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![]() ![]() 川越城と中ノ門堀 川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉 持朝の家臣である太田道真・道灌父子 によって築城されました。当時、持朝 は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を 巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城 はこれに備えたものです。天文6(15 37)、小田原を本拠とする後北条氏は 川越城を攻め落とし、同15年の河越 夜戦によって北武蔵への支配を盤石 なものとします。しかし、天正18年 (1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際して は前田利家に攻められて落城します。 江戸時代になると、川越城は江戸の北 の守りとして重視され、新藩・譜代の 大名が藩主に任じられました。寛永1 6年(1639)に藩主となった松平信綱は 城の大規模な改修を行い、川越城は 近世城郭としての体裁を整えるにい たりました。中ノ門堀はこの松平信 綱による城の大改修の折に造られた ものと考えられます。また天下が治 まって間もないこの時代、戦いを想 定して作られたのが中ノ門堀だった のです。現在地のあたりには、名前 の由来となった中ノ門堀が建てられ ていました。多加谷家所蔵の絵図に よれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、 屋根は入母屋、本瓦葺1階部分は梁行 15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9,183m)ほどの規模でした。棟筋を 東西方向に向け、両側に土塁が取り 付き、土塁の上には狭間を備えた土 塁が巡っていました。 ※ 本整備工事は、国土交通省まちづ くり交付金・埼玉県観光資源力アップ 事業の補助を受けて実施しました。 |
![]() 中ノ門堀のしくみ 中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門( 市役所方面)から城内に攻め込んだ場 合を想定して造られています。西大 手門から本丸(博物館方面)をめざし て侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の 堀に阻まれて直進できません。進撃の 歩みがゆるんだところに、城兵が弓 矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみ でした。また、発掘調査では城の内 側と外側で堀の法面勾配が異なるこ とがわかりました。中ノ門堀の当初 の規模は深さ7m、幅18m、東側の法 面勾配は60 °西側は35°でした。つ まり、城の内側では堀が壁のように 切り立って、敵の行く手を阻んでい たのです。明治時代以降、川越城の 多くの施設・建物が取り壊される中 、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の 堀跡となりました。川越城の名残を とどめるこの堀跡を保存してゆこう という声が市民の間から起こり、川 越市では平成20/21年度に整備工事を 行いました。 |
![]() 旧 上 尾 街 道 所在地 川越市宮下町 この坂道は、明治時代まで上尾街道 として人々が往還し、上尾街道はここ から東に水田地帯を貫いて入間川、荒 川の流れを渡り、上尾宿(現在の上尾 市)に至る中山道の脇往還としても大 切な役割を果たしていた。特に、川越 と江戸を結ぶ「川越夜舟」で名高い新 河岸川の舟運が発展するまでは、荒川 が物資流通の大動脈として盛んに利用 されたので、老袋河岸や上尾側の平方 河岸も物資の集散場として栄えた。こ のため、河岸に通じるこの街道は、人 馬の往来がしきりであった。昔は、こ の坂の途中には冷たい水の湧き出る泉 があって、街道を行く人々の疲れをい やしたという。 昭和五十八年三月 川越市」 |
![]() どろぼうばしの由来 所在地 川越市小仙波町一丁目 昔、この橋は、一本の丸木橋であっ たといわれ、これは、その頃の話であ る。ここ喜多院と東照宮の境内地は御 神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり 、川越藩の町奉行ではとらえることが できないことを知っていた一人の盗賊 が、町奉行の捕り方に追われ、この橋 から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊 は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され 悪いことがふりかかる恐しさを知っ た。盗賊は、厄除元三大師に心から 罪を許してもらえるよう祈り、ようや く真人間に立ち直ることができた。 そこで寺では幕府の寺社奉行にその処 置を願い出たところ、無罪放免の許し が出た。その後、町方の商家に奉公先 を世話されると、全く悪事を働くこと なくまじめに一生を過ごしたという。 この話は大師の無限の慈悲を物語る話 として伝わっており、それ以来、この 橋を「どろうぼうばし 」というように なったということである。 昭和五十八年三月 埼玉 県 |
![]() 薬 師 堂 仙波の里、星野山無量寿寺仏地院中院 には昔時三堂の御堂が共存していた。 本堂・釈迦堂・薬師堂がそれである。 三堂にある本尊が三体揃うことで過去 ・現在・未来を担うと考えられている。それは即ち未来永劫に亘って輝く法の 灯を記念してのことである。昭和の中 期に釈迦堂・薬師堂の両堂とも火災に よって焼失したが、釈迦堂は昭和58年 に古の天台様式に則って再築された。 ここに建立されし薬師堂は現代的な様 式にし、薬師如来をはじめ十三仏を荘 厳に祀り、参拝する人誰しもが心から 安らげる空間と清新さに重きを置い た。以上の歴史的背景と意義を深く 思念し、永く後世に伝うべくここに 由来を附して記念碑を建立す。 平成24年 第68世 住職 仁平 雄俊 |
![]() 市指定・史跡 中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚じかく大師によっ て創立された。元来せやさんむりゅじゅじのなかに北院、中院・南院の三院が あり、それぞれ仏蔵院、仏地院、 多聞院と称していたものである。当初 の中院は、現在の東照宮の地にあった が、寛永10年(1633)東照宮建造の折 りに現在地に移されたものである。喜 多院に天海てんかい僧正が来住する以 前は、むしろ中院の方が勢力をもって いたことは、正安3年(1301) たるべき口宣の写しや、慶長以前の多 数の古文書の所蔵によって知られる。 秋元侯の家老太陽寺一族の墓、島崎藤 村の義母加藤みきの墓などがある。 平成4年3月 川越市教育委員会 |
![]() ![]() 永島家住宅(武家屋敷) (市指定・史跡) 永島家住宅は、旧南久保町通り東より の、川越城南大手門に近い位置にあり ます。伝聞によれば、旧川越藩御典医 ごてんいの屋敷跡であると言います。 松平大和守家七代が川越藩主をつとめ た明和4年(1767)〜慶応2年(1866)当 時の城下絵図によると、この場所に は250石から300石の藩士が居住しまし た。当家屋の小屋組は叉首さず構造 で、棟の高さは三段となっており、痕 跡などから、現在の形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されま す。当初形態を復元すると、玄関及び 台所の位置は不明ですが、現在の玄関 から床の間付きの座敷に至る諸室と東 側に張り出す内向き諸室に分かれ、公 私空間を区分した武家住宅の特質を残 す遺構と考えられます。また、松平大 和守家記録による武家住宅の建築規則 (明和5年6月2日条)の範囲内であり 、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか )と比較してもほぼ相違なく、武家住 宅であることにまちがいありません。 また、増改築の手が加えられているも のの、当初形態に復元可能な建物であ り、敷地内は後年植栽が加えられてい ますが、屋敷回りなど当時の状況をよ く保存しています。現在埼玉県下三城 下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の 遺構はほとんど残されていません、ま た、関東圏内でも残存事例はわずかで 、学術的にも貴重な遺構と言えます。 平成18年3月27日指定 川越市教育委員会 |
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![]() 江東区登録史跡 梅屋敷跡 〜江戸第一の名木 臥龍梅〜 亀戸三〜四十・五十〜五十三 亀戸の梅屋敷は、江戸時代から続く梅 の名所で、花が咲く頃には多くの人々 でにぎわった近郊の行楽地でした。そ の様子は『江戸名所図会』などで紹介 され、またたくさんの浮世絵にも描か れました。とりわけ、歌川広重の『名 所江戸百景 亀戸梅屋敷』は傑作の一 つで、ファン・ゴッホが描写したこと でも有名です。もとは、本所石原(墨田 区)あたりで酒造業を営んでいた伊屋彦 右衛門の別荘でした。その後、庭内の 梅が数百株にもなり、なかでも『臥龍 梅』と名付けられた一株は、まるで龍 が臥しているかのように枝が垂れて地 中に入り、また根を生じるという奇木 で、『江戸第一の名木』(『東都歳時 記』)と賞され、水戸光圀が命名した とも伝えられています。 享保九年(一七二四)二月、八代将軍徳 川吉宗が鷹狩の際に初めて梅屋敷を訪 れて臥龍梅を鑑賞しています。以降、 梅屋敷は将軍の小休所となり、御用と して毎年梅の実一五〇〇個を江戸城へ 納めるようになりました。明治四三年 (一九一〇)の大洪水の被害を受けて旧 観が損なわれたものの、大正の末頃ま では近隣に清らかな梅の香りをただよ わせていました。 江東区教育委員会 |
![]() ![]() 永代2-37 渋沢栄一は、明治から大正にかけて の実業界の指導者です。 に生まれました。二五歳で一橋家 に仕え、のち幕臣となり渡欧しまし た。帰国後、明治政府のもとで大蔵 省に出仕しましたが、明治六年 ( 一 八七三 ) に実業界に転じ、以後、金 融・産業・運輸などの分野で近代産 業の確立に力をそそぎました。晩年 は社会公共事業に貢献し、昭和六年 ( 一九三一 ) 九二歳で没しました。 栄一は、明治九年 ( 一八七六 ) に深 川福住町 (永代二) の屋敷を購入し、 修繕して本邸としました。同二一年 ( 一八八八 ) には、兜町(かぶとちょ う) ( 中央区 ) に本邸を移したため、 深川邸は別館として利用されました。 栄一と本区との関係は深く、明治二 二年 ( 一八八九 ) から同三七年 ( 一九 〇四 ) まで深川区会議員および区会議 長を勤め、深川区の発展のために尽力 しました。また、早くから倉庫業の重 要性に着目し、明治三十年 ( 一八九 七 )、当地に渋沢倉庫部を創業しま した。大正五年 ( 一九一六 )、実業 界を引退するまでに五百余の会社設 立関与したといわれていますが、本 区に関係するものでは、浅野セメン ト株式会社・東京人造肥料会社・汽 車製造会社・旭焼陶器組合などがあ げられます。 平成二一年三月 江東区教育委員会 |
![]() ![]() 澁澤倉庫発祥の地 「わが国の商工業を正しく育成する ためには、銀行・運送・保険などと共 に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」 日本資本主義の生みの親である、澁澤 榮一は、右の信念のもと、明治三十年 三月、私邸に澁澤倉庫部を創業した。 この地は、澁澤倉庫発祥の地である。 澁澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷 市にあり、農業・養蚕の他に藍玉( 染料)の製造、販売も家業としてい た。この藍玉の商いをするときに使 用した記章が?(ちぎり・りうこ)で あった。明治四十二年七月、澁澤倉 庫部は澁澤倉庫株式会社として組織 を改めたが、この?の記章は、現在 も「澁澤倉庫株式会社」の社章とし て受け継がれている。澁澤シチィプ レイス永代建築を記念し本碑を建 立する。 平成十六年四月吉日 澁澤倉庫株式会社 |
![]() ![]() 江東区登録史跡 永代1〜14付近 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を 開いた があった場所です。象山は松代藩士で 、幕末の兵学者・思想家として著名で す。 城下で生まれ、名は は と称したともいわれています。 四二) 、藩主 より海外事情の調査を命じられま した。おりしも、イギリス・ 国間で勃発したアヘン戦争 (一八四〇 〜四二) に衝撃を受け、おもに海防 問題に取組み、九月には して西洋砲術を学びました。 永代一) の下屋敷で諸藩の藩士ら に西洋砲術を教え、このころ、 した。同年十二月、いったん松代 へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ 出て、 に砲術塾を開きました。門下には、 いました。 八五四) 、ペリー来航に際し、吉田 松陰が起こした密航未遂事件に連座 して松代に幽閉されました。 幕府に招かれて京都に上りましたが、 七月十一日、 歳の生涯をとじました。 平成二一年三月 江東区教育委員会 |
![]() 扇 橋 江東区は、東側が地盤が低く西側が高 い地形になっています。そこで昭和46 年策定の江東内部河川整備計画では、 東側を常に水位を一定に保つ水位低下 区域としてまた西側の感潮部を耐震区 域として整備をすることになりました 。この閘門は、両区域の接点に当たる 小名木川の中間に位置し、水位差を調 整して船舶の航行を可能にするための 施設です。30億円の事業費と5年3カ月 の歳月を費やして昭和52年に築造され たものです。この方式はパナマ運河と 同じです。 |
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![]() Introduction: ごあいさつ 「Flux Show / 生々流転」開催に あたって この度はコンテンポラリーアート グループ「フラックスメンバー」 主催、「フラックス展/生々流転」 にお越しいただき誠にありがとう ございます。 歴史あるギャラリー千住宿プチテ ラスにて、展覧会開催が実現できた ことを、非常に喜ばしく思っており ます。展示されているのは、今創り 出されていく作品の数々です。一世 紀以上も前の博物館に所蔵されてい る評価済みのものではなく、貴方と 同時代に、此処で、貴方が生きる社 会の中で、まさしく今、生まれてき た作品達です。それらは狭い作家の アトリエから解き放たれ、貴方の目 に触れたいと、貴方との出会いを望 んでいます。 そんな作品群を紹介していこうとの コンセプトのもと開かれた展覧会で す。今回のテーマは「フラックス/ 生々流転」すべてのものは流れてい く、始まりと終わり、出会いと別 れ、生まれる時があれば、死ぬ時が ある。季節の様に移り変わり繰り返 す。何ものも絶えず変転してやまな い。だが同じ時は二つとして訪れな いのである。 All things are in a state of flux. (万物は流転する) ご来場の方々に楽しんでいただき、 皆様の記憶に少しでも残る作品があ れば嬉しく思います。この展覧会の 開催にあたり、ご支援ご協力賜りま した関係各位、そして本展覧会を実 現するために、多大なるご尽力をい ただきましたガラス工芸家野口均先 生に厚く御礼申し上げます。また、 何よりも本展覧会に足をお運びいた だき、私達の作品を見てくださった 皆様に心から感謝を捧げます。 コンテンポラリーアートグループ 「フラックス」 五十嵐靖喜、石黒英子、岩田信一、 太田博健、大谷浩平、おかえさつき |
石 黒 英 子![]() FLUX SHOW 「生々流転」フラックス展 本日はご来場いただき誠にありがとう ございます。 「誰が何と言おうと構わない。たとえ 無言であっても(多くの場合そうである のだが)。私は私の描くものを描く」 段々と、こんな姿勢になってきました 。今回展示させていただいた作品の コメントです。 「美しき人」油彩 人物は亡き姉です。最も美しき人で す。蓮の池は開花の時期の上野公園 不忍池を思い出して描きました。 「とっても綺麗なところで恍惚の表情 を浮かべてもらうんだ」との気持ちで 、実際は泣きながら描きました。 「荒川土手」油彩 荒川下流が私の住む地域です。すさん で汚い河川敷で、雨風に晒され、どれ だけ虐げられようと、力強く光へと手 を伸ばす。その乾き切った葦の群生の 生命力に我々を見た気がします。 「パッセンジャー」写真 パッセンジャー。さすらい、旅人、異 邦人、乗客、通り過ぎるだけの人、足 手まとい、孤独。なんと訳すか?この 作品を創っている時はイギーボップの パッセンジャーを聴いていました。 「フラックス」印画紙版画 フラックス、流動。本展覧会のタイト ル作品です。「アナ、カミールと私 部屋&空気」エッチング、アクアティ ント私にはこう見えました。あなたに はどう見えますか?私の作品が皆様の お目に触れる機会が持てたことを、大 変嬉しく思っています。また、この展 覧会の開催に向けて一緒に頑張ってき たグループの仲間達、協力、応援して くれた皆、そして、展覧会を見に来て くださったすべての方々に心より感謝 します。最後に「すべての芸術には、 詩がなくてはならない」 2024年3月 石黒 英子 |
![]() 骨接ほねつぎといえば名倉、名倉と えば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉 医院は関東一円に有名である。下妻道 に面し、日光道中や水戸街道分岐点を 間近にして便がよかったため、駕籠や 車で運ばれてくる患者がひしめいてい たという。門前の広場は、これらの駕 籠や大八車などの溜り場であった。 名倉家は、秩父の畠山氏の末裔で、 に千住へ移り、 を開業したと伝わる。 三代尚壽が 家御成のために創建した母屋や、長屋門が 現存し、昭和五十七年十二月に足立 区登録記念物(史跡)となった。名倉 家当主は、業祖直賢以来代々「素朴」 を号し、俳諧などの文芸を嗜み様々 な人々と交流した。特に四代彌一やい ちの交流は幅広く、松方正義、橋本雅 邦、菱田春草、横山大観といった当時 を代表する人々から還暦を祝う書や画 の色紙を贈られている。彌一と子の謙 蔵は千住に住んでいた文豪・森鴎外や 美術家・岡倉天心、千住の ・ を伝えた。千住名倉医院は、たたずま いと文化と美術を今に伝える史跡で ある。 令和三年三月 東京都足立区教育委員会 |
![]() 横山家住宅(足立区登伝録有形民俗文化 財)は、宿場町の名残なごりとして、 伝馬てんま屋敷の面影を今に伝えて いる。伝馬は、人や物資の輸送のため に、各宿場に馬を負担させた江戸幕府 の制度で、伝馬を負担した者には伝馬 屋敷が与えられ、年貢なども免除され た。横山家は、江戸時代から続く富裕 な商家で、伝馬を負担していた。屋号 は「松屋」で、今でいう再生紙を取り 扱う は戸口が街道から一段下がっており、 上にいる客を下から迎える形となる。 これはお客様をお迎えする心がけの現 れという。また、横山家の敷地は、間 口が十三軒(約二十三・五メートル)、 奥行きが五十六軒(約一0二メートル) で の建造であるが、昭和十一年(一九三 六)に改修が行われている。 間口が九間(約十六メートル)、奥行き が十五間(約二十七メートル)あり、大 きくてどっしりとした てである。広い土間、商家の書院造り と言われる などに、一種独特の風格を感じる。 上野で新政府に敗れ、敗走してきた 語る住居である。 令和元年十二月 東京都足立区教育委員会 |
![]() 吉田家は、江戸中期より代々絵馬をは じめ いる。手書きで描く絵馬は都内にほと んど見掛けなくなって、稀少な存在と なった。当代の絵馬師は八代目で、先 代からの独特の絵柄とその手法を踏襲 した伝統を守り続けており、昭和五十 八年(一九八三)十二月、千住絵馬づく りが足立区登録無形民俗文化財とな った。絵馬は、縁取りした 柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構 図が決っており、三十数種ある。これ らの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料と して足立区登録有形民俗文化財となっ ている。地口は江戸時代に流行したダ ジャレの1種である。ことわざや芝居 の台詞、格言等を似た音に置き換をえ たものを地口といい、滑稽な画を描い て角型の行灯にしたものが地口行灯で ある。地口行灯は、元来、稲荷神社の は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。 令和二年三月 東京都足立区教育委員会 |
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![]() 平 成 中 村 座 発祥の地の碑 「江戸時代の芝居小屋を現代に復活さ せ、多くの方々に歌舞伎を楽しんでも らいたい」十八世中村勘三郎丈(当時 勘九郎)の抱いてきた夢が「平成中村 座」として二千年十一月、ここ山谷 堀に実現しました。第一回公演は、 『隅田川続佛 法界坊』でした。 |
![]() ![]() 花 の 碑 台東区浅草7丁目1番 春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が・・・ 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」 。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、 昭和31年(1956)11月3日、その教え 子たちで結成された「武島羽衣先生 歌碑建設会」によって建立された。 武島羽衣は、明治5年、日本橋の木綿 問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文 家として知られる人物である。明治 33年、東京音楽学校(現、東京芸術 大学)教授である武島羽衣と、同校 の助教授、滝廉太郎とともに「花」 を完成した。羽衣28歳、滝廉太郎21 歳の時であった。滝廉太郎は、作曲 者として有名な人物であるが、よく 知られているものに「荒城の月」「 鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成 の3年後、明治36年(1903)6月29日 、24歳の生涯を閉じた。武島羽衣は その後、明治43年から昭和36年退職 するまでの長い期間、日本女子大学 で教鞭をふるい、昭和42年(1967)2 月3日、94歳で没した。手漕ぎ舟の 行き交う、往時ののどかな隅田川。 その情景は、歌曲「花」により、今 なお多くの人々に親しまれ、歌いつ がれている。 平成11年3月 台東区教育委員会 MONUMENT OF "HANA" The monument of "HANA" was built in honor of Takeshima Hagoromo,a songwriter and professor, by his former students in 1956. He wrot a famous Japanese song titled "Hana", which lyrically expressed the beauty of the Sumida RIver; it starts "Sumida flowing through the warmness of spring time while many people on boats moving upstream and downstream are enjoying the spring and nature." Composer of this song was Taki Rentaro, an assistant professor of Tokyo Music School (presently Tokyo National University of Fine Arts and Music) , and Hagoromo also became the professor in the same school (Tokyo Music School) in 1897. Both of them worked together and completed the song "HANA". Hagoromo was born in the family of a cotton cloth wholesaler in Nihonbashi in1872. He became a scholar on Japanese literature and was also known as a writer with an expressive lyrical style. The monument has his own writing copied and sculptured ont the stone. |
![]() 待 乳 山 聖 天 台東区浅草七丁目四番一号 本龍院 待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院 で正しくは、待乳山本龍院という。そ の創建は縁起によれば、推古天皇九年 (六〇一)夏、旱魃のため人々が苦しみ 喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊 歓喜天に化身してこの地に姿を現し、 人々を救ったため、「聖天さま」とし て祀ったといわれる。ここは隅田川に 臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い 小丘で、江戸時代には東都髓一の眺望 の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌 などの題材ともなっている。 とくに江戸初期の歌人戸田茂睡の作、 哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉 の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭 和三十年再建)のほか石造出世観音立 像、トーキー渡米の碑、浪曲双輪塔な どが現存する。また、境内各所にほど こされた大根・巾着の意匠は当時の御 利益を示すもので、大根は健康で、家 和合、巾着は商売繁盛を表わすとい う。一月七日大般若講大根祭には多く の信者で賑う。なお、震災・戦災によ り、本堂などの建築物は焼失、現在の 本堂は昭和三十六年に再建されたもの である。 平成十一年三月 台東区教育委員会 |
![]() 池波正太郎生誕の地 作家・池波正太郎(1923〜1990)は、大 正12年旧東京市浅草区聖天町61番地に 生まれました。この年の9月に関東大 震災が起こり、生家は焼失してしまい ましたが、その後も少年期・青年期を 台東区で暮らしました。昭和35(196) 、「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平 犯科帳 「剣客商売」「仕掛け人・藤 枝梅安」などの人気シリーズをはじめ 、時代小説の傑作をつぎつぎと生み出 し、このあたりもたびたび舞台として 描いています。「大川と待乳山聖天」 というエッセイでは、「生家は跡形も ないが、大川 (隅田川) の水と待乳山 聖天宮は私の心のふるさとのようなも のだ」と記しています。生家は、待乳 山聖天公園の南側 (現台東区浅草 7丁目3番付近)にありました。 平成19年11月 台東区 |
旧 町 名 由 来 案 内![]() ![]() ![]() 旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧 浅草聖天町あさくさしょうでんち ょう、浅草聖天横町本町の起立年代は 不祥である。寛文図に「聖天丁」と記 載があるので、かなり古く開かれた町 である。町名は町内に待乳山聖天宮が あるのにちなんだ。聖天宮の正式な名 称は本龍院といい、聖天宮は聖天を安 置していることによる。金龍山あるい は待乳山と号し、浅草寺の子院である 。待乳山は隅田川西側の小丘で、江戸 時代から文人墨客に愛された景勝の地 であった。聖天宮はこの待乳山の上に ある。「浅草聖天町」昭和23年(1948) に浅草山川町、同金龍山下瓦町、同山 ノ宿町の北隅を合して誕生した。「浅 草聖天横町」浅草聖天町の西側続地で あり、町の地形から横丁とつけられた 。起立年代はわからないが浅草聖天町 よりやや遅れてできたのであろう明治 5年(1872) ,浅草寺子院の遍照院を合併 して町域を広げた。 |
![]() 紫の一もとをもみしてゆかり深き江戸の 名勝をたゝへ、梨本集を著して近世歌学 の魁となしゝ元禄の歌人戸田茂睡翁は、 浅草に住みこの待乳山の風光をめでゝ御 堂の傍に歌碑を建てたりき。その石後に そこなはれしも寛政九年姪孫櫛分規貞石 室をつくりて三面を覆ひたりしが、昭和 二十年三月戦災にあひて殆ど湮滅に及び ぬ。ここより本龍院住職平田真徳師光住 乃息横田真精師等発起して再興をはかり 、今年翁の二百五十年忌に刻石再び新た に成れり。かくれづの翁かくり世にして 喜びほゝえみてあらむ とこしへ尓かれじくちせじ霊ごもる まつちの山乃やまと言の葉 昭和30年4月14日 日本藝術院会員 佐佐木信綱撰 芳翠英書 |
![]() ![]() ![]() 左側の石碑は戸田茂睡の歌碑 真中・・・日本藝術院会員 佐々木信綱 の撰文による歌碑再建の碑 右側の木札・・・茂睡は元禄の頃活躍 した歌人で、歌道の革新を唱えた、江 戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭 い昭和三十年拓本をもとに再建された と書かれてある。 |
![]() 糸 塚 十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋 勘五郎)建立この糸塚は元字元年十一世 杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の 遺志に依り供養の為建立せるものとし て十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄 三弦の名人と云われた人である 昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記 |
![]() ![]() ![]() ![]() ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路 であったが、経済成長に伴う水質汚濁と 悪臭が問題となり、東京都により昭和51 年 (1976) 頃から暗渠化された。区がそ の上部を公園として整備し、昭和52年以 降に山谷堀公園として開園した、幅約9 メートル、長さ約740メートルの後援で ある。平成29年 (2017) から令和2年 (2020) 、老朽化により全面改修工事を 実施した。隅田公園から桜の並木が続 き、春は桜越しに東京スカイツリーを 眺めることのできるビューポイントと なっている.埋め立てる前の山谷堀に は、下流から、今戸橋・聖天橋・吉野 橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・ 地方新橋・地方橋・日本提橋の9つの 橋が架けられていたが、埋め立てに伴 い、全て取り除かれている。公園の両 側にある護岸や橋の親柱が、水であっ 面影を残している。 (※欄の読みについては、橋名板の とおりとしている) A canal calld Sanyabori used to flow here, but urbanization caused it to become polluted and smellyand the metropolitan government covered it over in 1976. From the following year, Taito City created Sanyabori Park above the waterway, a ribbon of parkland 9 meters wide and about 740 meters long. The park was undergoing through a renewal from 2017 to 2020.Lined by cherry trees stretching to Sumida Park, it is renowned for springtime views of cherry blossoms with Tokyo sky tree in the background. park was undergoing through a renewal from 2017 to 2020, Lined by cherry trees stretching to Sumida Park, it is renowned for springtime views of cherry blossoms with Tokyo Sky Tree in the background. Nine bridgs spanned Sanyabori before it was covered. Starting at the downstream end, they were the Imado Bridge, Shoten Bridge, Yoshino bridge, Shohoji Bridge Sanyabori Bridge,Kamiarai Bridge, Jikata-shinbashi Bridge, Jikata Bridge, and Nihontsutsumi Bridge. The bridge revetments and pillarsremain providing lasting images the former waterway. |
![]() 今戸橋(昭和49年撮影) ![]() 井上安治 今戸橋雪 ![]() 歌川広重 江戸名所図絵より 今 戸 橋 跡 Imado Bashi Bridge Ruins 今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃 に架けられた山谷堀最下流の橋です。 最初に整備された時期は不明ですが、 江戸時代の資料に橋を架け渡すという 記載が残っています。この橋の下を吉 原通いの船が通った頃には、その船を 親不孝舟などといったといい、「今戸 橋上より下を人通る」というほどのに ぎわいだったと言われています。現存 する欄干は、大正15年(1926年)に竣工 した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴 い、昭和62年(1978年)現在のような形 となりました。 |
![]() 竹(たけ)屋(や)の渡(わた)し 台東区浅草7丁目1番 隅田公園 隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷 堀口から 向島三囲(みめぐり)神社 (墨 田区向島2丁目) の前あたりを結んでい た。明治40年刊の『東京案内』には『 竹屋の渡』とあり、同年発行『東京市 浅草全図』では山谷堀入口南側から対 岸へ船路を描き『待乳(まつち)ノ渡、 竹家ノ渡トモ云』と記しており、「竹 屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡し 」とも呼ばれたようである。「竹屋」 とは、この付近に竹屋という船宿があ ったためといわれ、「待乳」とは待乳 山(まつちやま)の麓にあたることに由 来する。 「渡し」の創設年代は不明だ が、 文政年間 (1818-1830) の地図に は、山谷堀に架かる「今戸はし」のか たわらに『竹屋のわたし』の名が見え る。江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や 橋場は風光明媚な地として知られ、さ まざまな文学や絵画の題材となり、そ の中には『竹屋の渡し』を描写したも のも少なくない。昭和3年言問橋の仮 設にともない、渡し舟は廃止された。 平成14年3月 台東区教育委員会 The Ferry of Takeya The Ferry of Takeya, also called the Ferry of Matsuchi, was one of the many ferries operating on the Sumida River. It connected Sanyabori and Mukojima Mimeguri Shrine. The name Takeya is said to have been derived from the name of an inn in Sanyabori. The name “Matsuchi” came from the location of the ferry, which was below Matsuchiyama Shoden. It is unknown when the ferry service actually began, but the business continued until the Kototoi-bashi Bridge was constructed in the early Showa Era. |
![]() 山 の 宿 の 渡 し 台東区花川戸1丁目1番 隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し 」と呼ぶ渡船があった。 明治40年(190 7)発行の「東京市浅草区全図」は、 隅 田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡,枕 橋ノ渡トモ云」と記入している。位置 は吾妻橋上流約250メートル。 浅草区 花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結 んでいた。花川戸河岸西隣の町名を 、「山の宿町」といった。渡しの名 はその町名をとって命名。 別称は、 東岸船着場が枕橋橋畔にあったのに ちなむ。 枕橋は 墨田区内現存の北十 間川架橋。北十間川の隅田川合流点近 くに架設されている。渡船創設年代は 不明。枕橋上流隅田河岸は、 江戸中期 頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑 わった。桜の季節は特に人出が多く、 山の宿の渡しは それらの人を墨堤に運 んだであろう。したがって、江戸中期 以降開設とみなせるが、 天明元年(1781 )作「隅田川両岸一覧図絵」は この渡 しを描いていない。 平成4年11月 台東区教育委員会 Yamanoshuku no Watashi Ferry In the days when ferries crossed the Sumida River there was a ferry called the “Yamanoshuku no Watashi” (the word “watashi” means ferry). In a map printed in 1907 ferry routes are shown, and “Yamanoshuku no watashi”, which was also known as “Makura-bashi no Watashi” is mentioned. The ferry route was approximately 250 metres upstream of Azuma-bashi Bridge and linked the river-bank at Hanakawado with the Nakanogo Kawaramachi area. The name of the ferry is derived from the name of the district of Yamanoshuku which was tothe west of the riverbank at Hanakawado. The alternative name is connected to the fact that the arrivel point on the eastern bank of the river was at the approach to Makura-bashi Bridge.Makura-bashi Bridge stands near to the point where Kitajikken River from Sumi-da ward flows into the Sumida River. It is not clear which the ferry serving this route was started. From about the mid Edo period (around the 1890s), the bank of the Sumida River upstream of Makura- bashi Bridge was popular as a site for cherry blossom viewing. |
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