川越城本丸御殿 川越城中ノ門堀跡 太田道灌公像 川越氷川神社 川越大師・喜多院 道 灌 橋 大沢家住宅 松村屋旅館 旧 山 﨑 家 別 邸 料 亭 山 家 百 足 屋 三芳野神社 永島家住宅 養 寿 院 中 院 真 行 寺 時 の 鐘 菓子屋横丁 川越熊野神社 川越菓舗道灌 川越陣力屋 (浪漫石焼) どろぼう橋の由来 小江戸川越つぶやき街角 か の ん 小江戸川越屋 |
川越城 本丸御殿 日本で2つしか現存しない本丸御殿は嘉永元(1848)年に 時の藩主松平斉典が造営したもので、江戸時代17万石を 誇った川越城唯一の遺構。現存しているのは玄関部分と、 移築復元された家老詰所のみです.埼玉県指定文化財となっ ています。なんと100円で見学ができます。 住所 / 川越市郭町2丁目13−1 営 業 : 10:00~17:00 電 話 / 049-222-5399 |
三 芳 野 神 社 三芳野神社は、川越城の鎮守として寛永元年(1624)、 後の城主酒井忠勝によって再建されたといわれています。 童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれて いて、川越城内にあったため、一般の人の参詣はなかな か難しく、その様子が歌われていると伝えられています。 住 所 : 川越市郭町2丁目25−7 電 話: 049-224-5940 |
川越城中ノ門堀跡 川越城への適の侵入を防ぐために設けられた中の門堀は、 明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊され、旧 城内に残る唯一の堀跡となりました。構築当時の勾配を復 元し、城の雰囲気を思わせる土塀等が設置されています。 住 所 : 川越市郭町1丁目8−6 電 話: 049-224-6097 時 間 : 9:00~17:00 無 料 |
|
|
太 田 道 灌 公 像 太田道灌は、川越城、江戸城を築城した室町時代の 武将で、道灌の像が建てられている場所はかつて川越城 の大手門があったところです。中学生の観光ボランティア ガイドの説明がわかりやすくて癒されました。 住 所 : 川越市元町1丁目3番地1 電 話:049-224-8811 |
太 田 道 灌 公 像 川越は、古代から、この地方の文化の中心であった。長禄元年(西暦14 57)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に 移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。明治以降も引続き埼玉県第一の都 府として、大正11年他に魁けて市制を施行した。ここに市制50周年を迎 えるに当り市庁舎を新築し、川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を 建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。 |
川 越 氷 川 神 社 今から約千五百年前(西暦541年)、古墳時代の欽明天皇二年に 創建されたと伝えられています。室町時代の長禄元(1457)年、 太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の 守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。 東参道にそびえる高さ15mの明神型の大鳥居は、木製としては 日本最大級の規模を誇る。鳥居中央の扁額に記された社号は 勝海舟の直筆によるもの。 住 所 : 川越市宮下町2丁目11−3 電 話: 049-224-0589 時 間 : 9:00~ |
旧 所在地 川越市宮下町 この坂道は、明治時代まで上尾街道として人々が往還し、上尾街道はここから東に 水田地帯を貫いて入間川、荒川の流れを渡り、上尾宿(現在の上尾市)に至る中山道 の脇往還としても大切な役割を果たしていた。特に、川越と江戸を結ぶ「川越夜舟」 で名高い新河岸川の舟運が発展するまでは、荒川が物資流通の大動脈として盛んに利用 されたので、老袋河岸や上尾側の平方河岸も物資の集散場として栄えた。このため、 河岸に通じるこの街道は、人馬の往来がしきりであった。昔は、この坂の途中には 冷たい水の湧き出る泉があって、街道を行く人々の疲れをいやしたという。 昭和五十八年三月 川越市」 |
道 灌 橋 太田道灌に由来する橋名で、テラス状の張り出し 部分には道灌が川越の領主だった頃に詠まれた歌 の和歌が彫られている。 (七重八重花は咲けどもやまぶきの 実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき) 住 所 : 川越市志多町 |
真 行 寺 至誠山成就院眞行寺は、武田信玄の妹(娘か?) 眞行尼が当地へ落ち延び、当所で一寺を建立、武田勝頼 の子息が二世となったといわれています。 住 所 : 川越市元町1-2 電 話 : 049-222-2816 |
松 村 屋 旅 館 明治初期の廃藩置県が行われた直後1872年創業に創業、 150年くらいの歴史があります。川越藩で最後の藩主 であった 由来だそうです。戦時中は軍事会議にも使われて いました。 埼玉県川越市元町1丁目1-11 電 話 / 049-222-0107 |
大 沢 家 住 宅 寛政4年(1792)呉服太物を商っていた近江屋西村半右衛門 が建てたもので、明治26年の川越大火の時も焼け残り、 現存する関東地方最古の蔵造りでもある。川越商人に 蔵造りを建てさせるきっかけになった建物の一つである。 昭和46年6月22日に国指定重要文化財に認定されました。 お土産品を購入出来ますが、一味違う所が好きです! 所在地 : 川越市元町1-15-2. |
重要文化財・建造物 大 沢 家 住 宅 桟瓦葺、切妻造、二階建、間口六間、奥行四間半の店蔵造りである。一階は 店舗で二階前面には土格子があり、外観は全体的に簡素であって荘重な感が ある。この建造物は、川越城下町の中心部である札の辻の傍らにあって、 呉服太物の豪商近江屋半右衛門が寛政四年(1792)に店舗として建てたも のである。防火を目的とする土蔵造りの故にその後数度の大火にも類焼を まぬがれた。関東地方の町家の蔵造り、商家の古い例として、もっとも重要 な建造物である。なお、平成元年より平成四年にわたり、大規模な修理が行 なわれ、寛政四年当時の姿に復元された。 |
旧 山 﨑 家 別 邸 老舗菓子店「龜屋」の五代目山崎嘉七氏の隠居所 として、大正期における中小住宅の普及発展に先駆的 かつ実践的に取り組み、数寄屋建築にも精通した 建築家保岡勝也の設計で建てられました。 住 所 : 川越市松江町2丁目7番地8 |
料 亭 山 屋 (高級会席・懐石料理店) 幕末より明治初年まで、関東を代表する伝説的な豪商第11代横田 五郎兵衛」の邸宅の地続きで、「仕出屋」を営んでおりました。明治 元年~二年(1968年~1969年)に、山屋の「初代半兵衛」が、横田 氏の別邸を譲り受け、それが現在の料亭山屋となっております。 千坪近い敷地の中に、その全盛期、富にあかして贅を尽くした この別邸は、川越藩主松平家をはじめとして多くの賓客を招き迎 えた貴賓館の名残りをとどめています。 昼はランチ弁当、夜は会席料理が用意されています。 住 所 : 川越市幸町11-2 電 話: 049-224-0048 営業時 間 : 11:30~ 21:00 駐車場 15台 |
左側の電子柱が木目地でカバーされています! |
今から約380年前、寛永16年(1639年)に上松江町(現在の 松江町2丁目)に、田口 吉兵衛によって創業され、糸や組紐 の販売、鰹節問屋として人々に親しまれ、代々川越の町ととも に歩んできました。店蔵が明治29年12月、内蔵が明治41年 5月、外蔵が昭和3年6月に建てられ、もっとも古い 店蔵は、川越市指定文化財建造物に指定されています。 住 所 : 川越市松江町2-5-11 電 話:049-292-0075 |
川 越 大 師 喜 多 院 寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立) を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は 堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山 (皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。 家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。 住 所 : 川越市小仙波町1-20-1 電話:049-222-0859(喜多院拝観寺務所) お問い合わせ時間 9:00~16:00 |
どろぼうばしの由来 所在地 川越市小仙波町一丁目 昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。 ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩 の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の 捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕え られ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。 そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。 その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに 一生を過ごしたという。この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、 それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。 昭和五十八年三月 埼玉県 |
中 院 天台宗の寺院で、山号は星野山。寺号は無量寿寺。院号が中院。 平安時代、天長7(830)年淳和天皇の勅許で円仁(慈覚大師) が建立しました。狭山茶発祥の地といわれ、円仁が創健の際、 京より茶の実を持ってきて境内で栽培したのが起源です。 文豪 島崎藤村が義母(加藤みき)に贈った茶室(不染亭) があり、市の文化財に指定されています。 住 所 : 川越市仙波町5-15-1 |
薬 師 堂 仙波の里、星野山無量寿寺仏地院中院には昔時三堂の御堂が共存していた。 本堂・釈迦堂・薬師堂がそれである。三堂にある本尊が三体揃うことで過去・ 現在・未来を担うと考えられている。それは即ち未来永劫に亘って輝く法の灯 を記念してのことである。昭和の中期に釈迦堂・薬師堂の両堂とも火災によっ て焼失したが、釈迦堂は昭和58年に古の天台様式に則って再築された。ここに 建立されし薬師堂は現代的な様式にし、薬師如来をはじめ十三仏を荘厳に祀り、 参拝する人誰しもが心から安らげる空間と清新さに重きを置いた。以上の歴史的 背景と意義を深く思念し、永く後世に伝うべくここに由来を附して記念碑を建立す。 平成24年 第68世 住職 仁平 雄俊 |
市指定・史跡 中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830) 元来 多聞院と称していたものである。当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永 10年(1633)東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。喜多院に が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安3年(1301) 秋元侯の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。 平成4年3月 川越市教育委員会 |
永島家住宅(武家屋敷) 川越城南大手門近くの侍町であった三久保町(旧南久保町) に残る、江戸時代後期の川越藩御典医の武家屋敷で、 毎週土曜日9時~4時迄見学できます。川越まつりの10月15・ 16日(土曜・日曜)の両日とも公開されます。 住 所 : 川越市三久保町5丁目3 時 間 : 9:00~16:00 無 料 |
永島家住宅(武家屋敷) (市指定・史跡) 永島家住宅は、旧南久保町通り東よりの、川越城南大手門に近い位置にあります。 伝聞によれば、旧川越藩 松平大和守家七代が川越藩主をつとめた明和4年(1767)~慶応2年(1866) 当時の城下絵図によると、この場所には250石から300石の藩士が居住しました。 当家屋の小屋組は の形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されます。当初形態を復元 すると、玄関及び台所の位置は不明ですが、現在の玄関から床の間付きの座敷に至る 諸室と東側に張り出す内向き諸室に分かれ、公私空間を区分した武家住宅の特質を残 す遺構と考えられます。 また、松平大和守家記録による武家住宅の建築規則(明和5年6月2日条)の範囲内 であり、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか)と比較してもほぼ相違なく、武家住宅 であることにまちがいありません。 また、増改築の手が加えられているものの、当初形態に復元可能な建物であり、敷地 内は後年植栽が加えられていますが、屋敷回りなど当時の状況をよく保存しています。 現在埼玉県下三城下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の遺構はほとんど残されて いません、また、関東圏内でも残存事例はわずかで、学術的にも貴重な遺構と言えます。 平成18年3月27日指定 川越市教育委員会 |
時 の 鐘 (川越市指定文化財) 創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げ てきた小江戸川越のシンボルの時の鐘は川越城主酒井忠勝が、寛永 4年(1627)から同11年(1634)の間に多賀町(いまの幸町)の現 在の場所に建てたものが最初といわれています。現在の鐘楼は、明治 26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもので、平成8年 に、環境庁主催の残したい日本の音風景100選に選ばれました。 住 所 : 川越市幸町15−7 電 話:049-224-6097 (川越市教育委員会) |
養 寿 院 (曹洞宗・清龍山) 寛元二年(1244年)、 秩父平氏の末裔河越次郎経重公 (遠江守)が開基となり、大阿闍梨圓慶法印が開いた 古刹である。本堂にある銅鐘は、鎌倉の大仏を作った 丹治久友によるもの。銅鐘の「池の間」に刻まれた "河越"の文字は、川越の歴史上価値の高いものであり、 国の重要文化財に指定されています。 住 所 : 川越市元町2丁目11−1 電 話 : 049-222-0846 |
川 越 熊 野 神 社 「明細帳」という文献に、天正18年(1590年) 蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請し たことに始まると記されています。地元の人から 「おくまんさま」と親しまれている神社です。 石の突起の足踏み健康ロードが印象的でした。 住 所 : 川越市連雀町17-1 電 話 : 049-225-4975 営業開始: 9:00 |
菓 子 屋 横 丁 明治の初めから菓子を製造していましたが、関東大震災で 被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するよう になり、昭和初期には70軒ほどの業者が軒を連ねていた といわれています。色とりどりのガラスが散りばめられた 石畳の道に、約20数軒軒程度の菓子屋があります。 住 所 : 川越市元町2丁目11 営業開始: 10:00~ |
小 江 戸 川 越 屋 アンティーク、昭和レトロ商品の専門店 菓子屋横丁脇の門前通り(養寿院前)にあります 住 所 : 川越市幸町9-2 電 話 : 049-257-5262 時 間 :AM11:00~4:00 年中無休(雨天休業) |
川 越 菓 舗 道 灌 大正10年川越城跡に店舗を構えた老舗の菓子店で、 名前は川越城を築城した太田道灌からきています。 店頭の大きな白ウサギは発泡スチロールでできています。 玄米を使用したお饅頭は日本唯一「道灌まんじゅう」 だけだそうです。 住 所 : 川越市郭町2-11-3 電 話:049-222-1576 営業時間:9:00~17:30 定休日:月 |
銀 時 フルーツをふんだんに使ったスイーツのお店 毎日メニューが変わります。 看板から美味しい!がほとばしり出ていました。 住 所 : 川越市仲町10-8 電 話:049-298-7732 営業時間:11:00~17:00 定休日:お休みはインスタでお知らせとのこと |
おけさ柿がなんと5玉で300円! |
川越陣力屋 (浪漫石焼)
|
か の ん(鐘つきたこせん) 鐘撞通りのかき氷屋さん 大きなえびせんべいの間にたこ焼きがはさまった 鐘つきたこせんが人気です! ゴミ箱がユニーク! 住 所 : 川越市幸町15-7 電 話 : 049-225-5952 |
蔵の町&小江戸の栃 木 市 小江戸そば 好古壱番館 史跡足利学校跡 岡 田 記 念 館 あしかがフラワーパーク→ 山本有三 ふるさと記念館 下野新聞社栃木支局 高 平 寺 御菓子処菊家 栃木市おおひら歴史民俗資料館、栃木市おおひら郷土資料館 白石家戸長屋敷 |
史 跡 足 利 学 校 跡 平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる 足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は 大正10年に国の史跡に 指定されています。天文18年 (1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル により「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」 と世界に紹介されました。 住 所 / 足利市昌平町2338 電 話 / 0284-41-2655 受付時間一覧→4月~9月 : 午前9時~午後4時30分 10月~3月 : 午前9時~午後4時 |
高 平 寺 桜の花のお寺 慈覚大師円仁が9歳まで養育されたお寺だそうです。 慈覚大師の研究で博士号を授与されたライシャワー博士 は駐日大使だった昭和33年(1953年)3月誕生地を訪れ、 慈覚大師を「世界的偉人」と称えられたそうです。 住 所 / 栃木市下津原1457 電 話 / 0282-55-2505 |
中央に岩舟山が見えます。V字に切れているのは 東日本大震災の時にできた割れ目だそうです。 |
栃木市おおひら歴史民俗資料館、 栃木市おおひら郷土資料館 白石家戸長屋敷 栃木市おおひら歴史民俗資料館→旧大平町の縄文時代 から近代までの考古・歴史・民俗資料を展示しています。 郷土資料館】およそ2000坪の敷地では、江戸時代の大庄屋 の風格を残す。映画テレビの撮影場所として有名です! 住 所 / 栃木市大平町西山田898-1 電 話 / 0282-43-8686 |
NO7/10,000部刷って既に 在庫なしの人気です! |
小江戸とは江戸時代の風情を残す古い町並みが残る町及び歴史的に江戸との関わりが深い町の事 を言うそうです。江戸時代に栃木が発展した理由は、巴波川(うずまがわ)から利根川に上り 江戸まで材木を運んだ交易都市として又、日光東照宮までつづく例幣使海道の宿場町としての 役割が大きいといわれています。 駅前でレンタサイクル3時間で300円 |
岡 田 記 念 館 地元で500年以上の歴史を誇る岡田家の3棟の土蔵を公開した資料館。 古くは武士でしたが、江戸時代の慶長年間に、栃木市に移住し荒地 を開墾しました。それ以来代々の当主は嘉右衛門を名乗り、「嘉 右衛門町」の町名の由来となりました。日光例幣使街道が開通す ると、名主役、本陣を勤め、代官職を代行するようになりました。 館内には、代々の当主が使用した調度品や、貴重な文献、交流の あった文人、墨客が残した美術品などが展示されています。 住 所 / 栃木市嘉右衛町1-12 電 話 / 0282-22-0001 開 館 日/土・日・月曜日・祝日 営業時間 / 9:30~17:00 (有料) |
|
山 本 有 三 ふるさと記念館 大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、 政治家。日本芸術院会員、文化勲章受章者。 社会劇・歴史劇を 次々に発表し、大正末期より小説家に転じる。戦後貴族院勅選議員 に勅任され貴族院が廃止されるまで務めた。其の後第1回参議院 選挙に全国区から出馬して当選、参議院議員を1期務めた。 住 所 / 栃木市万町5-3 電 話 / 0282-22-8805 休館日/月曜日(祝日の場合、翌日)・ 年末年始(12月29日~1月3日) 営業時間 / 9:00~17:00 入館料 / 一般個人(高校生以上) 200円/中学生以下 無料 山車会館共通券(一般個人のみ) 550円 |
下 野 新 聞 と 栃 木 「下野新聞」の前身である「栃木新聞」は栃木町で産声をあげた。いわゆる第一次栃木新聞 である。ここからさほど遠くない栃木町万町一丁目三一七番地の万象堂から一八七八 (明治十一) 年六月一日に創刊された。タブロイド判四ページ、月八回の発行で一部一銭五厘。わずか五カ月 後の第三十七号で廃刊になる。しかし、啓発的新聞の発行をめざした田中正造らは、田中自らが 編集長に就き、七十九 (明治十二) 年八月二日、栃木町旭町一丁目一五九番地の共進社から第二次 栃木新聞を発行した。第二次栃木新聞も経営難で経営陣を刷新したものの台所は火の車こうした 中、足利町四丁目で「足利新報」を発行していた旭香社と合併する。八二 (明治十五) 年九月八日、 社名を旭香社と変え第三次栃木新聞が生まれた。八四 (明治十七) 年一月、県庁が栃木町から宇都宮町 に移転したため、宇都宮移転を決定、「下野旭新聞」を発行していた鶏鳴社と合併し社名を旭香社 とした。同年三月七日、題字を 「下野新聞」 として第一号が誕生した。 「下野新聞」は県民の支持 の下、その後順調に発展、今日に至っている。 付 記 本建物は元肥料豪商で知られた毛塚惣八が建てた蔵屋敷を修復したものである。毛塚家は、江戸中期 後半から昭和まで続いた県内きっての肥料・麻苧の豪商であり「栃木の毛惣」とまでいわれた。 表通りの 「見世蔵」は二代目惣八が一八六一 (文久元)年六月に建築したもので、 直径四〇センチを超える長さ九メートルの松の梁には 「文久元年辛酉六月吉日 毛塚二代目惣八建立 棟梁鈴木七右衛門作仕事師関口幸助」と記してある。一九九九年三月の創刊一一五周年を記念して当 見世蔵を支局とした。 下 野 新 聞 社 |
御 菓 子 処 菊 家 蔵などが残る巴波川沿いにあります。 住 所 / 栃木市湊町2-13 電 話 / 0282-23-5652 営業時間/9:00~5:00 定 休 日/水曜日 |
小江戸そば 好古壱番館 大正12年に建てられた洋館を利用した食事処です。 手打ちそばの他、とちぎ江戸料理メニュー「ごぼう餅」 、ジャガイモ入り焼きそばなどがあります。 住 所 / 栃木市万町4-2 電 話 / 0282-24-1188 営業時間 : 11:00~15:00 土日祭日 / 11:00〜15:30 定 休 日 / 火曜(祝日は営業) |
あしかがフラワーパーク 栃木県足利市堀込町(現:朝倉町)に 「早川農園」 として 1968年に開園。以来 「250畳の大藤」 として愛されておりま したが、都市開発の為 1997年に現在の足利市 に移設し、「あしかがフラワーパーク」 としてオープンしました。 アメリカのCNNにより、「世界の夢の旅行先10ヵ所」に日本から 唯一選ばれたそうです。 住所 / 足利市迫間町607 電話 / 0284-91-4939 営業時間 / 7:00~21:00 (ライトアプ期間以外は18:00まで) |
あしかがフラワーパークホームページより |
角館の武家屋敷 |
角 館 の 武 家 屋 敷 みちのくの小京都と呼ばれています。この武家屋敷群の表通り は、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けており、 文化財として保護されています。元和6年(1620)江戸時代の はじめ、芦名氏により大規模な都市計画が実施され、その後 は佐竹北家の城下町として栄えました。保存地区は旧武家町 のほぼ中央にあり上・中級武士の武家屋敷にあたるところで す。広い通り沿いに塀が連続し、シダレザクラやモミの 大木が深い木立を形成しております。 |
江東区芭蕉記念館 芭蕉庵史跡展望庭園 渋沢栄一旧居跡 亀戸天神社 清 洲 橋 佐久間象山砲術塾跡 小松橋・扇橋 亀戸梅屋敷 亀戸銭座跡 亀 戸 升 本 元祖くず餅船 橋 屋 江戸懐石・若 福 京菓子・彦 九 郎 (新 大 橋 店) 萩 寺 |
龍 眼 寺 (天台宗 慈雲山 無量院)萩寺 江戸初期に、住職が百種類もの萩を諸国から集めて 境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの 文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる 人々で賑わう様子が描かれています。 住 所 / 東京都江東区亀戸3丁目34−2 電 話 / 03-3681-2620 |
亀 戸 梅 屋 敷 跡 江戸時代、呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」があり、 広さ3600坪の庭園に300株にものぼる見事な梅の木々が生えて いました。立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や竪川 を船でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。 特に庭園のなかを数十丈(150m)にわたり枝が地中に入った り出たりする一本の梅が名高く、評判を聞きつけこの地を訪れた 水戸光圀は、まるで竜が臥しているようであると感嘆し、その 木に「臥竜梅」の名を与えました。また、八代将軍・徳川吉宗は、 一旦土に入った枝が、再び地上に這い出る様を生命の循環に なぞらえ、「世継ぎの梅」と命名し賞賛したそうです。 住 所 / 東京都江東区亀戸3丁目51−10 |
江東区登録史跡 梅屋敷跡 ~江戸第一の名木 臥龍梅~ 亀戸三~四十・五十~五十三 亀戸の梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所で、花が咲く頃には多く の人々でにぎわった近郊の行楽地でした。その様子は『江戸名所図会』など で紹介され、またたくさんの浮世絵にも描かれました。とりわけ、歌川広重の 『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』は傑作の一つで、ファン・ゴッホが描写したことでも有名です。 もとは、本所石原(墨田区)あたりで酒造業を営んでいた伊勢屋彦右衛門の別荘でした。 その後、庭内の梅が数百株にもなり、なかでも『臥龍梅』と名付けられた一株は、 まるで龍が臥しているかのように枝が垂れて地中に入り、また根を生じるという奇木で、 『江戸第一の名木』(『東都歳時記』)と賞され、水戸光圀が命名したとも伝えられています。 享保九年(一七二四)二月、八代将軍徳川吉宗が鷹狩の際に初めて梅屋敷を訪れて 臥龍梅を鑑賞しています。以降、梅屋敷は将軍の小休所となり、御用として毎年 梅の実一五〇〇個を江戸城へ納めるようになりました。明治四三年(一九一〇)の大洪水の 被害を受けて旧観が損なわれたものの、大正の末頃までは近隣に清らかな 梅の香りをただよわせていました。 江東区教育委員会 |
東都名所 亀戸梅屋舗全図 歌川 広重 初代 |
名所江戸百景 亀戸梅屋舗 歌川広重 初代 浮世絵師・歌川広重が安政三年(1857年) に描いた『名所江戸百景』 の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、 フィンセント・ファン・ゴッホが模写 (作品名「日本趣味:梅の花」/1887年)するな ど、世界から評価された傑作と言われている。 |
東都名所 亀戸梅屋舗ノ図 /歌川広重 初代 |
|
東都名所 梅屋舖満花之図 歌川 広重 初代 |
江戸むらさき名所源氏 亀戸梅屋舖 見立梅かえ 歌川広重 初代 |
|
江戸自慢三十六興 梅やしき漬梅 歌川広重 2代 歌川国貞 初代 |
東都三十六景 亀戸梅やしき 歌川広重 2代 |
亀 戸 梅 屋 敷 住 所 / 東京都江東区亀戸亀戸4丁目18−8 電 話 / 03-6802-9550 |
亀 戸 天 神 社 一般には「亀戸の天神さま」「亀戸天満宮」と呼ばれ、 親しまれ、天満大神(菅原道眞公)、天菩日命(菅家の 祖神)を奉祀ししています。寛文3年(1663)に神殿・ 反橋、心字池など九州太宰府天満宮に模してつくられ たそうです。新東京百景に選ばれています。 梅まつり/2月中旬~3月中旬:藤まつり/4月下旬~5月上旬 菊祭り/10月下旬~11月下旬 住 所/ 東京都江東区亀戸3-6-1 電 話 / 03-3681-0010 |
銀世界東十二景 亀井戸天満宮境内一覧 歌川広重 初代 |
江戸高名会亭尽 亀戸裏門 歌川広重 初代 |
東都名所 亀戸天満宮境内全図 歌川広重 初代 |
江戸名所 亀井戸天神ふし 歌川広重 初代 |
東都名所合 亀井戸 歌川国貞 初代 |
江戸自慢三十六興 亀戸初卯詣 歌川広重 2代 歌川国貞 初代 |
名所江戸百景 亀戸天神境内 歌川広重 初代 |
江戸名勝図会 亀戸天神 歌川広重 2代 |
東都名所 亀井戸池中藤花之盛 歌川広重 初代 |
東都三十六景 亀戸天満宮 歌川広重 2代 |
亀戸藤乃景 歌川国貞 初代 |
亀戸藤ノ真盛 歌川国貞 初代 |
江 戸 懐 石 若 福 由緒ある亀戸天神の境内に在り、窓から見える 絶景を楽しみながらお食事が頂けます 。 ・ランチメニューもあります。 住 所 / 東京都江東区亀戸3-6-4(亀戸天神内) 電 話 / 3685-3354 定 休 日 / 毎週月曜日 駐車場 / 完備 |
元祖くず餅 船 橋 屋 亀戸天神参道に文化2年(西暦1805年)に開店した 亀戸天神前本店は創業から二百年あまりたちます。 住 所、フロア:東京都江東区亀戸3-2-14 電 話 / 03-3681-2784 営業時間 / 9:00~18:00 お召上がり/ 9:00~17:00 |
亀 戸 銭 座 跡 「銭座絵巻」(享保13年(1728年))より銭座で行われ ていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を磨く) 作業をしている図(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を 参考にして描かれたレリーフです。 寛永13年(1636年)に銅銭が本格的に鋳造されました。 そのため、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と 称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されています。 住 所 / 東京都江東区亀戸2-6 |
江 東 区 芭 蕉 記 念 館 3階の常設展示ではパネルなどにより、俳聖・芭蕉についてわ かりやすく展示しています。庭には芭蕉の句に詠まれた草木 が植えられており、四季折々の草花を楽しむことができ、 芭蕉庵を模した祠と芭蕉像及び句碑が3基あります。 開業: 1981年4月19日 営業時間:9:30~ 17:00 住 所 / 東京都江東区常盤1丁目6−3 電 話: 03-3631-1448 芭蕉歴史跡展望庭園分館→常盤1-1-3 |
芭 蕉 庵 史 跡 展 望 庭 園 園内には芭蕉翁像と芭蕉庵を描いた絵のレリーフがあり、 隅田川と小名木川を臨むことができます。 閉園後は、芭蕉像がライトアップされます。 営業時間:9:15~ 14:30 入園料無料 住 所 / 東京都江東区常盤1丁目1−3 |
渋 沢 栄 一 旧 居 跡 明治9年(1876)に屋敷を購入して修繕した後本邸と した所で、明治21年(1888)に本邸を中央区兜町に移 したのちは別邸として利用しました。 住 所 / 東京都江東区永代2-37 |
永代2-37 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。 榛沢郡血洗島村 に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年 ( 一八七三 ) に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代産業の確立に力をそそぎました。 晩年は社会公共事業に貢献し、昭和六年 ( 一九三一 ) 九二歳で没しました。栄一は、明治九年 ( 一八七六 ) に深川福住町 (永代二) の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二一年 ( 一八八八 ) には、 明治二二年 ( 一八八九 ) から同三七年 ( 一九〇四 ) まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の 発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三十年 ( 一八九七 )、当地に 渋沢倉庫部を創業しました。大正五年 ( 一九一六 )、実業界を引退するまでに五百余の会社設立関与した といわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会 社・旭焼陶器組合などがあげられます。 平成二一年三月 江東区教育委員会 |
澁澤倉庫発祥の地 「わが国の商工業を正しく育成するためには、銀行・運送・保険などと共に倉庫業の完全な発達が 不可欠だ」日本資本主義の生みの親である、澁澤榮一は、右の信念のもと、明治三十年三月、私邸に 澁澤倉庫部を創業した。この地は、澁澤倉庫発祥の地である。澁澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷 市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。この藍玉の商いをすると きに使用した記章が?(ちぎり・りうこ)であった。明治四十二年七月、澁澤倉庫部は澁澤倉庫株式会社 として組織を改めたが、この?の記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。 澁澤シチィプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。 平成十六年四月吉日 澁澤倉庫株式会社 |
幕末の兵学者・思想家として著名な佐久間象山が 西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県) 松代藩下屋敷があった場所です。 住 所 / 東京都江東区永代1-15-2 |
江東区登録史跡 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。 松代城下で生まれ、名は 三年 (一八四二) 、藩主 江川太郎左衛門 尊王攘夷派浪士 平成二一年三月 江東区教育委員会 |
深川の清澄町と日本橋中洲町の間に架けられたことから 清洲の名が付けられた清洲橋は、昭和三年(一九二八年) 三月に完成されました。ドイツのケルン大吊橋をモデル として関東大震災の帝都復興事業として計画され、平成 十九年(二〇〇七年)には昭和初期を 代表する橋として 永代橋、勝鬨橋とともに国の重要文化財に指定されました。 所在地: 東京都江東区清澄1丁目 ~中央区日本橋中洲 |
小 松 橋 小名木川の新扇橋と小松橋間に位置し、東西の 水位差を調節して船の通航を可能にする施設です。 通航できる船舶は長さ90m、幅員8m、 高さA.P.+4.5m以下となります。 所 在 地→猿江二丁目~扇橋一丁目間小名木川 |
扇 橋 江東区は、東側が地盤が低く西側が高い地形になっています。そこで昭和46年策定の江東内部 河川整備計画では、東側を常に水位を一定に保つ水位低下区域としてまた西側の感潮部を耐震 区域として整備をすることになりました。この閘門は、両区域の接点に当たる小名木川の中間 に位置し、水位差を調整して船舶の航行を可能にするための施設です。30億円の事業費と5年 3カ月の歳月を費やして昭和52年に築造されたものです。この方式はパナマ運河と同じです。 |
江東区中川船番所資料館 (公益財団法人 江東区文化コミュニティー財団) 江戸時代、小名木川を通る船の取り締まりを行った中川船 番所跡の北側にたてられた資料館は、中川船番所の一部 を再現したジオラマ及び水運や江東区の歴史に関する 資料を収集、保存及び展示することにより区民の歴史や 文化に対する知的要求にこたえるために設置されました。 住 所 / 東京都江東区大島9-1-15 電 話 / 03-3636-9091 |
亀戸 升 本 本 店 亀戸大根のお店で両国他あちこちにあります。 住 所 / 東京都江東区亀戸4-18-9 電 話 / 3637-1533 定休日 / 毎週月曜日 |
京菓子 彦 九 郎 新 大 橋 店 美味しそう、食べてみたいという思いが湧き出てきました! お店の中の和菓子巡りをしようと思いました。 営業時間 日、火~土9:00~19:00 定休日 / 月曜日 住 所 / 東京都江東区新大橋1-4-16 電 話 / 03-3634-3633 |
青龍山 薬王院 木下川薬師 |
(青龍山 薬王院 浄光寺) 浄光寺の歴史は、嘉祥2年(849)に始まると伝えられています かつて浄光寺は荒川放水路の開削工事に伴い、大正8年(1919) 5月、現在地に移ってきました。天正19年(1591)には徳川家康 より薬師供養料として五石の朱印地(年貢・課役が免除された領 地)を寄進されました。徳川家康は元和元年(1615)「寺院法度 」を発布し、寺院の政治的特権を奪うとともに、全国の寺院を本 末関係(本寺―末寺)に編成しました。これにより浄光寺は浅草 寺と本末関係をむすび、江戸時代を通じて浅草寺末派筆頭として の寺格を保つことになりました。家康没2年後に二代将軍徳川秀忠 は祖霊をいつでも参拝できるようにと江戸城内紅葉山に霊屋を造 営し、別当職に浄光寺を任命しました。又、杜若の名所としても 知られ、庶民文化が花開いた文化文政期(一九世紀はじめ)には、 おおぜいの庶民にまじって杜若を愛でにきた文人墨客の姿も見られ たようです。幕臣勝海舟も幕末期に浄光寺を訪れたひとりでした。 住 所 / 東京都葛飾区東四つ木1丁目5-9 TEL.03-3691-0210 |
千住宿歴史プチテラス ギャラリー千住宿歴史プチテラス 千住名倉医院 横 山 家 住 宅 足立区立柳原千草園 |
千住宿歴史プチテラス 純和風の前庭と奥庭を配し、ツツジ、モミジ、ウメモドキ など四季折々の彩りが美しいプチテラスです。 千住宿・伝馬屋敷の面影をのこす、横山家の土蔵を “蔵造りのギャラリー”として復元しました。 住所 / 足立区千住河原町21ー11(千住大橋駅より徒歩3分) |
Introduction: ごあいさつ 「Flux Show / 生々流転」 開催にあたって この度はコンテンポラリーアートグループ「フラックスメンバー」主催、 「フラックス展/生々流転」にお越しいただき誠にありがとうございます。 歴史あるギャラリー千住宿プチテラスにて、展覧会開催が実現できたことを、非常に喜ばしく思っております。 展示されているのは、今創り出されていく作品の数々です。一世紀以上も前の博物館に所蔵されている評価済み のものではなく、貴方と同時代に、此処で、貴方が生きる社会の中で、まさしく今、生まれてきた作品達です。 それらは狭い作家のアトリエから解き放たれ、貴方の目に触れたいと、貴方との出会いを望んでいます。 そんな作品群を紹介していこうとのコンセプトのもと開かれた展覧会です。 今回のテーマは「フラックス/生々流転」 すべてのものは流れていく、始まりと終わり、出会いと別れ、生まれる時があれば、死ぬ時がある。 季節の様に移り変わり繰り返す。何ものも絶えず変転してやまない。だが同じ時は二つとして訪れないのである。 All things are in a state of flux. (万物は流転する) ご来場の方々に楽しんでいただき、皆様の記憶に少しでも残る作品があれば嬉しく思います。 この展覧会の開催にあたり、ご支援ご協力賜りました関係各位、そして本展覧会を実現するために、 多大なるご尽力をいただきましたガラス工芸家野口均先生に厚く御礼申し上げます。また、何よりも 本展覧会に足をお運びいただき、私達の作品を見てくださった皆様に心から感謝を捧げます。 コンテンポラリーアートグループ 「フラックス」 五十嵐靖喜、石黒英子、岩田信一、太田博健、大谷浩平、おかえさつき |
|
千 住 名 倉 医 院 文化の遺産を伝えた。たたずまいと文化と美術を今に 伝える史跡である。 ギャラリー千住宿歴史プチテラス・生々流転 フラックス展 の帰り道で出会いました。旧日光街道の荒川の土手の 手前にあります。 住 所 / 足立区千住5-22-1 fax.03-3888-7713 |
関東一円に有名である。下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便が よかったため、駕籠や車で運ばれてくる患者がひしめいていたという。門前の広場は、 これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。 名倉家は、秩父の畠山氏の末裔で、享保(きょうほう)年中(一七一六~三六)に千住へ移り、 明和 三代尚壽が 現存し、昭和五十七年十二月に足立区登録記念物(史跡)となった。 名倉家当主は、業祖直賢以来代々「素朴」を号し、俳諧などの文芸を嗜み様々な人々と 交流した。特に四代 横山大観といった当時を代表する人々から還暦を祝う書や画の色紙を贈られている。 彌一と子の謙蔵は千住に住んでいた文豪・森鴎外や美術家・岡倉天心、千住の 絵師・ 千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。 令和三年三月 東京都足立区教育委員会 |
横 山 家 住 宅 横山家住宅(足立区登伝録有形民俗文化財)は、宿場町の名 残として、 住 所 / 足立区千住4丁目28−1 |
横山家住宅(足立区登伝録有形民俗文化財)は、宿場町の 各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が 与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、 伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う 問屋であった。横山家住宅は戸口が街道から一段下がっており、上にいる客を 下から迎える形となる。これはお客様をお迎えする心がけの現れという。また、 横山家の敷地は、間口が十三軒(約二十三・五メートル)、奥行きが五十六軒 (約一0二メートル)で 江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(一九三六)に改修が行われている。 間口が九間(約十六メートル)、奥行きが十五間(約二十七メートル)あり、大きくて どっしりとした 書院造りと言われる を感じる。上野で新政府に敗れ、敗走してきた 柱の傷跡や、戦時中に 風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。 令和元年十二月 東京都足立区教育委員会 |
千住絵馬屋・吉田家 吉田家は江戸中期に際物問屋として開業し、 絵馬のほかにも行灯や凧などを作ってきました。 足立区千住4丁目15−8 電話番号: 03-3880-5984 |
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ ほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、 先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲した伝統を守り続けており、昭和五十 八年(一九八三)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。 絵馬は、縁取りした 千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願 する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、 吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっている。 地口は江戸時代に流行したダジャレの1種である。ことわざや芝居の台詞、 格言等を似た音に置き換をえたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の 行灯にしたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午(はつうま)の 祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際 に飾られ、千住の街を灯している。 令和二年三月 東京都足立区教育委員会 |
足立区立柳原千草園 四季をテーマにした園内には、「春の広場」には ロウバイやさくら、「夏の庭」にはシャクナゲや アジサイ、「秋・冬の山」の植栽区域があり、 四季折々に花や木が楽しめます。 足立区柳原1丁目21−26 電話: 03-3880-5845 |
この公園は、製紙工場跡地を足立区が買収し、平成元年 |
平成中村座発祥の地記念碑 花 の 碑 正岡子規の句碑 アンデス 竹屋の渡し 山の宿の渡し 文庫や大関 madei までい |
平成中村座発祥の地記念碑 記念碑の高さは十八世勘三郎の背丈と同じで、 「一味徒党の連判状」と題して、募金者の氏名を記した 巻物が碑の下に納められています。記念碑の建立にあわ せて浅草公会堂前に勘三郎の顔を模した「鼠小僧の像」 の除幕式も行われました。 住 所 : 台東区浅草7丁目1番 隅田公園 |
平 成 中 村 座 発祥の地の碑 「江戸時代の芝居小屋を現代に復活させ、多くの方々に歌舞伎を楽しんでもらいたい」 十八世中村勘三郎丈(当時勘九郎)の抱いてきた夢が「平成中村座」として二千年十一月、 ここ山谷堀に実現しました。第一回公演は、『隅田川続佛 法界坊』でした。 |
花 の 碑 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。武島羽衣は、 明治5年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、 美文家として知られる人物である。明治33年、東京音楽 学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、 同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。 羽衣28歳、滝廉太郎21歳の時であった。 台東区浅草7丁目1番 隅田公園 |
花 の 碑 台東区浅草7丁目1番 春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が・・・ 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年(1956)11月3日、 その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。武島羽衣は、明治5年、 日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年、東京音楽学校 (現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。 羽衣28歳、滝廉太郎21歳の時であった。滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られて いるものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の3年後、明治36年(1903)6月29日、 24歳の生涯を閉じた。武島羽衣はその後、明治43年から昭和36年退職するまでの長い期間、日本女子大学 で教鞭をふるい、昭和42年(1967)2月3日、94歳で没した。手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。 その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。 平成11年3月 台東区教育委員会 MONUMENT OF “HANA” The monument of "HANA" was built in honor of Takeshima Hagoromo,a songwriter and professor, by his former students in 1956. He wrote a famous Japanese song titled "Hana", which lyrically expressed the beauty of the Sumida RIver; it starts "Sumida flowing through the warmness of spring time while many people on boats moving upstream and downstream are enjoying the spring and nature." Composer of this song was Taki Rentaro, an assistant professor of Tokyo Music School (presently Tokyo National University of Fine Arts and Music) , and Hagoromo also became the professor in the same school (Tokyo Music School) in 1897. Both of them worked together and completed the song "HANA". Hagoromo was born in the family of a cotton cloth wholesaler in Nihonbashi in1872. He became a scholar on Japanese literature and was also known as a writer with an expressive lyrical style. The monument has his own writing copied and sculptured ont the stone. |
文 庫 屋 大 関 お店の中は異次元の世界!素晴らしい沢山の作品に出会えます。 姫路の牛革を使い、型押しをして、一筆一筆手作業で彩色を施し、 漆と真菰を使った錆入れの工程を経て、一枚一枚手作業で 仕上げていく伝統的な工程を頑なにこだわり続けています。 高級革財布、ハンドバッグ、アクセサリーなどの小物類を販売。 文庫革は漆を使った皮革工芸品です。 住 所 / 台東区浅草浅草2丁目2−6 電 話 / 03-6802-8380 定 休 日 / 水曜日 営業時間 / AM 10:00 ~ PM 18:00 |
正式には本龍院といい、浅草寺の支院のひとつである。 古くから名所として文人墨客に愛され、多くの絵画や歌 の題材となった。歌川広重の絵に描かれている築地塀も 境内に残っている。 住 所 : 台東区浅草7丁目4−1 電 話: 03-3874-2030 時 間: 6:00~ |
待 乳 山 聖 天 台東区浅草七丁目四番一号 本龍院 待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は 縁起によれば、推古天皇九年(六〇一)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、 十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」 として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、 江戸時代には東都髓一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなって いる。とくに江戸初期の歌人戸田茂睡の作、 哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉 の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか石造出世観音立像、トーキー 渡米の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の 意匠は当時の御利益を示すもので、大根は健康で、家和合、巾着は商売繁盛を表わす という。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。なお、震災・戦災により、 本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。 平成十一年三月 台東区教育委員会 MATSUCHIYAMA SHODEN Matsuchiyama Shoden is of the subordinate tenmples of Kinryusan Its proper name is Matsuchiyama Honryuin. and near the Takeya Ferry. It was Edo Era.Here there are men of letters and Its main World War. But it was rebuilt in 1961. as the symhol of health and commercial success. |
池波正太郎生誕の地 作家・池波正太郎(1923~1990)は、大正12年旧東京市浅草区聖天町61番地に生まれ ました。この年の9月に関東大震災が起こり、生家は焼失してしまいましたが、その 後も少年期・青年期を台東区で暮らしました。昭和35年(1960)、「錯乱」で直木賞を 受賞し、「鬼平犯科帳 「剣客商売」「仕掛け人・藤枝梅安」などの人気シリーズを はじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生み出し、このあたりもたびたび舞台として 描いています。「大川と待乳山聖天」 というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川 (隅田川) の水と待乳山聖天宮 は私の心のふるさと のようなものだ」と記しています。生家は、待乳山聖天公園の南側 (現台東区浅草 7丁目3番付近)にありました。 平成19年11月 台東区 |
|
紫の一もとをもみしてゆかり深き江戸の名勝をたゝへ、梨本集を著して近世歌学の魁 となしゝ元禄の歌人戸田茂睡翁は、浅草に住みこの待乳山の風光をめでゝ御堂の傍に 歌碑を建てたりき。その石後にそこなはれしも寛政九年姪孫櫛分規貞石室をつくりて 三面を覆ひたりしが、昭和二十年三月戦災にあひて殆ど湮滅に及びぬ。ここより本龍 院住職平田真徳師光住乃息横田真精師等発起して再興をはかり、今年翁の二百五十年 忌に刻石再び新たに成れり。かくれづの翁かくり世にして喜びほゝえみてあらむ とこしへ尓かれじくちせじ霊ごもる まつちの山乃やまと言の葉 昭和30年4月14日 日本藝術院会員 佐佐木信綱撰 芳翠英書 |
左側の石碑は戸田茂睡の歌碑 真中・・・日本藝術院会員 佐々木信綱の撰文による歌碑再建の碑 右側の木札・・・茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と 称されたが、戦火に遭い昭和三十年拓本をもとに再建されたと書かれてある。 |
糸 塚 十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立 この糸塚は元字元年十一世杵屋六左衛門が 父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為 建立せるものとして 十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三弦の 名人と云われた人である 昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記 |
台 東 区 立 山 谷 堀 公 園 かつて山谷堀と呼ばれる水路でしたが、経済成長に伴う 水質汚濁と悪臭の為、昭和51年(1976)頃から暗渠化 されました。 住 所 : 台東区東浅草1丁目4−9 |
ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路であったが、経済成長に伴う水質汚濁と 悪臭が問題となり、東京都により昭和51年 (1976) 頃から暗渠化された。区がそ の上部を公園として整備し、昭和52年以降に山谷堀公園として開園した、 幅約9メートル、長さ約740メートルの後援である。平成29年 (2017) から令和2年 (2020) 、老朽化により全面改修工事を実施した。隅田公園から桜の並木が続き、 春は桜越しに東京スカイツリーを眺めることのできるビューポイントとなっている. 埋め立てる前の山谷堀には、下流から、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・ 紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本提橋の9つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い、 全て取り除かれている。公園の両側にある護岸や橋の親柱が、水であった面影を残している。 (※欄の読みについては、橋名板のとりとしている) A canal calld Sanyabori used to flow here, but urbanization caused it to become polluted and smellyand the metropolitan government covered it over in 1976. From the following year, Taito City created Sanyabori Park above the waterway, a ribbon of parkland 9 meters wide and about 740 meters long. The park was undergoing through a renewal from 2017 to 2020.Lined by cherry trees stretching to Sumida Park, it is renowned for springtime views of cherry blossoms with Tokyo sky tree in the background. park was undergoing through a renewal from 2017 to 2020, Lined by cherry trees stretching to Sumida Park, it is renowned for springtime views of cherry blossoms with Tokyo Sky Tree in the background. Nine bridgs spanned Sanyabori before it was covered. Starting at the downstream end, they were theImado Bridge, Shoten Bridge, Yoshino bridge, Shohoji Bridge Sanyabori Bridge,Kamiarai Bridge, Jikata-shinbashi Bridge, Jikata Bridge, and Nihontsutsumi Bridge. The bridge revetments and pillarsremain providing lasting images the former waterway. |
今 戸 橋 跡 山谷堀の最も下流、隅田川と山谷堀が合流する ところに架かっていた橋で、山谷堀が埋め立てられた 為、親柱が記念に残っています。 台東区浅草7丁目4番 隅田公園 |
今 戸 橋 跡 Imado Bashi Bridge Ruins 今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃に架けられた山谷堀最下流の橋です。最初に整備された 時期は不明ですが、江戸時代の資料に橋を架け渡すという記載が残っています。この橋の下を 吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人 通る」というほどのにぎわいだったと言われています。現存する欄干は、大正15年(1926年)に 竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1978年)現在のような形となりました。 |
竹 屋 の 渡 し 「向島の渡し」とも称され、隅田川にあった渡し舟の ひとつ。待乳山聖天のふもとにあったことから 「 付近にあった茶屋の名に由来する。山谷堀口から 向島 住 所 : 台東区浅草7丁目1番 隅田公園 |
台東区浅草7丁目1番 隅田公園 隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から 向島三囲(みめぐり)神社 (墨田区向島2丁目) の前あたりを結んでいた。明治40年刊の『東京案内』には『竹屋の渡』とあり、同年発行 『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き『待乳(まつち)ノ渡、竹家ノ 渡トモ云』と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡し」とも呼ばれたようで ある。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは 待乳山(まつちやま)の麓にあたることに由来する。 「渡し」の創設年代は不明だが、 文政 年間 (1818-1830) の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに『竹屋のわたし』 の名が見える。江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さま ざまな文学や絵画の題材となり、その中には『竹屋の渡し』を描写したものも少なくない。 昭和3年言問橋の仮設にともない、渡し舟は廃止された。 平成14年3月 台東区教育委員会 The Ferry of Takeya The Ferry of Takeya, also called the Ferry of Matsuchi, was one of the many ferries operating on the Sumida River. It connected Sanyabori and Mukojima Mimeguri Shrine. The name Takeya is said to have been derived from the name of an inn in Sanyabori. The name “Matsuchi” came from the location of the ferry, which was below Matsuchiyama Shoden. It is unknown when the ferry service actually began, but the business continued until the Kototoi-bashi Bridge was constructed in the early Showa Era. |
山 の 宿 の 渡 し 渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、 その町名をとって命名されました。花川戸の渡し と称されたり、東岸の船着場が北十間川の枕橋の たもとにあったので「枕橋の渡し」とも称されました。 台東区花川戸1丁目1 |
山 の 宿 の 渡 し 台東区花川戸1丁目1番 隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。 明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」 は、 隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡,枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は 吾妻橋上流約250 メートル。 浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山の宿町 といった。渡しの名はその町名をとって命名。 別称は、 東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。 枕橋は 墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。渡船創設年代は 不明。枕橋上流隅田河岸は、 江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に 人出が多く、山の宿の渡しは それらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設と みなせるが、 天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」は この渡しを描いていない。 平成4年11月 台東区教育委員会 Yamanoshuku no Watashi Ferry In the days when ferries crossed the Sumida River there was a ferry called the “Yamanoshuku no Watashi” (the word “watashi” means ferry). In a map printed in 1907 ferry routes are shown, and “Yamanoshuku no watashi”, which was also known as “Makura-bashi no Watashi” is mentioned. The ferry route was approximately 250 metres upstream of Azuma-bashi Bridge and linked the iver-bank at Hanakawado with the Nakanogo Kawaramachi area. The name of the ferry is derived from the name of the district of Yamanoshuku which was tothe west of the riverbank at Hanakawado. The alternative name is connected to the fact that the arrivel point on the eastern bank of the river was at the approach to Makura-bashi Bridge.Makura-bashi Bridge stands near to the point where Kitajikken River from Sumi-da ward flows into the Sumida River. It is not clear which the ferry serving this route was started. From about the mid Edo period (around the 1890s), the bank of the Sumida River upstream of Makura-bashi Bridge was popular as a site for cherry blossom viewing. |
madei までい (ご飯×カフェ) 又食べてみたいというハンバーグランチに出合いました! 食材も豊富で嬉しいお値段です。待乳山聖天様の前です。 住 所 / 台東区浅草7-3-12(テイトビル聖天1階) 電 話 / 03-6802-4590 営業時間 / AM 11:30 ~ PM 6:00 定 休 日 / 月曜・火曜日 |
カレーライス |
ブリダイコン |
あんこやさんのアンパン ア ン デ ス 株式会社 的場製餡所のアンテナショップとして、 様々な種類のあんパン及び餡を製造・販売しいます。 住所 / 台東区浅草3-3-2 電話 / 03-3876-2569 営業時間 / AM 8:00 ~ PM 6:30 定休日 / 日曜・祝日 |
国民公園 皇居外苑半蔵門園地 鶴 屋 八 幡 きのこカフェ DIAMOND HOTEL 大學眼鏡研究所 |
国民公園 皇居外苑半蔵門園地 駐日英国大使館の敷地の一部が日本に返還され、 公園(皇居外苑)になります 住 所 / 千代田区麹町1丁目12−10 |
き の こ カフェ 岡山と東京で展開するきのこ グループの多様な施設と事業所です。 数ある梅の品種の中でも果実が最高級とされる 南高梅の梅干しが手頃な値段で購入出来ます。 住 所 / 千代田区麹町2丁目14-3 電 話 / 03-3222-8750 |
鶴 屋 八 幡 東京麹町店 元禄15年(1702)創業で、老舗菓子店虎屋伊織が鶴屋八幡 の前身です。店の間口は六、七間もあり、その隆盛ぶりは 『東海道中膝栗毛』に登場し、『摂津名所図会』寛政10年 (1798)には、百花群がる盛況ぶりが描かれています。 住 所 / 千代田区麹町2-4 電 話 / 03-3263-7766 定 休 日 / 日曜 定休日(除外日有) 営業時間 / 月~金 9:00~18:30 /土・日・祝 9:00~17:30 |
DIAMOND HOTEL 皇居半蔵門の近くで、英国大使館のはす向かいです。 公式サイトからの予約がお得! 「レストランプルメリア」の、無料朝食付き宿泊プラン! 朝食は、AM7:00~AM10:00まで 住 所 /千代田区麹町1-10-3 電 話 / 03-3623-2211 |
レストラン プルメリア 毎週火曜日は男性、毎週木曜日は女性に限り特定の ランチメニューが半額となります。 ※祝祭日は除きます。 TEL:03-3263-2214 |
レストラン 中国料理 金剛飯店 月曜日はレディースDay!! ランチセット全て1,100円(税込) 水曜日はメンズDay!! 指定の麺・飯セット1,100円(税込) ※祝祭日は除きます。TEL:03-3262-4756 ランチ 11:30~14:00 |
AとBが半額になります |
大 學 眼 鏡 2024年1月1日より大学眼鏡研究所から大学眼鏡として新たな スタートをきりました。 40代からの『眼を守る』ために『かけ続けてラク』なメガネ を研究し続けて42年。免許センーで使われてい専門的な 検査器も取り揃え、眼とメガネに悩む良き相談所です。 住 所 /千代田区麹町麹町1ー6−9 電 話 / 03-3234-0011 時 間 / 10:00~18:00 年中無休(年末年始のみ定休) |