![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
【CARESSE】 yuta yoshizawa exhibition - Soul of Youth - 画家YUTA YOSHIZAWAの作品展。 渦巻く感情を作品に込めて。 ※caresseは仏語で「愛撫」の意。 会期:2025/4/6(sun)〜4/19(sat) 13:00〜18:00 夜お越しになれらたい方 は、別途連絡ください。 水・木定休 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 今 昔 ま ち 話 深沢七郎の夢屋(東京・東向島) 今はユニークな「書斎」に 「楢山節考」で知られる作家、深沢七 郎(1914~87年)が一時、東京都墨田区 東向島で今川焼き屋を営んでいたエピ ソードは有名だ。埼玉県にひらいた 「ラブミー農場」が暇な時期の道楽 だったが、「夢屋」と名づけた店は、 深沢自身が驚くほど繁盛した。店の あった建物は東武鉄道曳舟駅近くに現 存。かつて深沢が立ち働いた1階の一 室は、珍しい古書などが訪れる人を 楽しませるユニークな空間に変わっ ている。今の部屋のあるじは石川順一 さん(34)。本の装丁や、持ち主を示す ため、本に貼られた「蔵書票」の研究 家だ。古い時代の装丁や、蔵書票の魅 力を伝えたいと、自身の書斎も兼ねる この部屋を「ルプチパリジヤン」の名 で2014年から公開した。今の日本で蔵 書票を目にしたことがある人は少ない だろう。石川さんによると、欧州発祥 の蔵書票は明治期に日本にも伝わっ た。しかし日本はハンコ文化の国。 本には蔵書印を押す習慣がすでにあ り、蔵書票は普及しなかった。一方欧 州では、蔵書票の歴史は15世紀のドイ ツまでさかのぼる。当時本は希少で、 持つことはステータスでもあった。そ こで君主、貴族らが紋章や家訓を描い た蔵書票を表紙の裏に貼る風習が生ま れた。やがて庶民に広がり、版画やリ トグラフの使用もあってデザインが多 様化。19世紀には小さな版画として単 体で鑑賞されるまでになったという。 このころまでは本の装丁もオーダーメ ード。読むだけでなく、本棚を飾るイ ンテリアの意味があった。石川さんは 十数年前、洋古書店で偶然手にした総 皮で装丁された本に魅入られ、「モノ としての本」の研究にのめり込んだ。 今は蔵書票の歴史を「とことん調べる 」のが目標だが、簡単な蔵書票を作る 一般向けの教室や、深沢にちなんだイ ベントを開いたこともある。知人の紹 介で入居したこの部屋に、夢屋があっ たことは近所の人に教えられて初めて 知ったという。文学史に名を残す作家 の店とデジタル時代の異空間のような 「書斎」。たたずまいは全く違うが、 どちらも本にゆかりがあるところに不 思議な縁を感じる。 (中丸亮夫) |
ロ ケ 地![]() 言 問 橋 ![]() 隅田川桜橋への坂道 ![]() 向島白鬚神社の風景 ![]() 墨 田 聖 書 教 会 |
ルネシェヴィリコフスキ詩集(1冊1000円)![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() 〈墨田区登録文化財〉 山 玉 向 島 講 社 の 碑 所在地 墨田区押上二丁目三十七番 九号 高木神社 山玉向島講社は、かつて向島地域にあ った富士講(富士山を信仰する人々の 団体)の一つです。講印から、江戸時 代後期に成立した山玉深川元講から 分かれた講と考えられます。講の参 会には講印を配した祭祀具が用いら れ、富士山登拝の際には富士吉田の 御師「大番城」の屋敷に宿泊してい ました。沿革は不明ですが、明治七 年(一八七四)と記された祭祀具が伝 えられており、大正期には講員が一 00名以上であったと推定されていま す。本碑は、その山玉向島講社の人 々が明治三十一年(一八九八)九月に 建立したものです。本碑には、正面 に山玉向島講社の講印が彫刻され、 その中に「廿三夜」と刻まれていま す。これは、山玉向島講社の人々が 参会する日を示すと考えられます。 また、裏面には建立にかかわった世 話人十六名の名が居住地別に刻まれ 、建立当時の講社に先達、講元など の役割があり、当時の中心メンバー が須崎、中之郷、寺島の住人で構成 されていたことを示しています。十 六名のうち、碑銘彫刻師として知ら れる三代目宮亀年(元宮為吉)が名を 連ねており、碑刻者と推定されます 。世話人の経歴を調べてみると、須 崎の人々は墨堤常夜燈(墨田区登録 有形文化財)の奉納、寺島の人々は 寺島小学校の創立というように、 地域をあげての事業に関わる有力 者層でした。碑に刻まれた須崎、 中之郷、寺島の三区域の範囲は、 向島地域にあって大きい部分を占 め、山玉向島講社がそれまでの社 会生活上のつながりを超えた広が りをもっていたことが分かります。 山玉向島講社は第二次大戦中に活動 を停止したと考えられ、その具体的 な活動を知ることは難しくなってい ます。この向島山玉講社の碑は、近 代の墨田区における信仰と、地域の 結びつきの広がりを理解するために 欠くことのできない文化財といえます。 平成二十三年二月 墨田区教育委員会 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |