りの直前には、亡君の刀傷事件
から討ち入りまでの経過を漢文体で克
明に書き綴った「赤城盟伝」を著して
います。




   


絵 画 と 文 学
Site of former residence of
Nakajima Ise
鏡師 中 島 伊 勢 住 居 跡
伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦
十三年1763)後の葛飾北斎 となる時
太郎を養子にしました。
幕府御用達の鏡師
住所 / 墨田区両国3-14-6

















絵 画 と 文 学

Site of former residence of
Nakajima Ise
鏡師中島伊勢住居跡

中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、
町人に払い下げられ、本所松坂町と
なったこの辺りにありました。伊勢
は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三
年(一七六三)、後に葛飾北斎となる
時太郎を養子とします。北斎の出生
には不明な点が多く、はっきりとし
たことは判りません。中島家はこの
養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲
りますが北斎はその後も中島姓を名乗
っていることから、中島伊勢の妾腹
の子だったという説もあります。飯島
虚心の『葛飾北斎伝によると、北斎の
母親は赤穂事件に登場する吉良方の
剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島
伊勢に嫁いでいるとしています。この
話は、北斎自身が広めたようです。
 




   


相 撲 部 屋
時 津 風 部 屋 (時津風一門)
師匠は、十六代・時津風正博
(元前頭・時津海)
住 所 / 墨田区両国3-15-4
























相 撲 部 屋
Tokitsukazu Stable
時 津 風 部 屋 (時津風一門)
師匠は、十六代・時津風正博 (元前
頭・時津海)。昭和十七 (一九四二)
年、当時現役であった第三十五代
横綱・双葉山定次が、その実績を
評価され二枚鑑札れ、「双葉山相
撲道場」を開いたのが、現在の時
津風部屋創設につながっています
。幕内最高優勝十二回 (内、全
勝八回) 、いまだに破られない歴
代最高記録の六十九連勝など、輝
かしい成績を残した双葉山は、太
平洋戦争終戦直後の昭和二十(一
九四五)年十一月場所後に引退、
十二代・時津風を襲名、双葉山道
場の名を時津風部屋に変更しまし
た。双葉山道場の看板は、現在も
掲げられています。十二代・時津
風は、昭和四十三 (一九六八)年十
月十六日、満五十六歳で死去する
までの間、約十一年間にわたり、
第三代相撲協会理事長を務めると
ともに、一横綱(鏡里・・・十三代
・時津風)、三大関(大内山、北葉
山、豊山・・・十四代・時津風
。第八代相撲協会理事長)をはじめ
、多くの力士を育成しました。
         墨 田 区




   


江 戸 の 町
Site of former residence of Ito So-in
伊 藤 宗 印 屋 敷 跡
京葉道路沿いの両国亭の前に立ってい
ます。明治12年(1879)に十一世微塵
を襲位した八代伊藤宗印が住んで
いました。
住 所 / 墨田区両国4-30-4
















江 戸 の 町
Site of former residence of Ito So-in
伊藤宗印屋敷跡  17
 
明治十二年 (一八七九) に十一世名
人を襲位した八代伊藤宗印がここに
屋敷を構えていました。将棋でいう
名人とは、将棋指しの家元の第一人
者が名乗った称号です。江戸時代に
は大橋家本家、大橋家分家、伊藤家
の三家が持ち回りで世襲していまし
た。三家ともはじめは本所に屋敷を
構えましたが、間もなく転居し、明
に入って宗印だけが戻ってきました
。宗印はここで棋士の育成を始めま
す。後の名人関根金次郎もこの屋敷
で腕を磨きました。さらにその関根
に弟子入りしたのが本所生まれの名
人木村義雄です。木村はこの屋敷で
めきめきと頭角を現わし、現在の将
棋の隆盛を築き上げました。本法
寺(横川一‐十二‐十二)にある墓碑
は駒形をしたものでしたが、戦災に
より破損してしまいました。
 




  

芥 川 龍 之 介 文 学 碑
両国小学校は芥川龍之介の出身校で、
江東尋常小学校と呼ばれていました。
学校の北西の角に自署と児童文学の
「杜子春」の一節が刻まれています。
住 所 / 墨田区両国4-21-6(両国小学校内)

















芥川龍之介 文学碑
「━━お前はもう仙人になりたい
といふ望も持ってゐまい。
大金持になることは、元より
愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何に
なったら好いと思ふな」
「何になっても、人間らしい、
正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない
晴れ晴れした調子が罩って
ゐました。
     「杜子春」より


「杜子春」の あらすじ
(ウィキペディアより)
唐王朝の洛陽の都。
西門の下に杜子春という若者が一人佇
んでいた。彼は金持ちの息子だった
が、親の遺産で遊び暮らして散財し
、今は乞食同然になっていた。そん
な彼を哀れんだ片眼すがめ(斜視)の
不思議な老人が、「この場所を掘る
様に」と杜子春に言い含める。その
場所からは荷車一輌分の黄金が掘り
出され、たちまち杜子春は大富豪
になる。しかし財産を浪費する
うちに、3年後には一文無しになっ
てしまうが、杜子春はまた西門の
下で老人に出会っては黄金を掘り出
し、再び大金持ちになっても遊び暮
らして蕩尽する。3度目、西門の下
に来た杜子春の心境には変化があっ
た。金持ちの自分は周囲からちやほ
やされるが、一文無しになれば手を
返したように冷たくあしらわれる。
人間というものに愛想を尽かした杜
子春は老人が仙人であることを見破
り、仙術を教えてほしいと懇願する
。そこで老人は自分が鉄冠子小説
『三国志演義』などに登場する左
慈の号)という仙人であることを
明かし、自分の住むという峨眉山へ
連れて行く。峨眉山の頂上に一人残
された杜子春は試練を受ける。鉄冠
子が帰ってくるまで、何があっても
口をきいてはならないのというのだ
。虎や大蛇に襲われても、彼の姿
怪しんだ神に突き殺されても、地獄
に落ちて責め苦を加えられても、杜
子春は一言も言わない。怒った閻魔
大王は、畜生道に落ちた杜子春の両
親を連れて来させると、彼の前で鬼
ちにめった打ちにさせる。無言を貫
いていた杜子春だったが、苦しみな
がらも杜子春を思う母親の心を知り
、耐え切れず「お母さん!」と一声、
叫んでしまった。叫ぶと同時に杜子
春は現実に戻される。洛陽の門の下
、春の日暮れ、すべては仙人が見せ
ていた幻だった。これからは人間ら
しい暮らしをすると言う杜子春に 、
仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑
を与えて去っていった。





芥川龍之介 文学碑
芥川龍之介は、明治二十五年(一八九
二)三月一日、東京市京橋区入船町に
新原敬三、ふくの長男として生まれ
ました。辰年辰の日辰の刻に生まれ
たのにちなんで龍之介と命名されま
した。生後七ケ月の時、母ふくが突
然発病したために、本所区小泉町十
五番地(現両国三丁目)に住んでいた
ふくの長兄芥川道章に引き取られ、
十三歳の時芥川家の養子となりまし
た。芥川家は旧幕臣で江戸時代から
の名家で、道章は教養趣味が深く、
文学、美術を好み、俳句や盆栽に親
しむとともに南画をたしなみ、一家
あげて一中節を習い、歌舞伎を見物
するなど、江戸趣味豊かな家庭でし
た。本所は龍之介の幼児時から小
青年期までの大事な時期を育くんだ
場所で「大導寺信輔の半生」「本
所両国」などの作品にその一端を見
ることができます。龍之介は明治三
十一年回向院に隣接する江東尋常小
学校付属幼稚園に入園、翌年同小学
校(現両国小学校)に入学しました。
明治三十八年(一九〇五)府立第三中
学校(現両国高等学校)に入学、同四
十三年成績優秀により無試験で第一
高等学校第一部乙類に入学しました
。その後大正二年東京帝国大学英文
科に入学、同五年卒業しました。東
大在学中、夏目漱石の門に入り同人
雑誌『新思潮』『新小説』に優れた
短編を発表して文壇に華やかに登場
しました。この文学碑は龍之介の代
表作の一つである「杜子春」の一節
を引用したものです。この両国の地
に成育し、両国小学校で学んだ近代
日本を代表する作家、芥川龍之介の
人生観を学び氏の文才を偲ぶものと
して両国小学校創立百十五周年の記
念事業として、平成二年十月に建立
されたものです。




  


日本海軍の駆逐艦
「不知火(しらぬい)」の錨
この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事
(旧岡田菊治郎商会)が軍艦解体作業で得
たのを昭和の初年に江東 (現両国)小学
校に寄贈したものである。芥川龍之介
の文学碑の隣に置かれています。
住 所 / 墨田区両国4-21-6(両国小学校内)














錨(いかり) の 由 来
この錨は日露戦争 (一九〇四年~一
九〇五年) で活躍した日本海軍の駆
逐艦「不知火(しらぬい)」のもので
ある。この艦は英国ソーニー・クロ
フト社製造・起工明治三十一年・進
水三十二年・三百二十六トン・(艦長
六三・五メートル・五四七〇馬力・
三〇ノット・火砲六門・発射管二基
・煙突二基)の構造である。錨の裏側
にあるアルファベットと1898の刻印
は錨の製造年と推定される。猶この
錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事
(旧岡田菊治郎商会) が軍艦解体作業
で得たのを昭和の初年に江東 (現両
国) 小学校に寄贈したものである。
平成三年  月
   両国(相生・江東)小学校同窓会
 



岡田商事  墨田区両国1-11-5
電 話 / 03-3632-2111.
岡田商事の建物は『日本近代建築
総覧』に載っているそうです。












   


尺振八の共立学舎跡
天保10年 (1839) 、江戸に生まれた英語
学者で、漢学を学んだ後、万延元年 (18
60) にジョン万次郎から英語を学び
ました。
住 所 / 墨田区両国4丁目26番



























尺振八(せきしんぱち)は、天保10年 (1839) 、江戸に
生まれた英語学者です。漢学を学ん
だ後、万延元年 (1860) にジョン万次
郎から英語を学びました。文久元(18
61) に幕府に勤め、同年12月の第一回
遣唐使節団に、通訳として福沢諭吉
(慶應義塾創設者)などと共に随行し、
同3年 (1863) の第2回遣唐使節団にも
同行しました。振八の英語学者とし
ての力量は、当時の日本では、天下
第一流であったと伝えられています。
明治3年 (1870) に本所相生町(ほんじょあいおいちょう)(現両国四丁目付近) に私塾「共立学舎(きょうりつがくしゃ)」を創設し
、英学教育を行いました。この学校
は、名門私塾として有名で、門下生
には政治家の島田三郎や波多野伝三
郎、法学博士の田口卯吉など有能な
人物がいました。その後、イギリス
の哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、当て字で斯辺撤
(スペンサー))の❛Education:intellectual,moral,
andphysical❜(教育論)を翻訳した
斯氏教育論(すしきょういくろん)』(スペンサー氏の教育
論という意味)を刊行しました。
  平成29年3月
      墨田区教育委員会
 




   


江 戸 の 町
Site of former residence of
Hom-inbo
本 因 坊 屋 敷 跡
本因坊家は、囲碁の名門で織田信長、
豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた
日海(一世本因坊算砂)を開祖とする
家系で棋手を輩出してきました。
住 所 / 墨田区両国3-5-7














江 戸 の 町
Site of former residence of Hom-inbo

本 因 坊 屋 敷 跡
ここに本因坊屋敷跡がありました。
本因坊家は、囲碁の名門で、織田信
長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕
えた日海(一世本因坊算砂)を開祖
とする家系で名棋手を輩出してきま
した。「本因坊」の名は、算砂が住
職を務めた寂光時の塔頭の一つに由
来しています。もともとその拝領地
は芝金杉にありましたが、幕府に接
収されたためその代地として寛文7
年(1667)この場所が屋敷となりま
した。江戸期を通じて、常に囲碁四
家元(他に安井家、井上家、林家)
の筆頭の地位にあり、道策・丈和・
秀和・秀策などの棋手を生んでいま
す。現在は、実力制で争われるタイ
トルの1つとして名が残っています。




   


  鬼 平 情 景
     煙 草 屋・壺 屋
鬼平情景の作品の数多くに登場し
核となる店です。
住 所 / 墨田区両国4-4-5













鬼 平 情 景
煙 草 屋・壺 屋


大盗・蓑火の喜之助の下で修業を積ん
だ真の盗賊、大滝の五郎蔵が捕縛され
、密偵となり親子の契りを結んだ養父
、舟形の宗平と始めました。後に夫婦
となった女密偵のおまさも同居するよ
うになりました。作品の数多くに登場
し、核となる店です。「密偵たちの
宴」では、冒頭に相模の彦十、小房の
条八、伊佐次の三名が壺屋に集まり、
合わせて六名が、豪勢な料理を前に忙
中閑の酒盛りをしている場面が出てき
ます。平蔵が最も信頼を寄せ、
腕の利く密偵たちが思い出話に耽って
興趣を高め、その勢いで畜生盗めが支
配する世を嘆き、平蔵に悟られないよ
うに本格盗めの手本を示そうという話
になる展開には心が踊らさせます。




    


 
鬼  平  情  景
     軍鶏なべ屋「五  鉄」

中田屋茶舗の前に設置
















鬼 平 情 景
軍鶏(しゃも)なべ屋「五鉄」


小説「鬼平犯科帳」に登場する鬼平
の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏
なべ屋「五鉄」の場所は、「二ツ目
橋の角地で南側は堅川」とあるよ
うに、この辺りだと推定されます。
鬼平とその配下の密偵たちは、ここ
に集まって、軍鶏なべをつついてい
ました。その名物である軍鶏の臓物
べは「新鮮な臓物を、初夏のころか
ら出まわる新牛蒡のササガキといっ
しょに出汁で煮ながら食べる。熱
いのを、ふうふういいながら汗をぬ
ぐいぬぐい食べるのは、夏の快味で
あった」と「鬼平犯科帳」には書か
れています




   


二  之  橋
隅田川より二つ目の橋で本所堅川に架か
る橋。鬼平犯科帳では「二ツ目橋」とい
う名で登場します。中田屋茶舗の前にあ
ります。
所在 / 墨田区両国4-1-12

















江 戸 の 町
二 之 橋


万治二年(一六五九)、堅川が開削さ
れると五つの橋が架けられ、隅田川
に近い方から一之橋から五之橋と名
付けられました。その二ツ目の橋で
、長さ十間(十八メートル)、幅三間
(五・四メートル)ほどありました。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、
二之橋は「二ツ目橋」という名で数
多く登場します。鬼平が事件を解決
するなかで、弥勒寺門前のお熊婆の
いる茶店「笹や」へ行くにも、大川
から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄
」に立寄るにも、この橋は必ず登場
し、正に欠かせない場所となってい
ます。現在の橋は平成十年(一九九八
)に架橋されたものです




   


勝 海 舟 生 誕 の 地
勝海舟は文政6(1823)年、江戸本所亀
沢町にある父の実家である男谷家で
生まれ、7歳までここで生活。独立し
てからは実家の近くに居を構えた。咸
臨丸で渡米、帰国後は軍艦奉行となり
神戸海軍操練所を開設した。江戸城無
血開城を実現したことで有名。
住所 / 墨田区両 国4-25-3
          (両国公園内)
























勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政
6年(1823)1月13日この地 男谷精
一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助
に師事し、蘭学海洋術を学び、万延
元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長と
して、太平洋を横断渡米した。慶應
4年(1868)3月13日高輪薩摩藩邸に
おいて、大総督付参謀西郷隆盛と会
談し、江戸城の開城を決定して、官
軍の戸進撃を中止させ、江戸百万の
庶民を戦禍から救ったことはあまり
にも有名な話である。明治32年(1
899)1月21日、赤坂氷川町(港区内
の自邸で死去行年77歳であった。墓
は洗足池畔に建立されている。

平成元年10月
墨 田 区(幕府講武所剣術師範役 
        元男谷邸跡)
















勝 海 舟 生 誕 の 地
所在の地 墨田区両国4丁目25番
勝海舟は、文政6年(1823)正月30
日、ここにあった男谷精一郎の屋敷
で生まれました。父惟寅(小吉)は
男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で
、文化5年(1808)7歳のとき勝元良
に養子入りし、文政2年(1819)に
元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新
居を構えました。海舟が男谷邸で生
まれたのは、このためだと考えら
れます。海舟は7歳までの幼少期を
この地で過ごしました。その後は、
旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁
目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(
現亀沢3丁目6番)を転々とし、よう
やく落ち着いたのは天保初年(1830
)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁
目25番)に転居してからのことでし
た。海舟は、赤坂に転居する弘化3
年(1846)までそこで暮らし、島田
寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣
の修行に励む一方、向島の弘福寺に
通い参禅していたと伝えられていま
す。海舟が海外事情に関心を寄せは
じめた時期は分かりませんが、天保
14年(1843)21歳の時には師匠島田
のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩
士)に師事し、嘉永3年(1850)に
は「氷解塾」を開いて西洋兵学を教
授しはじめました。米国使節マシュ
ー・ペリーが浦賀に来航したのはま
さにその頃、嘉永6年(1853)6月3
日のことでした。海舟は幕府首脳部
に独自の海防論を呈し、安政2年(
1855)正月には目付大久保忠寛の推
挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳
御用となり、翌3年に講武所砲術師
範役、同6年に軍艦操練所教授方頭
取に就くなど、活躍の場を広げてい
きました。そして、同7年正月には
日米修好通称条約の批准使節に随伴
し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋
横断に成功しました。また、帰国後
も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務め
るなど、政局の混迷の中でますます
重要な役割を担うようになったので
す。慶応4年(1868)3月に行われた
西郷隆盛との会見は、徳川家の存続
と徳川慶喜の助命、無血開城を実現
に導き、維新期の混乱収拾に力を発
揮した海舟の代表的な事績となりま
した。海舟は新政府で高官に任ぜら
れますが、明治8年(1875)11月に
元老院議官を辞した後は著述活動や
旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力
しました。明治19年(1886)5月に
は酬恩義会を創設して将軍家霊廟の
保存を図るなど、最期まで旧幕臣と
しての意識を持ち続けていました
。明治32年(1899)1月19日、海舟
は77歳で病没。洗足池畔の墓で静か
に眠っています
平成23年3月 墨田区教育委員会

The birthplace of Katsu Kaishu
The birthplace of katsu kaishu, who
is a very famous person in Japanese history (1823-1899). Katsu was a
servant of the Tokugawa Shogun,
who learned advanced knowledge
from Western countries including
e military in his youth, He took an
active role in the mid-19th century dedicated to the modernization of
military forces. He served as the
captain of the warship ‘Kanrin
Maru’in 1860, taking a delegate
with a mission of ratification of
the Convention with the Unaited
States to San Francisco.
 












勝 海 舟 幕 末 絵 巻
勝海舟の歩みと、さまざまな出会い
鳶が鷹を生んだ
勝海舟誕生  文政6年 1823
勝 海 舟 通称「麟太郎」、
本名「義邦」のち「安芳」
【文政6年1月30日―明治32年1月19日】
(1823-1899)

海舟は本所亀沢町にあった、父の実
家である、男谷家の屋敷(現在の両
国公園)で生まれました。海舟の曽祖
父検校は元々は地方の出身で、江戸
に出て成功し富を得て旗本男谷家の
株を買い入れ、息子(海舟の祖父)平
蔵に男谷家を継がせました。海舟の
父惟寅は跡継ぎのいない勝家の婿養
子となり勝小吉と称することとなり
ました。勝家は三河以来の古参の幕
臣でしたが、小普請組に属する無役
で、いわゆる貧乏旗本でした。若年
期の海舟は貧しい生活を送りながら
も、剣術、蘭学、参禅と修行に励
み、この時の剣術と参禅の修行が自
分の精神の土台をつくったと、後に
本人が語っています。
 




 


長崎海軍伝習所絵図:
公益財団法人鍋島報效会所蔵

【安政2年7月29日】(1855年)海軍創
設を目指す幕府が、オランダからの
支援を受け設立された教育機関。海
舟は伝習生を監督する「海軍伝習重
立取扱」として、伝習所へ派遣され
ました。このとき小十人組となり、
無役の小普請組から脱しました。こ
こで海舟はオランダ語とともに近代
西洋技術、実践的な操船技術も修得
しました。



幕府海軍の礎となる
長崎海軍伝習所 安政2年 1855年



ペリー提督横浜上陸の図:
横浜開港資料館所蔵


黒 船 来 航
【嘉永6年6月3日】(1853年)
ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍
インド艦隊の艦船が、浦賀に来航し
ました。アメリカの軍事力を前にし
て、対応に苦慮した老中阿部正弘は
、幕閣のみならず広く意見を求めま
した。このとき海舟が提出した意見
書が幕府内で注目され海舟は、次い
で大阪湾の防備体制を検討するため
の現地調査団の一員に命じられ、自
らの手で出世への足がかりを掴み
ました。


島 田 寅 之 助

文化11年4月3日―嘉永5年9月16日】
(1814-1852)
男谷道場の師範代を勤めたのちに自
らの道場を開き、直心影流島田派の
祖となった剣客。海舟も従弟である
男谷信友の道場で剣術を学んだのち
、彼の道場に入門、21歳で直心影流
免許皆伝となります。彼の薦めもあ
って蘭学や参禅修行も修めました。



咸臨丸難航図(鈴藤 勇次郎画)
  :木村家所蔵、横浜資料館保管


勝 海 舟 ア メ リ カ へ
咸臨丸の渡航 安政7年 1860年
【万延元年】(1850年)
幕府は日米通商条約の批准書交換の
ため遣米使節団をアメリカに派遣し
ました。海舟は随行艦咸臨丸に乗船
し航海を指揮、アメリカまでの航海
は悪天候が続き困難を極めましたが
、同乗していたアメリカ海軍大尉ブ
ルック他、アメリカ人乗員の助力も
あって、日本の船として始めて太平
洋横断に成功しました。安政7年1月
13日(1860年2月4日)に品川から出帆
したのち、浦賀に寄り、安政7年1月
19日(1860年2月10日)に浦賀を出港
、安政7年2月26日(1860年3月17日)
にサンフランシスコに到着、約43日
間で航海したとされています。海舟
はアメリカの軍事技術のみならず、
政治団体や社会構成について日本と
の違いを確認しました。




咸臨丸難航図(鈴藤勇次郎画):
木村家所蔵  横浜開港資料館保管

咸 臨 丸
幕府がオランダから購入した船で、
長さ約47m、幅約7.3m,重量380t、
約100馬力の蒸気機関を搭載した木
造、3本マスト、12門の大砲を備え
た帆船で幕府の所有した初期の軍艦
です。安政4年(1857年)にオランダ
から日本に送られ、長崎海軍伝習所
の練習艦となり、太平洋横断後は戊
辰戦争にも参加しました。新政府軍
に拿捕され、明治政府の開拓史の輸
送船となりました。明治4年(1871年)
に輸送中に暴風雨に遭い沈没しました。


坂本龍馬との出会い

 



坂本龍馬肖像写真(立位)
高知県立坂本龍馬祈念館所蔵

坂本 龍馬
【天保6年11月15日―慶応3年11月15日】
1835年―1867年
土佐藩出身 海舟に世界情勢と海軍の
重要性を説かれ、その諸説に感服し弟
子となり、海舟の片腕となって神戸海
軍操練所設立に尽力しました。龍馬は
姉乙女に宛てた手紙で「日本第一の人
物」と海舟を絶賛しており、深く尊敬
していたことが窺えます。亀山社中(
後の海援隊)を結成し薩長同盟の成立
や、大政奉還の成立に尽力するなど、
倒幕及び明治維新に大きな影響を与え
ました。



遣欧使節一行 福沢諭吉
                   
 :東京大学史料編纂


福 沢 諭 吉
【天保5年12月12日―明治34年2月3日】
(1834年―1901年)
中津藩出身 明治維新後は平民とな
り主に教育者として尽力しました。
慶應義塾の創設者であり、一万円紙
幣の肖像にもなっています。軍艦奉
行の木村摂津守の従者として、海舟
とともに咸臨丸に乗船し、アメリカ
へと向かいました。アメリカから帰
国した翌年には、欧州各国への文久
遣欧使節団にも通訳方として同行し
、西洋文化を目の当たりにした諭吉
は、帰国後、著書、学校、新聞を通
して西欧の文化や考え方を日本に広
め、学問の大切さを説きました。
(遣欧使節一行福沢諭吉:
        東京大学史料編纂)



中濱 万次郎氏肖像写真:
中濱 万次郎直系5代目 
中濱京氏所蔵


ジョン 万次郎
【文政10年1月1日―明治31年11月12日】
(1827年―1898年)
本名は中濱万次郎 漁師の次男とし
て生まれ、漁の最中に遭難しアメリ
カの捕鯨船に救助され渡米、アメリ
カで英語や造船技術などを学びまし
た。帰国後は幕府の旗本となり通訳
や教師として活躍しました。通訳と
して海舟とともに咸臨丸に乗船し、
アメリカへと向かいました。


坂本龍馬肖像写真(立位)
高知県立坂本龍馬祈念館所蔵



激動の幕末期と勝海舟
ペリー来航以来、その対応をめぐって
政争は激化、「安政の大獄」によって
長州藩や水戸藩を中心とする尊王攘夷
派と幕府や薩摩藩を主体とする公武合
体派の対立が顕著となります。これに
朝廷の動静も加わり内政は混迷の度を
深めていきました。その中で海舟は、
攘夷を排し、有力諸藩と幕府が協力的
に国内を統治する新たな政治体制の構
築を目指すべきと主張しました。将軍
徳川慶喜はあくまで、幕府の回復、強
化を目指しますが、武力倒幕などの動
きに直面し、ついに大政奉還を上表し
ます。その後、王政復古の大号令が発
せられ、慶喜の辞官納地の方針が決定
れます。
鳥羽・伏見の戦いで完敗した慶喜は大
阪城を脱出し江戸に戻ります。このと
き慶喜は朝敵となり、官軍となった新
政府軍は慶喜追討のため江戸を目指し
て進撃を開始します




山岡鉄舟肖像写真
福井市立郷土歴史博物館所蔵


山(やま) 岡(おか) 鉄(てっ) 舟(しゅう)
【天保7年6月10日―明治21年7月19日】
(1836-1888年)
江戸生まれの幕臣。武術に天賦の才能
を示しました。徳川慶喜の警護役高橋
(たかはし)泥(げい)舟(しゅう)が、義弟
である鉄舟を東征大総督府に徳川慶喜
恭順の趣旨を伝える使者として、海舟
に紹介しました。鉄舟は、東征軍参謀
西郷隆盛と単身で面会し、慶喜恭順の
意を伝え、新政府の徳川家に対する条
件を確認し、江戸城開城の交渉に向け
ての大役を果たしました。勝海舟高橋
泥舟と共に「幕末の三舟」と称され
ています。


 勝と西郷で江戸を救う
    江戸城開城 慶応4年1868年



江戸城開城談判 (結城 素明画) 
聖徳記念絵画館所蔵



戊 辰 戦 争
【慶応4年1月3日―明治2年5月18日】(1868年―1888年)鳥羽・伏見の戦い
から始まる、
新政府軍と旧幕府勢力による一連の
内戦で、鳥羽・伏見の戦い後、旧幕
府勢力の指導者である、徳川慶喜が
恭順の意を示し、江戸城を無血開城
したことによって、以降の戦闘は恭
順に従えない旧幕臣及び東北諸藩に
よる戦いとなります。新政府軍に装
備で劣る旧幕府軍は、敗戦を繰り返
し、東北各地での戦闘ののち箱館戦
争を最後に集結しました。

「一朝不測の変あらば官軍へ駆入、
 其罪を一身に乞はむと決意す。」
(ひとたび予測のつかない事態が発生
したら、自分(海舟)が官軍(東征軍)
に駆け入り責任はすべて自分が負う
ことを決意した。)「海舟日記」慶
応四年(一八六八)四月十一日条(江戸
城明け渡し、徳川慶喜水戸へ出発)

【慶応4年3月から4月】(1868年)
東征軍が江戸に迫る中、海舟は徳川
慶喜の助命と徳川家の存続のため、
東征軍参謀西郷隆盛との会談にのぞ
みました。この会談は3月13、14日の
2回にわたって行われ、江戸城明け
渡しについての交渉がなされま
した。海舟は交渉が決裂した場合に
備え、民衆を避難させた上で江戸市
街を焼き払う焦土作戦と、慶喜を英
国に亡命させる準備をしており、和
戦両様の態勢を整えていました。
また、海舟は英仏公使への事情工作
も行っていたと推測されています。
海舟から嘆願書を受け取った隆盛は
、薩長支持の英公使スパークスに攻
撃を反対されていることも考慮し、
江戸総攻撃中止を決断、駿府の総督
府に出頭し、その後、京都二条城で
の三職会議に臨み、隆盛の尽力によ
って、海舟の嘆願がほぼ受け入れら
れるに至りました。これにより、江
戸城は天正18年(1590年)以来、278年
間、徳川氏の居城でありましたが、
ついに無血開城され、江戸市民は戦
火から守られ、軍事介入による内乱
も防止されるに至りました。
 




   




桐 屋 田 中
創業明治25年の桐箪笥メーカー
桐の博物館
住 所:本店-墨田区両国4-1-8 
電 話:03-3632-0341 0120-72-1001
定 休 日:水曜 営業時間:9:00~180











































































   




  


山崎製パン株式会社
本社/中央研究所
地中から見つかった六間堀の護岸の
石の外壁!
六間堀は竪川と小名木川とを南北に
つなぐ運河で、隅田川のやや東側を
流れていました。戦後、空襲の瓦礫
処理の為に埋められてしまった
そうです。
墨田区千歳3丁目15−6
電 話 / 03-3632-0630



















 「六間堀」石組護岸の石垣
 
 “Rokkenbori” Ishigaki Stone Wall Block

「六間堀」という名称は、川幅が六間
(約11m)であるところから付けら、江
戸時代から重要な水路でした。
「六間堀」の開削年代は不明ですが
、寛文11年(1671年)の江戸外絵図に
は記載されており、深川村開拓当初
、堅川と小名木川を結ぶ水路として
既に開けていたようです。(長さ約90
0m)下の石垣は、当ビル建設の際、
地中から見つかった「六間堀」の護
岸の石を並べ、堀の石垣を再現した
ものです。
 














  


六 間 堀 児 童 遊 園
昭和34年4月1日に墨田区の六間堀跡に開
園されました。六間堀は、江戸時代の慶
長年間に疎通した小名木川と、明暦の大
火後の万治2年に開削された竪川を結ぶ
幅六間(10.8m)、長さ900m程の掘割
(北端→墨田区千歳3-18 南端→江東区
常盤1-19)で、江戸時代には大名屋敷
が並んでいたそうです。
住 所 / 墨田区千歳三丁目1番1号



突き当たりは新大橋通りです。







































   


弥 勒 寺 橋 跡
弥勒寺橋は、清澄通が五間掘と交わる森
下駅のところに架けられていた橋で、名
前の由来が近くに在る弥勒寺からきて
います。
住 所:江東区森下
















弥勒寺橋(みろくじ)
 
弥勒寺橋は六間堀からわかれる五間
堀にかけられていた橋です。この橋の
初見は寛文十一年(一六七一) の江戸
図で、江戸時代前期には、すでに架橋
れていたことがわかります。弥勒寺橋
という名称は、橋の北東に真言宗弥勒
寺があったことに由来します。しかし
、弥勒寺は、元禄二年(一六八九)に本
所へ移ってきたので、弥勒寺橋と呼ば
れるようになったのはそれ以降のこ
とと考えられます。五軒堀は、昭和
一一年(一九三六)・昭和三0年の二
度の埋め立て許可により、全て埋め
立られ、その後弥勒寺橋も廃橋とな
りました。
平成十二年八月
            江東区
 







  




   


弥 勒 寺
弥勒寺は、慶長15年(1610)僧宥鑁が
小石川鷹匠町に創建、元禄2年(1689)
本所に移転したといいます。真言宗関
東四ヶ寺の一つとして触頭を勤めた大
寺でした。鍼灸師杉山検校の墓所が
あります。
住 所:墨田区立川1-4-13


































東京都指定旧跡
杉 山 和 一 墓
所在地 墨田区立川一丁目四番十三号  弥勒寺内
指 定 昭和十八年五月
 江戸時代の鍼医。慶長十五年(一六一〇)伊勢に生まれ名は和一といい、父は藤堂家の家臣。幼くして失明し、
江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学ん
だ。江の島弁天祠に詣でて断食祈願を
い、杉山流管鍼術を創案した。
さらに京都の入江豊明について鍼術
を学び、その道の奥義を窮めた。貞
享二年(一六八五)、五代将軍綱吉の
病を治療して厚く賞され、のちに禄
五百石を賜り、さらに三百石を加え
られた。元禄五年(一六九二)関東総
検に任じられ本所一ツ目に方一町
(約一万二千平方メートル)の宅地を
与えられた。和一はここに鍼治講
習所と弁天堂を建立したほか、諸国
に講堂を建てて多くの門人を育て
た。著書には『療治之大概集』
『選鍼三要集』 『医学節要集』等
がある。元禄七年(一六九四)五月
十八日、八十五歳で没した。
    平成二0年十二月 設置
       東京都教育委員会

Historic Places
Sugiyama Waichi Haka
(The grave of Sugiyama Waichi)
Provisionally designated in 1924,Designated in 1955 Sugiyama
Waichi (1610-94) is
an acupuncturist in the early Edo
period. He lost his eyesight in his childhood, and then came up to Edo
d learned acupuncture from
Yamase Takuichi,a Kengyo (the
highest rank within an association
of blind men).Fasting and praying
at Enoshima Benten Shrine, he
established the Sugiyama method
of tube acupuncture. In 1685, he successfully cured the fifth
shogun Tsunayoshi’s illness and
eceived high praise.Waichi was
ppointed the first Head
of Kengyo for Kanto region in 1692.
Tokyo Metropolitan Board of
Education





江戸名所図会より

右側の斜めの道に,竪川(たてかわ)二の橋(にのはし)(通りと
書かれています。竪川二の橋通りとは
、現在の清澄(きよすみ)通りです。竪川二の橋通
りから本堂に続く参道が書かれていま
す。参道の右側に塔中(たっちゅう)と書かれていま
すがこれは寺院内の小寺院で、昔は6
寺院ほどあったようです。絵の上の川
は五間堀川です。五間堀川は既に埋め
立てられていて、公園、道路などにな
って残っています。
弥勒寺は、鬼平犯科帳シリーズで
、お熊ばあさんの営む茶店「笹や
が在る寺としてお馴染みです。





   


五 間 堀 跡
川幅が五間(約九m)であるところから付
けられた名称で六間堀とともに江戸時
代から重要な水路でした
住 所 / 江東区森下森下1-17~3-13
















江東区登録史跡
 五 間 堀 跡
    江東区森下一~一七~三~一三
 五間堀は小名木川と堅川を結ぶ六間
堀からわかれる入り堀です。五間堀と
いう名称は川幅が五間(約九m)である
ところから付けられ、六間堀とともに
江戸時代から重要な水路でした。五間
堀の初見は寛文一一年(一六七一)の江
戸図で、六間堀とともに記載されてお
り、五間堀が開削された時期は、明暦
の大火(一六五七)によって付近一帯の
再開発がなされた万治年間(一六五八
~六〇)ころか、それ以前と考えられ
す。五間堀は江戸時代には富川町(森
下三)までで留となっていましたが、
明治八年(一八七五)、付近の地主で
あった元尾張藩主德川義宣(とくがわよしのり)により堀
りすすめられ、明治一〇年ころに小
名木川まで貫通しました。
昭和一一年(一九三六)・昭和三〇年の
二度の埋め立てにより、現在、五間堀
は全て埋め立てられています。
    平成一二年三月
       江東区教育委員会
 

                





つぶやきいってみよう
(店・工場関係)



大川屋本店  

大川屋支店

(株)中 田 屋 茶 舗



   




  


大 川 屋 本 店
本所松坂町と呼ばれていた明治2年
(1869)に開業。お店の一帯は、忠
臣蔵の舞台である吉良邸があった場
所で、代々のご主人が味ひとすじに
江戸のお菓子を作ってこられた
そうです。
住 所:墨田区両国3-7-5
定 休 日:月曜日
    電 話:03-3631-3759
 営業時間:9:00~18:00
 










  

【大 川 屋 支 店】
大川屋さんは、吉良邸前の本店と清
澄通の両国四丁目店があり、商品は
本店の工場から毎日配送されてきま
す。最中、団子などの和菓子は、純
国産の北海道の小豆を使用!
住 所:墨田区両国4-18-6
 営業時間:10:30~18:00
休日:日曜営業











  

(株) 中 田 屋 茶 舗
安政元年創業のお茶屋さん
    住 所:本店-墨田区両国4-1-12
         支店墨田区-両国4-32-13
電 話:03-3632-1122
      03-3634-5537
  定 休 日:日曜・祭日
 営業時間:9:00~19:00


























江戸の味 Nakadaya Cya-ho
中 田 屋 茶 舗
両国では数少ない、江戸は安政元年(1854)の創業です。この年は、前年
のペリー来航を受けた日米和親条約
が締結され、翌年には安政の大地震
が発生するという、政治、社会の両
面において、激動の時代を迎えよう
とする時期に当たります。このよう
な時、日本橋の老舗茶舗「山本山」
で修行を積んでいた中田屋創業者は
独立の道を選び、現在の店に程近
い、荷揚げに便利な堅川沿いの本所
相生町に店を構えました。当時は、
周囲の多くの店と同様、問屋を営ん
でいました。昭和20年(1945)の大空
襲で店を焼失し、間もなく現在地に
再建し、昭和52年(1977)には京葉道
路沿いに支店を出しています。

               





墨田区内循環バス時刻表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)