![]() |
葛飾北斎案内板⑬ 白髭の翟(きじ)松 今戸の夕烟 ━絵本隅田川両岸一覧━ Panoramic Views on Both Banks ofthe Sumida River Third Volume (Total of Three Volumes): Shirahige no KijimatsuImado no Yu-Keburi ) 秋の夕暮れが広がるなか、画面の左手では今戸(現在の台東区今戸) で瓦焼きが行われています。川辺では、瓦を運ぶ二人が言葉を交わし がら行き交い、そばには瓦を積み込んだ舟が静かに浮かび、当時の 職人たちの活気ある仕事風景が生き生きと描かれています。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-5 |

![]() ![]() 白髭の翟松 今戸の夕烟 ━絵本隅田川両岸一覧━ 『絵本隅田川両岸一覧』は隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全3巻25作品からなる 狂歌絵本シリ-ズで、この作品は下巻に収められています。秋の夕暮れが広がる画面の左では、 今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で、川縁で何やら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と 瓦を積んだ舟が描かれています。画面の奥には名勝地として知られていた白鬚明神社(現在の白鬚神社) の鎮守の杜を配し、また右側に配された動きのある白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が 40~47~47歳頃の作品です。 The Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River is a series of comical tanka prints consisting of 25 prints in three volumes portraying a portion of both banks of the Sumida River from Takanawa to Yoshiwara, and this print comes from the third volume. The right-hand side of the print shows roof slates being fired under an autumn sunset in Imado(currently Imado,Taito-ku), as well as two people carring the slates while conversing and a boat loaded with slates. A copse of trees aroundthe Shirahige Myojin Shrine(currently the Shirahige Shrine),which is known for its scenic beauty, can be seen in the distance, and the movement of a white egret on the right-hand side provides an accent. Katsushika Hokusai created this print between the age of 40 and 47. |
|
書家 西川春洞・寧 住居跡 明治から大正にかけて活躍した書家・西川春洞は、その卓越した 筆力と指導力で広く名を知られ、その門下は約2,000名にものぼ ったといわれています。春洞は今日の漢字書道界の基礎を築いた 中心的存在であり、近代書道の発展に大きな足跡を残しました。 その息子である西川寧(やすし)もまた著名な書家で、 中国書道史の研究者としても高く評価されました。 寧は生涯を通じて書の探究に力を注ぎ、日本芸術院会員を め、さらに文化勲章を受章した、日本書壇を代表する人物です。 住 所 / 東京都墨田区東向島3丁目4番5 |

![]() 西 川 春 洞 ・ 寧 住 居 跡 所在 墨田区東向島丁目四番 西川春洞は、肥前唐津藩医を父に弘化四年(一八四七)日本橋の家で生まれました。幼い頃、 書を中沢雪城に学び、初め銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心 とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。そして、この地(寺島村 一二〇七番) に居を構え、多くの弟子を養成しました。春洞は、地域の社寺や人々の求めに 気軽に応じ、多くの作品を残し、大正四年この地に没しました。春洞の息子寧は、明治三十 五年ここに生まれ、寺島小学校 (現第一寺島小学校) に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、 さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和六十年に書家として初めて 文化勲章を受章しました。平成元年五月目黒区中町で没しました。 (なお、住居跡は階段下約三十メートル先の左側の辺りです) 平成十二年三月 墨田区教育委員会 |
|
旧 墨 堤 の 道 白髭神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、度重なる 整備によって、大きく変わってしまいましたが、その 面影は「白鬚神社」から「子育て地蔵」までの湾曲した 古道に残っています。春は花見、正月は七福神めぐり の人々で、特ににぎわいました。 住所 / 東京都墨田区東向島三丁目3番大堤緑地帯 |

![]() 旧 墨 堤 の 道 所在地 墨田区東向島三丁目3番大堤緑地帯 墨堤に桜の木が植えられたのは、江戸時代前期の寛(かん)文(ぶん)年間(1661~73)のことと されています。一説によれば、当初の植樹範囲は、徳川将軍家が鷹狩(たかがり)など御成(おなり) の際に休息所として利用した隅田(すみだ)川(がわ)御殿(ごてん)があった辺り(現堤通二丁目、都立 東白髭公園付近)から白鬚神社の北側辺りまでで、これを延長させたのが、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね) でした。徳川吉宗は、地固めによる護岸強化を実施するに当たり、同時に江戸市民の憩いの場も 充実させようと考え、桜並木が連なる範囲をさらに南側へ延長し、現在言(こと)問(とい)橋(ばし)が 架(か)かる辺り(現向島二丁目、言問通り)まで植樹させたとされます。墨堤は、こうして特に 18世紀半ば以降、寺社参詣を伴う花見の名所、憩の場として発展しました。 令和4年2月 墨田区教育委員会 |
![]() |
向 島 白 鬚 神 社 隅田川にほど近い向島の地に鎮座する、地域の人々に親しまれてきた 古社です。白鬚神社は全国に点在し、延命長寿・健康・家内安全の ご利益で知られています。この神社は、かつて隅田川の水運や街道を 行き交う人々の信仰を集め、旅の安全や日々の暮らしの安泰を祈る 場として大切にされてきました。現在も静かな境内には、土地の 歴史と人々の祈りが息づいています。都会の中にありながら心が 落ち着くひとときを感じられます。天暦五年 (西暦九五一年) に慈恵 大師が関東に下った時に、近江国比良山に鎮座する白鬚大明神の 御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えています。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-5-2 |
白鬚神社縁起碑
白鬚神社周辺
白鬚神社境内
ぼんでん祭
お正月風景
白鬚大神の碑
参道沿いの石碑集
江戸名所図会 7巻
岩瀬鴎所の墓碑
社 務 所
山玉向島講社 の 碑
|

![]() 白 鬚 神 社 祭神 猿田彦大神 天照大御神 高皇産霊神 神皇産霊神 大宮能売神 豊田気大神 健御名方神 由 緒 天暦五年 (西暦九五一年) に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山に鎮座する 白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年 (一五九二年) には、時の将軍家より神領二石を寄進された。 隅 田 川 七 福 神 当社に寿老人を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、 どうしても寿老人だけが見当らなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の 老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機知を働かせて、 この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、 寿老神と神の字を用いる所以である。 |




















|




d〈 墨田区登録文化財 〉 山 玉 向 島 講 社 の 碑 所在地 墨田区東向島三丁目五番二号 白鬚神社 山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、 山玉深川元講の枝講だったと考えられています。明治八年( 一八七五 ) 七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中之郷・須崎の三地区に居住していました。 専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝 (とうはい)していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大 正十一年(一九二二)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 大正十一年三月」と見え、四代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、 そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二 名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々 が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者 は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高い ことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、 四代目先達玉山丈行は、本名を重城丈吉といい、白髭神社の氏子総代の一人でした。遅くとも 大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果た して富士吉田の御師「大番城」の屋敷に記念碑を建立していました。左に 立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており講社の沿革を 知るうえで貴重な情報を提供しています。 平成二十四年一月 墨田区教育委員会 |


![]() 岩 瀬 鴎 所の墓碑 所在 墨田区東向島3丁目五番二号 白鬚神社内 江戸時代末期の外交家。文政元年 (一八一八) 江戸に生まれました。名は忠震で、 鴎所の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭設楽貞丈 の第三子で天保十一年(一八四〇) 、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年 (一八四九) 老中阿部正弘から目付に抜てきされました。鴎所は昌平坂学問所で漢字を学ぶにとどまらず 蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鴎所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を 非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講式所と藩所調所を設け海軍伝習 を始めるのにも参画しました。後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と 対立したため、安政六年八月に官位を奪われ、蟄居を命ぜられました。その後向島に 隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年 (一八六一) 七月十六日、四十四歳で没しました。 平成十六年三月 墨田区教育委員会 |
| 天広丸の狂歌碑 刻銘「くむ酒は 是 風流の眼なり 月を見るにも花を見るにも」 天広丸は本名を磯崎広吉、号は酔亀亭。宝暦6年(1756)鎌倉市今泉に生まれ、 文政11年(1828)に没しています。青石の自然石上部には酒を表すとみられる図が描かれています。 建碑は鎌倉市今泉の白山神社参道入り口にある自筆の狂歌碑(文化元年)<1804>銘)と 全く同じ筆勢から文化初年を下らないようです。彼は狂歌を唐衣橘洲に学び、 生涯、酒好きで、その著「狂歌酒百首」の巻頭にこの歌が書かれています。 ![]() |
| 墨田区登録文化財〉 「墨 多 三 絶」 の碑 ![]() 所在 墨田区東向島三丁目五番二号 白鬚神社内 隅田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶 (? は絶の古字)」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は文政五年 (一八 二二) のことです。なお、絶とは五字または七字の四句で、一体をなす漢詩のことで、三詩 からなるので三絶と呼びます。この碑 (草書) は 三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書) の両碑を加えて、 大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。 維舟渡口歩汀沙来飲祠前売酒家 道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花 不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎 欲管繁華事閑唾落花流水中 断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深 鴎邊柳処元陳遼付与詩人吟至今 上毛淡斎佐羽芳詩壬午冬日書詩仏老人大窪行 平成十八年十月 墨田区 |
| 鷲 津 毅 堂 碑 三条実美てん額、厳谷一六書による毅堂の伝記碑である。毅堂は名を宣光といい、 幕末・明治初期に活躍した漢学者で、明治政府の官職を歴任し、明治十五年 (1882)に司法権大書記官となったが、同年秋に五八歳で没した。 毅堂はまた、小説家永井荷風の母方の外祖父でもある。明治十六年建立。 ![]() 鷲津毅堂之碑 所在地 墨田区東向島三丁目5番2号 白鬚神社 この石碑は、幕末から明治にかけて活躍した官僚、鷲津毅堂(1825-1882)の 事績を称えるために建立されました。太政大臣三条実美によって書かれた 立派な篆額を掲げています。明治16年(1883)10月の紀年銘によれば、碑文 は当時東京大学教授であった三島中洲が執筆し、修史館監事の巌谷一六が 浄書しました。碑文彫刻は、井亀泉こと酒井八右衛門によるものです。 碑文によれば、綺堂は尾張国丹羽郡丹羽村(現愛知県一宮市)出身の郷士で、 ニ十歳の頃に父親を亡くしたことから、家の再興を熱願した母親の希望に沿い、 伊勢の著名な儒学者であった猪飼敬所に学びました。そして、後に江戸へ出て 幕府の学問所(昌平黌)に学び、嘉永6年(1853)に久留里藩(現千葉県君津市)に 出仕しました。また、その後は尾張藩に仕官し、藩学明倫堂の督学(学事監督)を 務めたほか、藩主徳川慶勝の側近くに仕えて激動の時期の藩政を支えました。 そして、維新に際して藩より推薦を受けて新政府に出仕し、その後は文部省や 司法省などに勤めました。永井荷風の外祖父として知られています。 令和4年9月 墨田区教育委員会 |
| 狂歌碑黒人塚 浜辺黒人(はまべのくろひと)という江戸時代中期の狂歌師の石碑。 右面に「うつせみのうつつにしばしすみた川 渡りそはつるゆめのうきはし」と刻まれています。 もう一方には寛政十二年(1800)と彫られた横に「玄二号黒人」の文字、本名を北島玄二といい、 玄の字が黒に通じることから黒人と号したと言われている。 ![]() |
| 中原耕張「つくづくし」の句碑(「筆塚」) 高さ123cmの四角柱正面に「筆塚 中原耕張」として 「つくつくし つめよ硯の すみ田川」の句を添えています。 筆塚は退筆塚とも言われて、使いふるした筆を地に埋めて塚としたものです。 ![]() |
![]() 空谷等周先生衣嘖之蔵の碑(文政11年建碑) 下総(千葉県)出身の画家、川村等周(号空谷)の衣と頭巾を埋めて、彼と親交のあった清水武によって建てられた碑で、 彼の2人の子の書で、碑面を8歳の孝(孝蔵)、碑陰を12歳の姉美智の筆によるものです。 幼少の者が揮毫したという大変珍しい碑で、文政11年(1828)の建碑で表裏が反対となっております。 撰文者の綾瀬亀田長梓は亀田鵬斎の義子(一説に長子)で亀田三蔵(綾瀬)のことです。 |
![]() 四世今日庵 元風「こころほど」の句碑 「こころほど こと葉のたらぬ さくらかな」 元風は本名を松本伊助といい、師一蛾につき、天保年間(1830~1844)に活躍した江戸の俳人用です。 息子、盛義(小衰)による天保7年(1836)の建碑です。 |
![]() 春秋庵白雄「人こいし」の句碑 「人こひし 火ともしころを さくらちる」 春秋庵白雄(1738~1791)は本名を加舎白雄といい、信州(長野県)上田に生まれました。 各地を放浪し、江戸に春秋庵を開き句作に励みました。 于時文化歳在癸酉(1813)春3月 拙堂創建之 補助居行 |
![]() 亡友蒼山衣剱之蔵の碑 蒼山は本名を小野田大三郎といい、24歳で没し、市谷善慶寺に葬られました。 彼の衣と剱(刀)を埋めて塚としたもので,天保4年(1833)の建碑です。 |

![]() 江戸・東京の農業 寺 島 ナ ス かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688~1704)によれば、 この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた 肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれて いました。享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡誌」には、寺島茄子西葛西の内也。 中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」また、文政11年 (1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」 として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記 されています。農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店 (青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯 であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。 平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業 THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO Terajima Nasu (Egg plant) Terajima village around this Shrrahige was paddy rice areas in the years 1688-1704. Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the egg plant which was popular as ‘Terajima Nasu’. Farmers shipped their products by boats to the markets of Senjyu, Honjyo-Yotsume andKanda, etc. |

![]() |
向 島 艇 庫 村 跡 明治から昭和にかけての隅田川では、レガッタ(ボートレース) が盛んに行われていました。この周辺には、競技用ボートを保管 する「艇庫(ていこ)」が数多く建ち並び、その様子から一帯は 「艇庫村」と呼ばれていました。選手たちが練習のために行き交い、 川べりには活気ある風景が広がっていたと伝えられる場所です。 所在地 / 東京都墨田区堤通一丁目(区立堤通公園) |


![]() 向 島 艇 庫 村 跡 所在地 墨田区堤通一丁目(区立堤通公園) 明治から昭和にかけて、隅田川ではレガッタ(イギリス発祥のボート・レース)が盛んに行われ ました。日本におけるレガッタの開始期については諸説ありますが、隅田川では、枕橋と言問橋 の間で行われた明治16年(1883)6月開催の海軍端舟競技大会が最初とされています。また、 生レガッタの最初は明治18年(1885)4月にに行われた東京帝国大学春季競漕会で、明治 38年(1905)5月には早慶レガッタの初の大会も実施されました。 この付近には、明治20年(1887)に設置された東京大学の艇庫をはじめとして諸大学の艇庫が建ち 並び、向島艇庫村などと呼ばれました。そして、学生達の日常の練習風景や例年の定期レガッタ が隅田川の名物として親しまれました。昭和30年代の高度経済成長期の水質悪化に伴い、それ 大学艇庫は転出し、昭和42年(1967)に向島艇庫村の風景は失われました。しかし、水質は 浄化の結果、昭和53年(1978)4月には名物の早慶レガッタが復活し、現在も続けられています。 令和4年9月 墨田区教育委員会 |
![]() |
公立寺島学校発祥の地 明治12年(1879年)、この地で「寺島村立寺島小学校」が創立され ました。その後、「寺島尋常小学校」「第一寺島尋常高等小学校」 などの名称を経て、現在の 墨田区立第一寺島小学校 へと受け 継がれています。かつて記念碑は寺島図書館の敷地内にありまし たが、第一寺島小学校の創立80周年を記念して現在の地に建立 されました。碑に刻まれた文字は、文化勲章受章者で「書の巨人」 と称された同校の卒業生 西川寧氏 の揮毫によるものです。 住 所 / 東京都墨田区東向島3丁目 |

![]() ![]() 魁 (さきがけ)の地 寺島村字前沼 1555、1556番地 明治12年10月12日、この地に萱葺農家を一部改修して、寺島村立寺島小学校が創立した。 村の発展とともに児童が増え、明治39年頃、西校舎(現第一寺島小学校)に校地を拡大した。 大正12年に寺島町となり、大正13年には第二寺島小学校が開校し、寺島小学校は第一寺島 小学校となる。昭和3年には第三寺島小学校が開校する。寺島町では旧制中学校の誘致を進め、 大正11年の府中七中(現都立墨田川高校)開校に伴い、敷地の一部を分割し、新校舎が出来る までは、この地にあった旧小学校の校舎を利用して授業をおこなった。子ども達の学びの場を 整えた寺島町では、大人も学ぶ場として、昭和4年に寺島町立図書館を開館し、府立七中の先生 を講師とした講座も開催された。公立の図書館が少なかった時代のため寺島町が向島区になる と、図書館は都立日比谷図書館の分館となり、戦後、墨田区立となった。平成31年、障害の有 無に関わらず差別のない、いきいきと暮らせる街をめざして「喜楽里すみだ工房」が開設され た。寺島のまちで、教育・福祉を先導する施設が展開したこの地は、まちに暮らす人々の幸せ をつむぐ、「魁の地」と言える。なお、「公立寺島小学校発祥之地」石碑は、第一寺島小学校 創立80周年を記念し建立され、書は、「書の巨人」と言われ、寺島小学校同窓生で文化勲章を 受章した「西川 寧」氏の揮毫となる。本石碑の他、子育て地蔵白鬚神社にも西川氏の書が 残されている。令和元年10月「墨田区立第一寺島小学校創立140周年」、 「すみだ工房」を寿ぎ、この解説版を設ける。 第一寺島小学校同窓会 |
![]() |
喜楽里(きらり)すみだ工房 平成31年に「障害の有無にかかわらず、誰もが差別なく、 いきいきと暮らせる街をつくりたい」という願いのもとに 開設されました。地域と共に歩む工房では、利用者の皆さん が心を込めて作る 焼きたてパンが大人気。優しい味わいと 丁寧な手しごとが評判で、地元のファンも多いお店です 住 所 / 東京都墨田区東向島3-34-4 定 休 日 / 土日・祝日 電 話 / 03-6661-8561 営業時間 / 10:00~16:00 |




|
てらじま広場 — 地蔵坂の途中にひらける、やすらぎの小さな広場 — 花壇には四季折々の草花が植えられ、手入れの行き届いた緑が 訪れる人の心をそっと和ませてくれます。住宅街に囲まれた この広場は、近所の方の憩いの場であり、散策途中にひと息 つくのにちょうどよい、静かで親しみやすい空間です。晴れた日 には青空と花の色彩が美しく調和し、地蔵坂の歴史ある道行きに、 やさしい彩りを添えています。街角の何気ない一場面ながら、 この場所ならではの温もりを感じられる広場です。 住 所 / 東京都墨田区東向島1丁目 15-13 |



![]() |
子 育 地 蔵 堂 地蔵坂の突き当りに佇む子育地蔵堂は、古くからこの地 で人々の暮らしと心に寄り添ってきました。子どもの健や かな成長や安産、家族の無事を願う人々の祈りが、今も 絶えるとなく捧げられています。文化年間(1804~1818) に行われた隅田川の堤防改修築工事の際に土中から発見 された伝えられています。 住 所 / 東京都墨田区東向島三丁目二番一号 |


![]() 子 育 地 蔵 堂 所在地 墨田区東向島三丁目二番一号 この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(一八〇四~一八一八)に行われた隅田川 の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、 神輿(みこし)がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。この地蔵には、次のような伝承 があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの 田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が 村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置 して朝夕に供養するようになりました。その後、天保三年(一八三二)四月に十一代将軍 徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。 平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しま した。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵 あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。 御堂前の坂は、明治四 十四年(一九一一)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれて います。昭和八年(一九三三)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は、 地元出身の書家、西川寧(やすし)(文化勲章受章者)が揮毫(きごう)したものです。 平成二十三年八月 墨田区教育委員会 |
![]() |
gallery hydrangea(ギャラリー ハイドランジア) 【未知の物語の創造】をコンセプトとした現代美術 を取り扱う企画画廊 営業時間:13:00~18:30(※最終日は17:00まで) 休廊日:火曜日・水曜日 住 所 / 東京都墨田区東向島1丁目3−5 電 話 / 03-3611-0336 |



|
幸 田 露 伴 旧 居 跡 (露伴児童游園) 明治・大正期を代表する「五重塔」などの名作を生み、第一回文化 勲章(1937年2月)を受賞され日本文学史に大きな足跡を残した幸田 露伴が暮らした区内3番目の家があった旧居跡です。雨宮酒店横の 別棟を「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名づけて間借りをしていました が明治41年(1908)には自分で家を設計し蝸牛庵」と名づけて 住んでいましたが、関東大震災の影響で井戸の水に油が浮くように なった為、大正13年小石川へ転居しました。 住 所 / 東京都墨田区東向島1-7-11 |




![]() 幸田露伴 文学碑 世おのづから數(すう)というもの有りや。 有りといへば有るが如く、 無しと為せば無きにも似たり。 洪水天に滔(はびこ)るも、禹(う)の功これを治め、 大旱地を焦せども、湯(たう)の徳これを済(すく)えば、 數有るが如くにして、而も数無きが如し。 「運命」より/碑文 |
![]() 露 伴 児 童 遊 園 の こ と ここは文豪幸田露伴が明治41年から大正13年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。 露伴は明治26年冬この寺島町かいわいに来往しそれから約30年最も力の溢れた時期をこの地 にすごし数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に劍道、弓道、相撲、などして よく庭で遊んだそうです。このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷 辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい 遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。 昭和39年3月建立 墨田区 |
![]() odern Author Koda Rohan and his“Snail Cottage” Koda Rohan (1867-1947) was a famous writer active throughout Japan’s modern period By the middle of the Meiji Period, when modern Japanese literature arose under theInfluence of Western culture, Rohan had already received recognition as first-classwriter through novels such as Furyubutsu (The lcon of Liberty) and Gojunoto (The Five-Storied Pagoda ). He continued to publish pieces including novels, bookreviews, essays, and poetry for nearly sixty years until after World War 11. Rohan lived in the Mukojima area three times, each time in a different house. He first stayed in a large estate in the northern part of Mukojima near Shirahige-bashi Bridge in 1893, but only for a year ①. Rohan lived in the area for the second time in 1897, renting a wing of Amemiya’s liquor shop which was located near this site ②. Aya Koda, his daughter who would later become a popular writer in her own right, was born there. Starting in 1908, Rohan lived here inMukojima for the third time ③. It is said that the house located here was designed by Rohan himself. Here he wrote many well-known masterpieces including Unmei (Destiny), but the Great Kanto Earthquake of 1923 made the wellwater cloudy, so he moved out the following year. Rohan often called his house Kagyuan, or “Snail Cottage”The writer had moved often since his youth, and through this moniker he compares himself humorously to the snail, which carries its shell as it travels. Combining this name which that of the area, the house once located on this site is called Mukojima Kagyuan |
![]() 当 地 に つ い て 明治41年(1908)、露伴はみずからの設計で家を新築し、当地に移り住みました。短期間の 居住におわった岐雲園をのぞけば、ここが第二の向島蝸牛庵にあたります。隣には割烹 料亭「雲水」の庭が広がるすぐれた環境で、中国明代の靖難の 変を題材にした歴史小説「運命」をはじめ、「幽情記」や「望樹帰」 といった代表作がいくつも執筆されました。この家で少女時代をすごした幸田文は、当時の 様子を「みそっかす」や「糞土の墻)」に美しく描いています。しかし、 関東大震災によって井戸水が濁ってしまったことなどから、大正13年、一家は16年 あまりをすごしたこの地を離れ、小石川に移転していったのです。 |
![]() 向 島 蝸 牛 庵 露伴が岐雲園に住んだのはわずか1年ほどでしたが、数年後の明治三十年にはふたたび向島へと戻り、当地よりほど近い、 雨宮酒店の隠居所を借りて居を定めました。現在、博物館明治村に移築されているこの家では、のちに作家になる娘の幸 田文(あや)が生まれています。「蝸牛庵」とは露伴の家のことで、若いころから転居続きだった自分を、殻 を背負って歩くかたつむり(蝸牛)に譬えたのが由来です。生涯にわたって用いられた庵号で、特定の建物を指すわけ ではありませんので、区別のためにしばしば地名を冠して呼ばれます 蝸 牛 庵 明治村幸田露伴住宅蝸牛庵として展示 ![]() ![]() |
![]() 幸 田 露 伴 と 向 島 幸田露伴(慶応3年(1867))~昭和22年(1947)は、明治・大正・昭和の三代にわたって 小説をはじめ評論や随筆、詩歌、考証研究などに幅広く活躍し、大きな足跡 を残した文学者です。若き日の明治20年代から、「風流仏」や「五重塔」 などの名作を次々に発表し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と並 び称されました。向島にはじめて住んだは明治二十六年のことで、現在の白髭橋近くにいた父母や兄が、隅田川対岸の橋場へと転居したのにともない、そのあとに入ったのです 。岐雲園と称されるこの家は、もと幕末の外国奉行だった岩瀬忠震が 建てたもので、汐入の池や梨畑のある広い庭を持っていました。 |
![]()
向 島 文 学 散 歩 Map of Literary Sites in the Mukoujima Area 向島地域には、明治時代以降、魅力ある土地柄に惹かれた多くの作家が住まいを構えました。 彼らは、向島での暮らしを作品に残し、かつての向島の様子を伝えてくれます。 Starting the 19th century, especially after the Meiji Restoration in 1868,the pastoral atmosphere of the Mukoujima area brought many novel ists to make their homes here.The writings they left of a Mukoujima long past. and record the lives of its inhabitant |
![]() |
歌川豊広辞世の狂歌碑 歌川派の基礎を築いた江戸後期の浮世絵師。この世を去るに あたって詠んだ辞世の句を刻んだ碑です。弟子に歌川国貞 (のちの三代豊国)を育てた豊広は、静かな境地で生涯を 閉じたと伝えられています 明治20(1887)年の歌川豊広60回忌に三世歌川広重が建立 しています。墨堤下に建立したとされる石碑で2度目の移設で 現在地にあります。江戸の芸と心を今に伝える史跡です。 住 所 / 東京都墨田区東向島1-7-11露伴児童遊園 |


![]() ![]() 墨田区有形文化財 歌川豊広辞世の狂歌碑 所在地 墨田区東向島一丁目七番十一号 所有者 墨田区 ━━死んで行く地獄の沙汰は兎も角も 跡の始末はかね次第なる━━ この狂歌碑は、江戸時代に活躍した歌川豊広(一柳齋)という浮世絵師の六十回目の命日を 記念して建てられました。表に豊弘辞世の狂歌が、裏に明治二十年(一八八七)四月の日付が 刻まれています。歌川豊弘は江戸に生まれ、現在の港区芝あたりに住んでいました。浮世絵を 歌川豊春に学び、兄弟弟子の初代歌川豊國とともに歌川派が活躍する基礎を固めました。滝沢馬琴や 十返舎一九など人気作家の小説の挿絵や肉筆の美人画を残しています。なお、かの有名な 『東海道五十三次』の作者、初代歌川広重(安藤広重)は、豊広の後継者でした。狂歌碑は、 平成十三年三月二十二日に墨田区の登録文化財となり、二十八年二月十日に墨田区向島五丁目 十一番一号の旧地より当地へ移されました。 平成三十年二月 墨田区教育委員会 |
|
迷 い 子 の し る べ 江戸の町では、はぐれてしまった子どもや家族を探すため、 この「迷い子のしるべ石」の前に集まり、互いの情報を待ち ました。日時や特徴を書き記し、再会を願う――それは、助 け合いを大切にした江戸っ子の暮らしの知恵と温かな心が生 んだ仕組みでした。現在、都内には同様の「迷い子のしるべ」 がここを含め、わずか数か所のみ残されています。静かな佇 まいの中に、人と人とが支え合って生きてきた江戸の記憶が 今も息づいています。 住 所 /東京都墨田区東向島1-16-2 (第一寺島小学校内) |


![]() 迷い子のしるべについて 現在のように新聞やラジオ・テレビなどや警察がなかった江戸時代には、迷い子・ 家出人・行き倒れなど江戸市中で人をさがすことは想像以上の困難があったと思われる。 特に子どもが迷ったが最後 それが一生の別れとなり、その日を忌日としていた。 親たちは子どもに人さらいが来るからといって、家の近くか町内で遊ばせるようにし、 日暮れと共に家に入るよう厳しく躾(しつけ)ていた。しかし祭の時など家人とはぐれる 時もありそのための迷い子のしるべ石が江戸下町の方々にいくつかあったらしい。高さ 二メートル位の石柱で北側に「たつぬるかた」南側に「をしふるかた」と彫ってあり 一種の伝言板である。迷い子・たずね人をさがしている人は「たつぬるかた」に、たずね 人の名前・人相・特徴を書いて貼っておく。それを見て知っている人は「をしふるかた」に、 その旨を紙に書いて貼って教えてくれる。このようにして毎日迷い子のしるべ石へきて 情報を待つという方法で 江戸っ子が生んだ当時の生活の知恵の見本のようなものである。 現在都内に同じようなものが、他四カ所あるので特記する。 中央区八重洲 一石橋西河岸 台東区浅草 浅草公園内 台東区寿町 永見寺境内 文京区湯島 湯島天神内 (藤川淳郎記) |
|
向島百花園児童公園 江戸の名園・癒しの向島百花園に隣接する、地域の子ども たちに親しまれている小さな公園です。草花や木々に囲まれ、 四季の移ろいを身近に感じながら、ひと休みや散策の合間の いこいの場として利用されています。百花園の歴史ある風情と ともに、穏やかな時間を楽しめる場所です。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-18 |






![]() |
清瀧山観音院蓮花寺 (蓮 花 寺 の 庭 ) 鎌倉幕府五代執権北条時頼の甥頼助が建立、鎌倉に建立した蓮華寺を 時頼が当地へ遷したと伝えられています真言宗智山派の寺院で、江戸 時代には、霊験あらたかな厄除け寺島大師として有名で、川崎大師 平間寺、西新井大師総持寺とともに江戸三大師に数えられていました。 境内に広がる「蓮花寺の庭」は、四季折々の草花とやわらかな木立に 包まれ、訪れる人の心を静かに整えてくれます。春の新緑、夏の 木陰、秋の彩り、冬の凛とした空気――どの季節にも穏やかな美しさ があり、日常の喧騒をしばし忘れさせてくれます 住 所 / 東京都墨田区東向島3-23-17 電 話 / 03-3612-1658 |

![]() ![]() ![]() 〈墨田区登録文化財〉 道 標 ・二基 所在地 墨田区東向島三丁目二三番一七号 蓮花寺内 「女人済度御自筆 弘法大師」の道標 左右側面に「大しみち(大師道)とあり、もと地蔵坂を登った墨堤にあったものです。片方は蓮花寺で、 もう片方の「大しみち」は西新井大師を指したと考えられます。文化15年(1818)の建立です。台石に「と組」と 記されているので、江戸火消しが建てたのでしょう。 「厄除弘法大師」の道標 右側面に「西 白ひげ はしはみち(白鬚 橋場道)」とあります。文面から、門前に建てられて いたものと考えられます。文政5年の建立です。 ともに蓮花寺とはゆかり深い道標です。文化文政のころには「寺島の大師」として、川崎、西新井の大師と 並んで江戸三大師の一つとして栄えていました。厄除けの護符をいただきにくる大師参りの人々のために 建てられた道標に違いありません。 平成8年3月 墨田区教育委員会 |








![]() 亀田則恒之碑 (右側) この歌に、妻の七回忌に歌を手向けたこと、娘婿の金子勝五郎が歌を添えて彫らせた こと等が、歌同様懸詞をふんだんに使った技巧的な文で綴られています。 文政八年(1825)の建碑。 『老の身の 枯木にもまた死に花の さきだつ妻の碑に向島 91歳翁亀田則恒』 『浦嶋の 亀田則恒齢さへ つくことあらじ呉竹の杖 呉竹亭真直 俗称金子勝五郎治喜 |
本尊薬師如来の写し |
![]() 題郡盲評古之図之碑インドの寓話に、昔、鏡面王が 郡盲者に象を撫でさせ、それぞれ自分の思った象の形を述べさせた所、皆的外れの答えをした という話があります。郡盲者とは肉眼の盲者のことでなく、見性の無い衆生即ち衆愚のこと である等、心眼の大切さについて述べています。環中斎高独歩の撰並びに書で、 その門人山中抜山が、天保五年(1834)に建てたものです。 |
|


![]() 絵本江戸土産 10編其2 蓮花寺 |
![]() 絵本江戸土産10編 蓮花寺末広の松 |
![]() 江戸名所図会. 第4 著者:斎藤幸雄 [等著][他] 中央に、(本堂)(太子)があります |
![]() 寺島 太子堂 蓮華寺 (江戸名所図会より) タイトル:江戸名所図会 7巻. [19] 著者:松濤軒斎藤長秋 著[他] 出版者:須原屋茂兵衛[ほか] 出版年月日:天保5-7 [1834-1836] 中央に、(本堂)(太子)があります |
![]() |
幸田露伴作詩の校歌(旧名称は七高) (東京都立墨田川高等学校) 大正14年4月、府立七中(現在の墨田川高校)に校歌が制定され、 その校歌の作詩を手がけたのは、明治・大正期を代表する 文豪 幸田露伴です。幸田露伴は『五重塔』などで知られる文学者 あり、格調高い文体と深い思想性をもつ作品を数多く残しました。 七高の校歌にも、若き学徒の理想と気概、学問への志が、露伴 らしい力強い言葉で込められています。 作曲は童謡作家の弘田龍太郎です。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-34-14 電 話 / 03-3611-2125 |


![]() 墨 田 川 高 校 校 歌 作詞 幸 田 露 伴 作曲 弘田龍太郎 (墨田川高校ホームページより) ![]() |

|
![]() |
![]() |
|
向じま 志‘’満ん草餅 隅田川のほど近くに店を構える老舗で、明治2年の創業以来、 生のよもぎだけを使った昔ながらの草餅を守り続けています。 口に含むと広がるよもぎの深い香りと、やわらかく素朴な甘 さは、地元でも長く愛されてきた伝統の味わいです。 住 所 / 東京都墨田区堤通1-5-9 定 休 日 / 水曜日 電 話 / 03-3611-6831 営業時間 / 9:00~17:00 |



![]() 古きかな 志”満ん草餅(栞より) かつて古き隅田川沿岸の土手には蓬が自生していました。元来、蓬はちょっとした土が堆積した場所 には必ずと言っていいほど自然に繁殖し広範囲に分布していました。実際、お年寄りの方達等の話を 伺うと、時期になると自生している蓬を摘んできて自家製の「草餅」を作っていたと聞いたことが 有ります。今は時代も変わり、自生している蓬もほとんど見受けられないです。また、仮に自生して いたとしても環境汚染の影がありとても食用としての使用は出来ないと思います。弊店で使用して いる蓬は、栽培環境の整った完全管理された安心して食用としての蓬だけを使用しています。 110年以上の歴史を未だ忠実に守り続けている年間を通じて「生の蓬」だけを使用し続ける頑固な こだわり。生の蓬の色合いと香りはどんなに手間がかかろうとも、弊店をご利用いただけるお客様へ 素朴な和菓子「草餅」をお召し上がり頂く事が使命と考えております。 |
|
江戸のきびだんご 吉 備 子 屋 江戸の情緒を今に伝える、昔ながらの“きびだんご”の専門店。 香ばしいきな粉と、やわらかな一口大のきびだんごが評判で、 観光客はもちろん地元の人々からも長く愛されています。 浅草・浅草寺(観音さま)のすぐ近くに支店があり、 境内散策とともに気軽に立ち寄れる名物スポットとして人気。 参拝帰りにほっと一息つける、江戸の味わいが楽しめます。 住 所 / 東京都墨田区東向島1-2-14 定 休 日 / 月曜日 電 話 / 03-3614-5371 営業時間 / 11:00~17:00 日・祝 / 10:30~17:30 |




|
WILD KOKU・RESTURANT(SPICE CURRY) ワイルドコク・レストラン 欧風スパイスカレー店 丁寧に調合されたスパイスが織りなすカレーは、深いコクと 香りがありながらも上品な味わいが特徴です。彩り豊かな 盛り付けも美しく、目でも舌でも楽しめる一皿です。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-33-2 電 話 / 070-8988-5614 定 休 日 / 月・火 営業日 /水・木・金・土・日 営業時間/11時30分~14時30分 ランチ / 11時30分~14時30分 テイクアウト/11時30分~14時30分 |


![]() |
![]() 美味しい! |

|
ラザニアと世界の家庭料理 ロカンタ ロカンタはトルコ語で「食堂」の意味。大切な人を思いながら 丁寧に作った世界の様々な料理のデリカテッセンです。 ロカンタさんに出会てラッキーです!又ランチしたいです。 ゲストハウス『墨田長屋』 @sumidanagaya を併設! 住 所 / 東京都墨田区東向島3-33-2 定 休 日 / 火・水・毎月第二月曜 営業時間 / 11:30-18:00 日曜のみ / 11:30-17:00 |



|
押上せんべい本舗 東向島店 橙色のひさしが目を引く店先に並ぶのは、丁寧に焼き上げられた 手作り煎餅やおかきの数々!店内には、定番の醤油煎餅をはじめ、 ざらめ・胡麻・海苔・あられなど、素朴でどこか懐かしい味わい がずらり。一袋ずつ心を込めて包まれた煎餅は、普段のお茶請け はもちろん、ちょっとした手土産にも喜ばれます。 通りに面した開放的な店構えと、温かな雰囲気が、下町・ 向島らしい人情を感じさせてくれる一軒です 住 所 / 東京都墨田区東向島3-32-8 定 休 日 / 日曜日 電 話 / 03-3610-2528 営業時間 / 9:00~18:30 |



|
向 島 松 む ら いなり寿司、のり巻き専門店 向島の路地に静かに暖簾を掲げる「松むら」は、昔ながらの味 を守り続ける稲荷ずしの名店です。ほんのり甘めに炊き上げた 油揚げは、口に含むとじゅわっと旨みが広がり、中の酢飯との調和 が絶妙。派手さはありませんが、飽きのこない優しい味わいが、 地元の人々に長く愛されてきました。栃木県下野市の日本で最上級 のかんぴょうを使用しています。 住 所 / 東京都墨田区東向島1-15-12 定 休 日 / 火曜日 電 話 / 03-3612-5045 営業時間 / 7:30~18:00 |


|
和菓子処 栄 堂 地蔵坂の途中、郵便局の隣に静かに暖簾を掲げる老舗の和菓子処。 白い外壁に金文字の店名が映える佇まいは、長年この街で親しま れてきた安心感を感じさせます。店内のショーケースには、素朴 でやさしい表情の和菓子が並び、なかでも人気は、粉をまとった ふっくらとした大福餅。口に含むと、なめらかな餅のやわらかさ と、甘さを抑えた餡の風味が広がり、どこか懐かしい味わいに 心がほどけます。派手さはなくとも、丁寧に作られた和菓子は、 散策の途中のひと休みや、お土産にもぴったり。 住 所 / 東京都墨田区東向島1-4-8 電 話 / 03-3611-1670 |



|
Otis Ham&Salami (生ハム、サラミの製造工房) サラミや生ハムを丁寧に仕込む小さな製造工房です。厳選した素材 伝統的な製法にこだわり、時間を味方にゆっくりと熟成させること で、肉本来の旨みと深い香りを引き出しています。工房ならではの 静かな空気の中で生まれる味わいは、大量生産では決して出せない、 手仕事の温もりそのもの。地元では美味しいと評判です。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-32-4 電 話 / 03-6657-1384 定休日/日・月曜日 |



|
靴屋 OTTOMO ( 手製靴・注文靴 )イタリア仕込みの靴づくり イタリアで靴づくりの修行を積んだ職人による足にやさしい オーダーシューズのお店です。一人ひとりの足の形や歩き方を 丁寧に見極め、履き心地の良さを大切にしながら、美しさも 兼ね備えた「自分の足のための一足」を求める事が出来ます。 SHOES BRAND by @tomohiro.nagasawa 住 所 / 東京都墨田区東向島3-33-1 電 話 / 03-6657-1384 -Atelier opendays- / 月水土 Mon Wed Sat... |





|
(消しゴム) ヒ ノ デ ワ シ (株) 消しゴムブランド「まとまるくん」で知られる文具メーカー。 大正8年(1919年)に創業し、消しゴムづくり一筋に歩んで きました。使いやすさと品質へのこだわりは今も受け継がれ、 全国の学校や家庭で親しまれています。この地蔵坂の地は、 ものづくりのまち墨田を象徴する企業の一つが歩んできた 歴史を伝えています。 住 所 / 東京都墨田区東向島1丁目7−8 電 話 / 03-3619-0456 営業開始 / 月 9:00 |


|
壺焼き芋・向島芋笑 壺でじっくり焼き上げた焼き芋は、皮の中に甘さがぎゅっと 詰まった素朴なおいしさ。紅はるか、シルクスイートなど、品種 ごとの風味の違いも楽しめます。サイズはSからLまで選べ、 散策途中のひと休みや持ち帰りにもぴったり。時折、隅田公園の ソラマチ広場に出店。向かいの向島百花園に持参し、佐原鞠塢の 茶店で湯気立つお茶とともに味わう焼き芋は、静かな庭園の時間 にやさしく寄り添います。地蔵坂界隈の散策に、心ほどける 甘い寄り道です。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-24-2 電話番号: 080-1001-4470 |


|
百 花 珈 琲 (ヒャッカ コーヒー) 向島百花園に徒歩2分の近さにある自家焙煎の専門店。 丁寧に淹れられた香り豊かな珈琲と、静かで温もりある 空間が心落ち着くひとときを楽しめます。 ビッグプリンとアイスコーヒーの透明感がすきです! 住 所 / 東京都墨田区東向島3-15-24 電 話 / 090-4173-3605 |


|



|
PASTA&PIZZASANTINI パスタアンドピザ サンティーニ 向島百花園の目の前、百花園通りに佇む本格パスタとピザが 楽しめるイタリアンレストラン。季節の散策で心を満たした あとは、香り豊かなパスタや焼きたてピザでひと休み。 百花園の緑を感じながら、気軽に立ち寄れる一軒です。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-29-10 定 休 日 / 月 曜 日 電 話 / 03-3610-1323 営業時間 / 火~金:11:30〜14:00 17:30〜21:00 土・日・祝 11:30〜21:00 |



![]() |
大 貫 自 動 車 ㈱ 向島百花園の門の前にあり、地元密着の創業66年を 誇る老舗の民間車検工場です。癒しの向島百花園を 考慮して建てて下さった感じの建築物という 印象を受けました。自動販売機の設置の仕方と 自転車の勢揃いがユニークで可愛いです。 住 所 / 東京都墨田区東向島1丁目7−8 電 話 / 03-3619-0456 営業時間/ 月 9:00~18:00 |





|
(和カフェ&ギャラリー) 満 喜 「地蔵坂」は古くからの道やお地蔵様、歴史的建物・文化が点在する 街角で、散歩しながら地域の魅力を感じられます。満喜は、そんな ルートの中で「くつろぎの和カフェ」として紹介され、散策途中の 休憩と展示鑑賞の両方を楽しめるスポットとして掲載されています。 向島百花園も徒歩数分です!※2月と8月は、各1ヶ月お休みとなります。 駐車場完備。ギャラリースペースの貸し出しも行っています。 住 所 / 東京都墨田区東向島3-27-9 定 休 日 / 日&月曜日 電 話 / 03-3618-8529 営業時間 / 11:30~18:00 |



|
レストラン鳩 屋 銀座・木挽町にて1915年(大正4年)に開業し、100年を 超える時を重ねてきた老舗レストラン。1950年(昭和25年) に現在の東向島三丁目〈寺島広小路〉へと移り、下町の暮 らしとともに変わらぬ味と心を守り続けています。 長い年月を経てもなお、人々の記憶とともに息づく一軒です。 住 所:東京都墨田区東向島3-37-7(朝日プラザ1F) 定 休 日:火 曜 電 話:03-3611-8208 営業時間:11:00~14:00 17:00~21:00 |





