スカイ姫のつぶやき街角南部ルート8
本所吾妻橋駅東(南蔵院跡)~春慶寺
  〈東京スカイツリータウン前〉
)

【 墨田区内循環バス停:本所吾妻橋駅東
(南蔵院跡)→ 春慶寺前(東京スカイ ツ
リータウン前) 】
 

    



鬼平情景案内板(業平橋)

本所七不思議

 すみだむかしばなし


大横川親水公園  

南 蔵 院 跡
 




王貞治氏記念銘板

王貞治選手の母校、業平小学校

小梅銭座跡 押上天祖神社

 老舗の種田の足袋

鬼平情景西尾隠岐守屋敷

鬼平情景春慶寺大雲寺跡

たばこと塩の博物館 

和菓子老舗 お 城 森 八

二階建てバスと水陸両用車  



   





   


南 蔵 院 跡
関東大震災で罹災したため葛飾区
東水元2丁目28番25号に移転しました。
境内には荒縄で縛られたお地蔵様が
祀られています。
所在地 / 墨田区吾妻橋3-6














 南 蔵 院 跡
(しばられ地蔵と業平伝説)
所在地  墨田区吾妻橋三丁目六番
この一画には、しばられ地蔵でよく
知られる南蔵院という寺院があり
ました。しばられ地蔵とは、大岡政
談で一役買ったお地蔵様のことです
。ある時、日本橋木綿問屋の手代が
業平橋の近くで商品の反物を盗まれ
てしまいます。商いの疲れからお地
蔵様のそばで居眠りをしていた間の
ことなので、手がかりがまるであり
ません。そこで町奉行大岡越前守は
一計を案じ、このお地蔵様を犯人と
して縛り上げ奉行所に運びました。
その上、お白洲で地蔵の裁きをする
旨のお触れまで出したのです。
この噂はたちまち広まり、お裁き当
日の奉行所は詰めかけた野次馬でご
ったがえし大混乱となりました。
越前守は騒ぎを起こした罰と称して
、見物に集まった人々に1反ずつ反
物を納めさせました。すると、
集まった反物の中には予想どおり盗
品が混じっていました。越前守は納
め主を割り出して真犯人を捕らえ、
事件は無事解決したのでした。この
話から、南蔵院のお地蔵様を縛って
お願いすると、失くしたものが戻っ
てくるとか、泥棒よけのご利益があ
ると信じられるようになり、しばら
れ地蔵と呼ばれ、人々の信仰を集め
るようになりました。一方、南蔵院
の境内にはかつて業平天神社があり
ました。平安時代の歌人・在原業平
をまつったものといわれます。業平
は、隅田川を舟で渡ったときに
「名にし負はば いざ言問(ことと)はむ都鳥(みやこどり) わが思ふ人は ありやなしやと」
と詠みました。(『伊勢物語』)。
現在も地名や橋の名前などに業平の
名前を残しているのは、このことに
由来しています。南蔵院は、
昭和元年(一九二五)に葛飾区水元に
移転しましたが、現在でもしばられ
地蔵の信仰と風習で知られています。
        平成二十一年三月
 




 


 鬼 平 情 景
                   業 平 橋 (大川橋)

「敵」の中で、大滝の五郎蔵が橋を
渡ったところで尾行されていると感
じ、すばやく西尾隠岐守下屋敷わき
の木立に身を隠す場面で登場します。
所在地 / 墨田区吾妻橋3-4

















鬼 平 情 景
業 平 橋

最初の橋は、本所開拓で開削された
横川に、寛文二 (一六六二) 年に架け
られました。長さ七間、幅二間の板
橋です。橋名は、すぐ西にあった南
蔵院境内に「伊勢物語」の悲運の主
人公、在原業平の作とされる衣冠の
木座像をご神体とする業平天神社が
あったことによります。「東下り」
に因み舟形の業平の塚もあったとさ
れています。南蔵院は大岡裁きの
「しばられ地蔵」で有名ですが、
現在は葛飾区東水元に移転していま
す。鬼平犯科帳では、「敵」に登場
します。五郎蔵は人気のない業平
橋を渡った時、人につけられてい
ると感じ、すばやく西尾隠岐守下
屋敷わきの木立へ飛びこんで提灯の
明かりを消し、後ろを伺う場面があ
ります。江戸の頃はこの辺りで採れ
た業平蜆が美味で特産品とされ、
作品にもたびたび出てきます。
           墨 田 区




   

本所七不思議
 置いてけ堀・あかりなしそば
・送りちょうちん・送り拍子木
・足洗い屋敷・ 片葉のあし・狸ばやし
所在地/横川橋~紅葉橋(大横川親水公園)














置いてけ堀



あかりなしそば



送りちょうちん



送 り 拍 子 木



足 洗 い 屋 敷



片葉のあし



狸 ば や し



置いてけ堀
 




本所七不思議
     
  置いてけ堀
夕方になって釣り人が帰ろうとする
と堀の中から「おいてけ!」という
声が聞こえてきます。周囲に人影は
なく、空耳と思って立ち去ろうとす
ると、途中で必ず足がすくみ、釣っ
た魚はいつのまにかいなくなって
しまう。



昇旭斎国輝画( 三代目歌川 国輝 )

置 い て け 堀
     (墨田区役所・
   すみだむかしばなしより)
この堀では非常に魚が釣れるが、夕
方になって釣り人が帰ろうとすると
、堀の中から「オイテケ! オイテ
ケ!」と叫ぶ声が聞こえるという。
周囲に人影はなく、釣り人は空耳と
思って立ち去ろうとすると、途中で
必ず足がすくみ、釣った魚はいつの
まにかいなくなってしまう。釣り人
は、「きっと堀に落ちたのだろう」
とあきらめて、もぬけの殻となった
ビク(魚を入るもの)を提げてしょ
んぼり家路を急ぐだけとなる。この
堀では誰もが同じ目に遭うので、釣
人は「釣った魚は置いていくしかな
い」とあきらめるようになったとい
う。「オイテケ」というのは、ビク
の中の魚を置いてけという事でこれ
から「置いてけ堀」の名が生まれた
。しかし、この「置いてけ堀」がど
こだったかというと、いろいろな説
があり、いまの東京楽天地あたりと
か、亀戸とか、また横網にあった「
御竹蔵」の周囲の堀であるとか色々
伝えられている。



 



 
本所七不思議
     あかりなしそば
寒い冬の夜道に、毎晩そば屋が店を
はっていた。おかしなことにいつも
灯はついていない。客が火を付けて
やるのだが、ふっと消えてしまう。
何度付けても消える。こうして帰っ
た人の家には必ず凶事があるという



「灯り無しの蕎麦屋」昇旭斎国輝画

あかりなしソバ
(墨田区役所・すみだむかしばなしより)
肌さえ凍る冬の夜、人の往来もまれ
な本所南割下水(いまの江東市場後
地から錦糸公園に通じる道。昔は中
央が掘割であった)に毎晩そば屋が
店をはっていた。あんどんには、筆
太の字で“二八そば”(代金十六文だ
ったからという説と、そば粉が八分
でうどん粉が二分という説がある)
”切りうどん”と書かれている。だが
おかしなことに、手探りするような
暗い夜なのに、いつも灯はついて
いない。そこで客が火を付けてやる
のだが、たちまち消えてしまう。き
っと皿に油がないのだろうとか、誰
かのいたずらと思って懲りずに火を
つければ、同じように消えてしまう
。「さて不思議なことよ」と思いな
がら家に帰ると、その家には必ず災
いが起こるという不吉なそば屋。「
消えずのあんどん」の方は、反対に
いつでもともり、火の消えたのを見
たことがない、という。








 本所七不思議
       
③送りちょうちん
夜ふけて道を歩いていると、ちょう
ちんのあかりが見えるので これに
向って進んで行くとちょうちんのあ
かりはパッと消えてしまう。しばら
くたつとまた、前方に現れ、いつま
でたっても追いつくことができない




「送り提灯」昇旭斎国輝画

送りちょうちん
    (墨田区役所・
    すみだむかしばなしより)
夜ふけて道を歩いていると、いつの
まにか前方にちょうちんのあかりが
現れ、人を送っているように見える
ので、これに向かって進んで行くと
、ちょうちんのあかりはパッと消え
てしまう。しばらくすると、また、
前方に現れ、いつまでたっても追い
つくことができない。本所の人たち
は、このなんとも薄気味の悪いちょ
うちんに出くわしているうちに、い
つのまにか「送りちょうちん」と呼
ぶようになったという



 




 本所七不思議
        
送り拍子木
人影もとだえ、しのつく雨のなか、
割下水を夜回りが「火の用心」カチ
カチと拍子木を打つ。すると打ち終
えたはずの拍子木なのに後から同じ
ように繰り返してカチカチと無気味
な音が人を送るように聞こえるという。
 ( 江東橋脇、緑4丁目24付近 )



 「送り拍子木」昇旭斎国輝画

送 り 拍 子 木
    
(墨田区役所・
      すみだむかしばなしより)

人影もとだえた南割下水(今の江東市
場跡地から錦糸公園に通じる道。昔
は中央が掘割りだった)に、ちょうち
んのあかりをたよりに「火の用心」
と声を大きくして町並を行く。”夜回
り”がいた。拍子木をカチカチと打っ
て「火の用心」。すると打ち終えた
はずの拍子木なのに、後から同じよ
うに繰り返して、カチカチと無気味
な音が人を送るように聞こえるとい
う。これが「送り拍子木」である。
これは、静まり返った町のたたずま
いの中で、拍子木の音がこだました
のであろう。でも、あまり科学的に
突き詰めては、話も七不思議も興な
しである。








 本所七不思議
      足洗い屋敷
本所三笠町に住む旗本屋敷に、夜ごと家鳴りがし、天井からひどくよごれた大足がニョッキリ出る。足を洗ってやるとおとなしく引込める。たまりかねた主人は同僚と屋敷を交換したところ、足は現れなくなったという。 




「足洗い屋敷」昇旭斎国輝画

足 洗 い 屋 敷
  (墨田区役所・
    すみだむかしばなしより)
本所三笠町(いまの亀沢)に住む幕
府旗本の屋敷毎晩不思議なことが起
こる。草木も眠るというほどのしん
しんとした丑(うし)三つ(午前2
時頃) どき。なまぐさい風が吹くに
つれて、この屋敷は、家鳴りし激し
く揺れ動く。ほどなく、天上からメ
リメリというすさまじい音とともに
天井から毛むくじゃらの大きな足が
ニョッキリ出る。足は血に染まり、
ひどくよごれている。「足を洗え!」
と突然無気味な声がする。待ち構え
た腰元や下女たちが大きなたらいに
水を入れて、足をきれいに洗ってや
る。すると“足”はおとなしく足を引
っ込める。これが毎日続くのだから
、たまったものではない。いつの間
にか、この屋敷を“足洗い屋敷”と呼
ぶようになった。しかし、足をすこ
しでもおろそかに扱うと、たちまち
、“足”は怒って家をこわさんばかり
に揺り動かす。ついにたまりかねた
屋敷の主人は、同僚と相談して屋敷
を交換することにした。するとこの
大きな“足”は二度と現れなくなった
という。








 本所七不思議
      片葉のあし
本所藤代町の南側から両国橋の広小
路に渡る駒留橋の下を流れる隅田川
の入堀にはえていた「あし」は、双
方に葉がでずに 片側だけしか葉が
でていないので「片葉のあし」と
呼ばれ、不思議がられたという。




「片葉のアシ」
昇旭斎国輝画

片 葉 の あ し
(墨田区役所・すみだむかしばなしより)
大橋(両国橋のこと、いまの橋より
下流にあった)の北側に、“駒留橋”
があった。その橋の下を流れる入堀
に生えていた「あし」は、片側だけ
しか葉が出ないので、「片葉のあし
」と呼ばれていた。なぜ、一方にし
か葉が出なくなったかというと━━
。むかし、横網に留蔵というならず
者がいて、これが、亀沢町のお駒と
いう娘に思いを寄せていた。しかし
、これは、留蔵の片思いで、いつも
冷たくあしらわれていた。そこで
留蔵は、かわいさあまって憎さ百倍
とばかり、ある夜、凶行に及んだ。
留蔵は、逃げるお駒に後ろから切り
つけたが、なおあきたらず、片手、
片足を切り落として、死体をこの入
堀に投げ込んでしまったのである。
それから後、この入堀に生えるあし
は、みな片葉となったといわれてい
る。「葛西志」には、この入堀の名
が「片葉堀」として記されている。
また、一説によると、この堀は西日
しか受けないため、あしが片葉にな
ったという。








本所七不思議
      狸 ば や し
稲穂がなびくころ夜ごと、どこから
ともなく聞こえてくる太鼓の音。つ
いフラフラとつり出され、歩き疲れ
て家に帰り寝てしまう
夜が明けてみ
ると自分の家だと思ったのが野原で
、たぬきにばかされたという訳です。



「たぬき囃子」
昇旭斎国輝画

狸 ば や し
(墨田区役所・すみだむかしばなしより)
稲穂がなびくころ、本所の人の耳
に夜ごと祭りのおはやしが、ある時
は近くから、ある時は遠くからとい
うようにどこからとなく聞こえてく
る。人びとはあまりのおもしろさに
つぃフラフラと浮かれ出てあちこち
耳をそばだて、捜し歩いてしまう。
ついに歩き疲れて、家に帰り前後を
忘れてそのまま寝てしまう。ところ
が、夜明けごろ、頭上で鳴くカラス
に起こされて、あたりをみると「コ
リャー大変」。自分の家だと思って
いたのが、なんと広々とした野原。
そこにただひとり、腕まくらで高い
びきをかいていたのが自分だった。
タヌキにばかされたのである。これ
が世にいう「タヌキの化けばやし」
で、そのころの本所には、タヌキが
住む広い野原が残っていたのであろ
う。タヌキばやしは千葉の証誠寺が
本家だから、もしかすると千葉の方
から聞こえたのかも知れない。



 その他本所七不思議 
(七不思議は七つ以上ありました。)
〇「落葉無き椎の木」〇「燈無蕎麦」
〇平戸新田藩松浦家上屋敷、
〇両国公会堂付近  〇「津軽屋敷の
太鼓」 〇北斎通り上屋敷は亀沢2
丁目緑公園一帯「消えずの行灯」
〇 南割り下水付近=北斎通り




   

すみだむかしばなし
 塩原太助・杉山検校・与兵衛ずし
駒留石・しばられ地蔵・雨乞いの句碑
狸 塚・四谷怪談意外誌・在原業平
梅若丸
所在地 / 横川橋~紅葉橋(大横川親水公園)













塩 原 太 助




杉 山 検 校・与兵衛ずし




駒 留 石




しばられ地蔵




四谷怪談意外誌・在 原 業 平





雨乞いの句碑




狸 塚




梅 若 丸




昔ばなしにちなむ、水にすむ動物を
拾い集めて図案化したモザイク
パネルの絵

















モザイクパネルの説明
 
墨田区の地域が本格的に開け始め
たのは、江戸時代初期の本所開拓(かいたく)
らです。それ以前は、南部は湿地帯(しっちたい)
、北部は農村地帯でした。徳川幕府(とくがわばくふ)
は、万治二年 (一六五九年) 本所開
拓のために、多くの掘割(ほりわり)(水路) 開削(かいさく)
して、その土で低湿地(ていしっち)を埋め立てま
した。そうした中で、当時の開拓に
まつわる様々な話が、今もなお伝説
や史跡となって数多く残されていま
す。このモザイクパネルの絵は、昔
ばなしにちなむ、水にすむ動物をひ
ろいあつめて図案化したものです。
「昔は、掘割にたくさんのかっぱが
すんでいました。それだけに争いも
多くなって、その中でも、源森川(げんもりがわ)
源兵衛(げんべい)かっぱと、仙台堀(せんだいぼり)川の仙台
かっぱの争いがはげしくなりかけた
ため、船手頭(ふなてがしら)向井将監(むかいしょうげん)(墨田川の
船の通行を取り締まる人) も困りは
てて、大横川の錦糸堀かっぱの長老
にたのんで、争いをやめさせてい
るところです。」この付近の昔話は
、この 「かっぱ争い」のほかに、
(こい)の心中」 「古池の大がめ」
「たにしさま」 などがあります。
         墨田区
 




      


大横川親水公園
大横川を整備した総延長1,800mの親水
公園です。錦糸町と押上、業平を結び
、橋などを境としてエリアごとに人口
のせせらぎや釣堀、広場など特徴ある
施設が設けられています。


所在地:吾妻橋三丁目、業平一丁目、
東駒形四丁目、横川一丁目、本所四丁
目、太平一丁目、石原四丁目、錦糸一
丁目、亀沢四丁目、江東橋一丁目、緑
四丁目
面積:63,973.17平方メートル 
桜の本数:82本




大横川親水公園
Oyokogawa-shinsui Park
大横川を整備した総延長1,800mの親水
公園です。錦糸町と押上、業平を結
び、橋などを境としてエリアごとに
人口のせせらぎや釣り堀、広場など
特徴ある施設が設けられています。

Oyokogawa-shinsui park is a water
park with the well-maintained
Oyokogawa River of a total length of
,1800 meters. The park connects Kinshicho,Oshiage, and Narihira.
Within each area divided by bridge
or other borders,you will find unique facilities such as an artificial brook,
a fishing hole, and an open space
 



1-業平橋~平川橋   2-平川橋~横川橋 
 
3-横川橋~紅葉橋    4-紅葉橋~法恩寺橋
     
5-法恩寺橋~清平橋   6-清平橋~長崎橋  
     
7-長崎橋~江東橋   8-江東橋~撞木橋  




1・業 平 橋~平 川 橋


















































































































































平川橋からみた桜、素晴らしい!。
(令和4年3月28日)












平 川 橋 落 慶 記 念 碑
















平川橋落慶記念碑
ここにあった平川橋は、長さ28.17メ
ートル、幅13.37メートルの鋼橋 
(鋼単純ワーレントラス橋)で、関東
大震災の復興事業により昭和4年に
架けられました。太平洋戦争時には
、金属供出のため高欄が撤去されま
したが、戦後の昭和27年には復旧さ
れました。その後も定期的に補修を
続けてきましたが、老朽化が進行し
たため架橋後82年が経過した平成23
年にその役目を終えて撤去し、新た
に道路として整備しました。永い間
、親しまれた本橋の面影を慕い、橋
名板とトラスの一部を遺してその歩
みを記します。 
              平成24年3月
 
 




2・平 川 橋 ~ 横 川 橋







































































3・横 川 橋 ~ 紅 葉 橋



















































藤の花イッパイのビルの壁




















4・紅 葉 橋 ~ 法 恩 寺 橋



















































5・法 恩 寺 橋 ~ 清 平 橋










































蓮の華が二輪!





蓮の葉の上に鳥、サギのようです。

































6・清 平 橋~長 崎 橋




































清 平 橋 の 由 来
大横川親水公園をまたぐ清平橋は、
関東大震災の復興事業により昭和4
年に架けられました。かつては川の
西側が清水町、東側が太平町呼ばれ
ていたことから、両町名から一文字
ずつ取って清平橋と名づけられまし
た。架橋時は長さ38.97mの鋼橋
(3径間ゲルバー橋)でしたが、老
朽化が進行したため、ら82年が経過
した平成23年に、長さ10.00mのコン
クリート橋(プレテンション方式P
C単純床版橋)に架け替えました。
架け替えを記念して、旧橋の橋名板
と鋼材の一部を遺してその歩みを記
します。
    平成24年3月
 









7・長 崎 橋~江 東 橋















長 崎 橋 の 由 来
ここにあった長崎橋は 元禄10年 (16
97) 当時の本所奉行鈴木兵九郎、鳥屋
久五郎、両名によって、墨田区亀沢
四丁目より同錦糸一丁目に架けられ
ました。最初は長さ10間 (18.0m)
、幅2間半 (4.5m) の木橋でしたが
、その後何回となく架け替えられ
、昭和4年6月には、鋼橋 (トラス
) になりました。この橋は、大横川
親水河川整備事業によりその役目を
終えて撤去しました。
なお、橋の名前は、当時西側に隣接
した本所長崎町の地名にちなんで長
崎橋と名付られ、永い間、親しまれ
た本橋の面影を慕い橋名板を残して
、その歩みを記します。
      
平成3年6月
 




牛島神社のお祭り
(平成22年9月17日)







































































8・江 東 橋 ~ 撞 木 橋

































     





   


たばこと塩の博物館
住 所 / 墨田区横川1-16-3  
定 休 日 / 月曜日
電 話 / 3-3622-8801  
営業時間 / AM10:00~PM6:00
入館料 大人・大学生 100円
・小・中・高校生 50円










































大 横 川 入 口










  


王貞治氏「野球人生の原点」記念銘板
(業平公園内)
住 所 / 墨田区業平2丁目3-2



































































「王貞治の野球はここから始まりました」
第二次世界大戦が終わり、日本の復興
が始まった頃、この小さな公園で、夢
中になって三角ベースボールを楽しむ
子ども達の中に、世界のホームラン王
、王貞治の少年時代の姿がありました
。王少年の打ったボールは、たびたび
隣の小学校(旧校舎)の屋上を越えるほ
どの大飛球でした。野球人、王貞治の
原点がここにあります。

【王貞治氏の経歴】
1940年(昭和15年)5月20日、東京市向
島区(現・墨田区)生まれ。
業平小学校、本所中学校を卒業。早稲
田実業学校高等部から読売巨人軍に
入団し、生涯通算本塁打は868本とい
う世界一の記録達成者。

The Beginning of Sadaharu Oh’s
Baseball Career World War Ⅱ had
ended, and japan’s reconstruction had
just begun. In a small park, a group
of children are playing a three-base
version of baseball. Among them is
Sadaharu Oh, the future world homerun king. He hits the ball, and time again
it flies, higher and higher, over the
adjacent school building. This was
the beginning of Sadaharu Oh’s
baseball career.

Background:
Sadaharu Oh was born May 20, 1940,
in Tokyo’s Mukoujima Ward
(presently Sumida Ward).
He graduated from Narihira Elementary school and Honjo Junior High School. Drafted to the
Yomiuri Giants from Waseda Jitsugyo
High School, he holds the world
lifetime homerun record,
with 868 homeruns during his career
 




   


墨田区立業平小学校
王貞治選手の母校
住 所 / 墨田区業平2丁目4番8号
電 話 / 03-3625-0331










































  


お 城 森 八
昭和8年創業
創業当時から小豆の風味を殺さな
いようにという変わらぬレシピ
で、しっかりした風味のある餡を
作っています。
住 所 / 墨田区業平1-3-6
    定 休 日 / 第三月曜日
    電 話 / 03-3622-0006
     営業時間 / 9:00~18:00
駐 車 場 2台有




















































春雨や風子改め雲竜亭雨花・
真打昇進披露興行













































































    


大 雲 寺 跡 (役者寺)
歌舞伎俳優の墓が数多くある事から
「役者寺」と呼ばれていました。
住 所 / 墨田区業平三丁目2-5




大 雲 寺 跡
Site of the former Daiunji Temple
初代中村勘三郎や五代目尾上菊五郎など歌舞伎俳優の墓が数多くあること
から「役者寺」と呼ばれた大雲寺の跡地です。関東大震災ですべての堂が
焼失し、昭和6年 (1931) に現在の江戸川区西瑞江に再建されました。

This is the site where the Daiunji Temple was previously stood, which was
also called “Yakusyaji Temple”(Kabuki-Actors’Temple) because
there are many graves of kabuki
actors including First NAKAMURA Kanzaburo and Fifth ONOE
kikugoro, All the buildings were
burnt down in the Great Kanto
Earthquake and this temple was
rebuilt in current location of Nishi-Mizue, Edogawa-ku in 1931.
 
























 




大 雲 寺(だいうんじ) ( 役者寺(やくしゃでら) ) 跡
所在地  墨田区業平三丁目二番、
     一、三、四番の一部
 この地は「役者寺」とも「赤門寺
」とも呼ばれた浄土宗知恩院末の寺
院跡です。本尊は運慶(うんけい)作の阿弥陀如
来と伝えられています。元和六年
(一六二〇) に梵譽(ぼんよ)貞存が浅草森田町
に創建しました。寛文八年 (一六六
八) に類焼したため、本所押上村に
新しい土地を幕府から拝領しました
。江戸幕府による市街地の拡張の一
環として行われた最初の本所・深川
の開拓に伴う移転だったと考えられ
ます。歌舞伎の初代中村 (猿若) 勘
三郎以後十三代、初代市村羽左衛門(うざえもん)
以後十六代、さらには四、五、六代
松本幸四郎や初代、三、五、六代の
尾上菊五郎ら多くの歌舞伎役者た
ちの菩提寺であることから「役者寺
」とも呼ばれました。関東大震災
を契機として、昭和六年 (一九三一
) 、現在の江戸川区西瑞江二丁目に
移転しました。平成十年、この大雲
寺の範囲の一画であった墨田区職員
住宅の建築に伴い、江戸時代の埋葬
墓等の遺構が発見され、発掘調査が
実施されました。
   平成二十年三月
    墨田区教育委員会
 




  


大 島 部 屋
日本相撲協会に所属している伊勢ヶ濱
一門の相撲部屋である。
しこ名 旭天鵬(きょくてんほう)
住 所 / 墨田区業平三丁目1-9






















  

押 上 天 祖 神 社
おしなり商店街のある押上・業平
橋地区の村社として地域の人々の
崇敬を集める神社です
住 所 / 墨田区業平2丁目9−6

































押上天祖神社御由緒
押上天祖神社は、明治五年十月元押
上村の村社に列し祭日は九月十六日
と定められて、今日に及んでいる。
その起因するところによれば、古く
延元年間より祭ってあった。延元は
建武の次で、南朝の忠臣楠木正成公
が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇
が吉野に行かれた頃で、今から六
百余年の昔に当る。当時は押上と云
ったかどうか分らないが、大昔は現
在の東京の下町は海で、ところどこ
ろに島や浮洲があった。この辺は柳
島と云われ早い時代に陸地となり人
が住んだとも伝えられている。其の
後、花園天皇時代に神明社と称した
。祭神は天照大神と八幡、春日両大
紳を祭ってある。また一説には現在
の京成橋付近で川が増水して堤防に
押上げられてあった御神体を、当時
附近の農民等が安置して祭ったとも
云われている。その頃は下総国葛飾
郡押上村で、其の後に武蔵国に編
入され、明治五年村社に列する事と
なり、明治十一年の記録には「武蔵
国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、
田八畝十八歩、この代金十六円八十
銭、同村天祖神社、同所畑二十五歩
、この代金二円五十銭」という文献
が残っている。天祖神社は呼名を朝
日神明宮と云われた時代があったそ
うですが、其の時代は神仏の混交時
代で、徳正寺という寺が管理して居
たのが、明治初年に行われた神仏分
離により、神官のいない為か牛島神
社の区域であり、本社は牛島神社で
、押上天祖神社は其の末社と云う事
になっている。又大正十年に大祭が
行われ、同十二年の関東大震災で社
殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄
は、平川橋四丁目地域にあったの
が、後、昭和三年の区画整理で、
現在地(業平二の十三の十三)に替
地になったのである。境内は二百七
十二坪五合五勺、大震災で焼失後社
殿も新築されたが、昭和二十年三月
十日の戦災で、又も焼失した。そし
て昭和二十七年度大祭の折、再び新
築し、続いて昭和三十二年の大祭に
は鳥居が再建され、又玉垣、塀、水
屋等も出来、神社としての形態が整
ったのであります。尚、終戦後の宗
教法人法による神社認可となってい
る。昭和三十七年境内には社務所、
会館を設立すると共に従前の六カ町
の外に新たに旧業平橋一丁目と、旧
向島押上町が加わり、八カ町の神社
となっている。五月五日に新調され
たもので、今迄に関東大震災と戦災
で二回に亘る災害にあったが、現在
の神輿庫が奇跡的に焼失をまぬがれ
たので大神輿も当時のままの荘厳華
麗な姿を残して居ります。其の間、
明治四十四年九月、大正十年五月と
何回かの修理を行って居ります。
      墨田区史より
  平成十年七月吉日
      押上天祖神社総代会
 





























  

小 梅 銭 座 跡
『古今泉貨鑑(ここんせんかかがみ)』
によれば、元文元年(一七三六)十月
二十日に裏面に「小」の一字を入れた
寛永通宝が鋳造されたようです。
住 所:墨田区業平1-7-2
























小 梅 銭 座 跡
所在地 業平一丁目七番・十三番・
十四番
(ぜに)は、中央に四角い小さな(あな)をあけ
た円形の金属貨幣で、国内では七世
紀後半の富本銭(ふほんせん)の鋳造に始まると考
えられています。八世紀初頭から十
世紀半ばにかけては和同開珎(わどうかいちん)をはじ
めとするいわゆる皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)鋳造(ちゅうぞう)
されました。公鋳銭の発行は、平安
時代の末から長らく途絶しましたが
、寛永十三年(一六三六)六月、江戸
幕府は芝網縄手と浅草橋場、近江坂
本に銭座を設け、寛永通宝(かんえいつうほう)を発行す
るようになりました。そして以後、
幕末にいたるまで各種の銅銭が流通
したのです。江戸時代後期の有名な
地誌、『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふうどきこう)』によれ
ば、当地にあった銭座はとくに「新
銭座」の名で呼ばれ、その敷地は百
二十間四方(約四万七千㎡)に及んだ
そうです。稼働期間は不明ですが、
古今泉貨鑑(ここんせんかかがみ)』によれば、元文元年
(一七三六)十月二十日に裏面に「小
」の一字を入れた寛永通宝が鋳造さ
れたようです。(右図)。運営は、幕
府の御用商人が請け負いました。
幕府の財政経済資料をまとめた『
吹塵録(すいじんろく)』(勝海舟編)には、野州屋(やしゅうや)
南部屋(なんぶや)という二つの屋号が確認
できます。なお、墨田区内では、
当地の他押上や本所馬場、本所横
川にも銭座があったとされ、とく
に本所馬場では天保通宝(てんぽうつうほう)【天保銭】
を鋳造していたと伝わっています。
  平成二十五年五月
       墨田区教育委員会
 




  


種田の足袋  磯 貝 商 店
タイムスリップ、お店の中は江戸
情緒たっぷり!
大正後期創業、鳶職の方々の地下
足袋を作っていたそうです。
住 所 / 墨田区業平1-1012  
定 休 日 / 正月三が日
電 話 / 03-3622-2665  
営業時間/ 平日/9:00~19:00
      日・祭/9:00~18:00




















































   


 西 尾 隠 岐 守 屋 敷
西尾隠岐守屋敷(墨田区業平1-13-7)
遠江国横須賀藩3万5千石の西尾家下屋
敷がありました。周辺は穏やかな田園
風景が広がる人気の行楽地でした。
鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿への
経路としてたびたび登場します。
住 所 / 墨田区業平1-13-7












 




鬼 平 情 景
西 尾 隠 岐 守 屋 敷

遠江国横須賀藩三万五千石で、城中
で将軍に諸事を取り次ぎ、礼式を管
理した奏者番の職にあった西尾隠岐
守の抱屋敷です。敷地はおよそ一万
三千坪あり、津軽家上屋敷がおよそ
八千坪といいますから、その一・六
倍はあったことになります。当時、
周辺は押上村、小梅村と称され長閑
な田園地帯が広がり、その中に寺社
仏閣が点在していました。内河川が
発達していたことから四季折々の
変化を舟で楽しむ江戸市民の人気の
行楽先でした。しかし、夜ともなる
と、明かりもめったに見えない実に
寂しい土地となり、大名の下屋敷は
博奕場に変わり、盗賊の盗人宿も加
わって、脛に疵を持つ者が身を隠
す恰好の場所になります。鬼平犯科
帳では、賭場や盗人宿への経路とし
てたびたび登場します。




    


 春  慶  寺
春慶寺は元和元(一六一五)年、真如院理
上人によって浅草森田町に創建され、
寛文七(一六六七)年に本所押上村に移転
してきました。鬼平犯科帳では平蔵の
剣友、岸井左馬之助の寄宿先として多
くの作品に登場します。
所在地 / 墨田区業平2-14-9




春 慶 寺
元和元(一六一五)年、真如院理上人に
よって浅草森田町に創建され、寛文七
(一六六七)年に本所押上村に移転して
きました。江戸時代から押上の普賢様
と親しまれ、多くの参拝客で賑わって
います。鬼平犯科帳では平蔵の剣友、
岸井左馬之助の寄宿先として多くの作
品に登場します。なかでも「明神の
次郎吉」は春慶寺が主な舞台になっ
ていて、寺域や押上周辺の当時の様
子が描かれています。左馬之助が
盗人の次郎吉を荷車に乗せ、蛍が飛
んでいる横川沿いの道を五鉄に向か
い、もてなす下りは実に微笑ましい
情景です。その左馬之助を何度も演
じた俳優・江守徹の揮毫による石碑
が平成十五年に建てられています。
墨田区
 















































   

春 慶 寺
元和元(一六一五)年、真如院理上人
によって浅草森田町に創建され、寛
文七(一六六七)年に本所押上村に移
転してきました。江戸時代から押上
の普賢様と親しまれ、多くの参拝客
で賑わっています。鬼平犯科帳では
平蔵の剣友、岸井左馬之助の寄宿先
として多くの作品に登場します。な
かでも「明神の次郎吉」は春慶寺が
主な舞台になっていて、寺域や押上
周辺の当時の様子が描かれていま
す。左馬之助が盗人の次郎吉を荷車
に乗せ、蛍が飛んでいる横川沿いの
道を五鉄に向かい、もてなす下りは
実に微笑ましい情景です。その左馬
之助を何度も演じた俳優・江守徹の
揮毫による石碑が平成十五年に建て
られています。
        墨田区




  


二階建てバスと水陸両用車
スカイホップバスは乗り降り自由です。
住 所:墨田区業平1-17-6
 電 話:03-3215-0008
定 休 日:スカイバス/原則ナシ
スカイダク:土日祝日のみ
営業時間:9:30~18:00












































               





つぶやきいってみよう
(お店・工場関係)




ささやカフェ

Voyage Side (ボヤージュサイド)




みりん堂  業平キムラヤ

海 乃  (有) 春日屋製菓

ラブタイムカフェ ×TOKYO MIYAKO

味 吟   ベルーガ 


工房アトリエダイジロー

与兵衛鮨  壺焼き芋御芋


   





 


さ さ や カ フ ェ
すみだパークギャラリー
大横川親水公園に面し、広々とした空
間で全てオーガニックメニューです。
住 所 / 墨田区横川1-1-10
  電 話 / 03-3623-6341






























































  


Voyage Side (ボヤージュサイド)
焼きたてのパンを毎日提供。
北海道産小麦「春よ恋」とカナダ産小
麦を中心に使用。菓子パン以外はマー
ガリン、イーストフード、卵は不使用
御芋さんを販売して下さっています。
  住 所 / 墨田区吾妻橋3-1-7-101
電 話 / 03-6240-4077
営業時間 / AM10:00~PM19:00
休み:不定休




































大横川(徒歩5分)の緑陰で御芋さんを
頂きました。炎天下でのアイスはどん
どん溶ける為避けていましたが、御芋
さんは食べ終わるまで冷たくて美味し
くて癒しの一時をくれます!







     




  


海  乃
古今を紡ぐ  引き算の美 
新旧のバランス 作家物と自然物の調和
料理と共に空間を楽しむことができる
ようです!
営業日、営業時間は毎月のカレンダー
投稿を確認
住 所 / 墨田区業平2丁目18-7
           T-home彩 東






















  


壺焼き芋 御 芋
6/6から9~10月の新芋が手に入る時期
まで店舗は休業になります。
住 所 / 墨田区業平1-10-5
  電 話 / 03-6693-4117
営業時間 / 11:00~ 
































  


腕っこきのせんべんいや
【み り ん 堂】
大正12年(関東大震災)本所区
仲ノ郷業平橋(現在の場所)で創業
しました。山形の庄内米を主とし
た、国内産のみを原料に使用して
います。お醤油のタレは、創業以
来代々継ぎ足してきた家伝の
ものです。
住 所 / 墨田区業平1-13-7
 電 話 / 03-3621-2151
定休日 / 水曜日
営業時間 / 9:30~18時


























































    


与 兵 衛 鮨(よへえずし)
住 所 / 墨田区業平1-15-2
 電 話 / 03-3623-6692
営業時間 / 11:30~14:00  
      17:00~22:00 
定休日 / 月曜日



































  


手づくりパン
業 平 キ ム ラ ヤ
シベリアが一味ちがいます!栗入
りと栗なしがあります!
 住 所 / 業墨田区平1-10-4 
   電 話 / 03-3624-6441
































  


ラブタイムカフェ×TOKYO MIYAKO
有限会社ミヤココーポレーション
コーヒーとワインのお店
 住 所 / 墨田区業平3-8-1 1F 
電 話 / 03-3625-8640






























































  


工房 アトリエダイジロー
ケーキ&パン
@sevenyearscoffee
住 所 / 墨田区業平3-12-3

芸術・技術
📍 L’atelier de peinture Umino.
東京都台東区東上野 4-13-9 3F 307
「(株)アトリエ umino」
📍東京都台東区浅草5-1-2
 ☎︎ 03-6240-6038
アトリエ ダイジロー/ケーキ&パン
月火休 12-19時 DM🆖
 

































   


(有)春 日 屋 製 菓
人形焼きの製造
小売もして下さいます。12個入り
が2つ入った箱で1000円でした。
甘味が控えめで美味しかったです。
          住 所 / 墨田区業平2丁目8-4
電 話 / 03-3622-9502






















   


味   吟
一味違うお稲荷さん!
住 所 / 墨田区業平2-14-6
 電 話 / 03-3623-3950
定 休 日 / 不定休
 営業時間 / 8:00~18:00





















  


ベ ル ー ガ(Beluga)
ロシア料理で有名です!
住 所 / 墨田区業平1-7-20
 電 話 / 050-5282-5785
定 休 日 / 水曜日/第1火曜



















              





墨田区内循環バス時刻表
(すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん)